誓いの爪痕

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彼女は、本当に知らなかったようだ。 場所をダイニングに変え、簡単な食事を取りながら話をすることにした。 長い時間寄り添ってはいたが、ベッドでは何も話をしなかった。 エルバートは人間になった現実を、すこしずつ実感し思考を整理しようと。 エミリアは大切な尋ね人の存在を確かめるように触れて、温もりを感じようと。 その時間に、言葉はいらなかった。 「まさか、鍵が無かったなんて…」 目の前に座ったエミリアに、好物のミルクティーを差し出す。 その隣にはフォカッチャ。 彼女はうつむいて、テーブルに視線を落としたまま小さく呟いた。 ここまで歩いてくる間にした話のことだ。 エルバートが目を覚ました部屋ーーエミリアの生活空間として与えていた部屋の扉に一度も鍵を掛けていなかったことを告げた。 というより、そもそも鍵なんてついていない。 どうやら彼女は閉じ込められていると思い込んでいたようだが、エルバートにそのつもりはなかった。 逃すつもりは毛頭なかったが、必要以上に自由を奪うつもりもなかった。 「……そっか。そういえばあの夜、扉は開いて……」 視線は落としたまま、また呟く。 それが微かに聞こえて、エルバートは思わず口角を引きつらせた。 椅子を引いて自分に注いだ紅茶の湯気の向こう側に、彼女の様子を窺い見る。 エミリアの脳裏に浮かんでいるのはおそらく、彼にとって最も悔いる夜のこと。 ハッとしたように顔を上げた彼女の赤毛の間から、首筋の傷が覗く。 「さ、冷める前にいただきます!」 せっかく焼き直したんだから、とフォカッチャを両手に持ってちぎる。 その様子に、彼女はやはり察しがいい、とすこし複雑に思った。 良いのか悪いのか……。 それは時に自己犠牲も厭わない行動をさせることがある。 あの傷は、紛れもなくエルバートが自身の手で刻んだもの。 抗って、それでも止められなかった傷。 感触が、今でも、彼の心を蝕んでいる。 彼は、彼女を襲った。 一度ならず二度までも。 どちらも消し去ってしまうつもりで。 自分で望んだわけじゃない。 死神のドールだったから。 この世界のためだったから。 あれは、どうしようもなかった。 理由はいくらでもある。 話を聴いて、許してもらえないだろうか。 気にしないで、と言って笑いかけてもらえないだろうか。 ……など、そんな都合の良いこと望めるわけがない。 許されるはずがない。 それでもどうか、手だけは握っていさせて欲しかった。 彼女の温もりを失ったらきっと自分は狂ってしまう。 ……私にも温もりがあるのなら、彼女を温めてあげたかった。 それが凍てついた温もりなのだとしても、必要として欲しかった。 死神のドールは奪うもの。 与えることだって……できたっていい。 しなかっただけ。 しようと思わなかっただけ。 そう、思いたかった。 あの時にはもう迷いはなかった。 エルバートは自分が消えることを決めていた。 最後の使命を果たして戻った教会で、悪夢から目を覚ました彼女。 どうする? 魂の共鳴を自覚しているのかわからない。 混乱しているだろう。 闇の中に私を見つけたら? どんな顔をするだろうか? 泣く? 叫ぶ? 握っている手を振り払う? ライナスを想って、助けを願って……怯えた目で、私を見るのだろうか。 ……当然か。 …………当然だ。 だって私は彼女をーー 「ーー不思議」 ……? 「同じ夢を見るのです」 目を覚ました彼女は夢の話をして、エルバートに笑って見せた。 信じられない。 どうして…… 本気で消し去ろうと……命を奪おうとしたんだ。 彼の心の中で次々に紡がれていた負の思いが、ガラガラと崩れていく。 彼女が笑っている……? なにもかもを見透かしたように。 ……そうか。 彼女にはわかっているのだ。 奥深くに堕ちた魂を見つけてくれた時から、ずっと触れてくれている。 これ以上、沈まないように添えてくれている。 彼女だけが、死神のドールの魂の声を聴いていた。 誤魔化しなど必要ない。 誤魔化しなど通用しない。 自分でさえ聴こえなかった真意を、彼女は射貫いてみせたのだから。 「……一緒のベッドで眠りませんか?」 思いもよらない唐突な言葉に、思い返して整理していた思考が一気に”今”へと呼び戻された。 「ここで眠っていたのでしょう? わたしが来てからずっと……。ライナス様とアナタを運ぶ時、他にベッドがある部屋なんてなかったもの」 間違いない、と彼女は自信があるようで、椅子の背もたれから大きなブランケットを広げて見せた。 バツが悪そうに視線を下げれば、彼女のお皿にフォカッチャはもうなかった。 思ったより長く、自分の世界に入っていたようだ。 「……そういうことは安易に口にするものでは……」 「安易ではありません」 「いいですか? 私は死神のドールではなくなりました。ただの人間です。また違った危機感というものを……」 「違った危機感?」 わかりやすく首を傾けて身を乗り出してくる。 これにはエルバートもため息をついて刺さる視線から逃れようと、ぬるくなった紅茶を一口飲んだ。 彼女はわかって言っている。 エルバートの言葉を遮るなど、今までに考えられないことだ。 そうじゃないということは、そういうこと。 思い当たる節はある。 彼女は”人のために”自分の意思を通そうとする時、譲れないものを失いそうになった時、ブレることのない芯になる。 「他で言っていないでしょうね」 「初めて言いました。他で言うつもりはありません」 「……」 「……わかりました。嫌なら、わたしが床で……」 「では、今夜から一緒に」 じぃっと見つめてきていた視線が悲しそうにそらされて、エルバートにとってあり得ないような提案を持ち出そうとする彼女の言葉を遮った。 逆に私が床で、と言ったところで聴きそうにもない。 「ふふっ……」 微かに笑い声が漏れて、うつむいた顔がくしゃっと笑っているのが見えた。 また一口紅茶を口に運び、わずかに高鳴る胸に人間である幸せを噛みしめた。
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