誓いの爪痕

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「先に眠っていてもよかったのに」 今日は疲れた。 疲れた、ということで合っていると思う。 なぜか自分は生きていて、人間になっていて、彼女がいて、寄り添って、さらにはまさかの提案をされ、すこし気まずく微笑み合うばかりで結局、話はあまりできなかった。 いっぱいいっぱいだ。 簡単に飲み込めることではない。 もう考えるのはやめにしよう。 人間になって、彼女がいる。 それだけだ。 大きな幸せの中に足を踏み入れて、きっとしばらくは慣れないだろう。 今はただ、彼女を大切にする。 すべきことは、それがすべて。 「そんな……! 先に眠るわけにはいきません」 後ろから声を掛けたからか、はたまた他に理由でもあるのか、エミリアは肩を震わせて慌てた様子で振り返った。 ベッドの上、半分だけを綺麗によけて、座っている。 今から眠るのだと言うのに背筋は真っ直ぐに伸び、緊張しているようにも見える。 自分で言ったのですよ、と彼が困りそうになるが、可愛らしくて仕方がないと言うのが本心である。 エルバートは自分の胸に手を当て、素直な感情が流れてくるのを心地よく感じていた。 彼女も疲れているはずだ。 いつもならば書物に手を伸ばす時間ではあるが、早めに休もう。 そう思い、テーブルのランプを消して、ベッドに入る。 ヘッドボードの灯りが思ったよりも明るい。 彼女が動きそうにないので、エルバートは遠慮なく横になった。 予想通り、それを見た彼女もゆっくりと横になる。 肩が触れるか触れないか。 それでもじんわりと感じる温もり。 一人の時とはまるで違う温かさ。 優しい香り。 ブランケットをエルバートの方へ寄せてくるのがわかった。 そんなことをしなくていいのに。 彼女の優しさが痛い。 彼女の真っ直ぐな想いが痛い。 忘れないで、私は貴女のことをーー 「そばにいさせてください」 ほら、また遮る。 本当は、私が言わなければいけないことだ。 いや……言うことさえおこがましい。 叶うのならばそばにいて貴女のために生きたい、と思うことさえ。 命がある限り、私は償わなくてはならない立場だ。 「わたしがそばにいたいのです」 すぐ隣で、囁くような小さな声。くすぐられるような柔らかい声。 「それだけ……わたしが願うのはそれだけだから。許して……くれますか……?」 慎重に言葉を選んでいるのがわかる。 そんなこと、しなくていいのに。 彼女は魂の救済者であり、私は彼女に対する罪がある。 どうして貴女がーー 「……ごめんなさい」 エミリアは不器用だ。 エルバートよりもずっと、ずっと。 人に求めることを知らない。 人に願うことを知らない。 与えてばかりで、受けてばかり。 願うことを恥だと思うのか、やっと願ってくれたと思ったら、その直後には謝っている。 要らない、そんな言葉は。 彼女はエルバートを求めている。 それこそが、彼を生かした奇跡だ。 「……一つ、貴女が私にくださるのなら。私は貴女の願いを何だって聴くつもりです」 左側から視線を向けられるのを感じて、エルバートは開いていた目を閉じた。 眉尻を下げて、見つめてくる愛しい顔が浮かぶ。 人間になっても意地が悪い。 自分でもそう思いながら続ける。 「貴女の心を、私にください」 願うのはそれだけ。 なによりも贅沢で、私を満たす唯一のもの。 これ以上ない、欲深い願い。 さぁ、安心して。 貴女はまだ願ってない。 何も求めていない。 私を見なさい。 欲深く……愚かだ。 もうすっかり人間でしょう? 貴女も。 自分のために、私に願って。 貪欲に。恐れないで。 吐息が漏れる音を聴いて、エルバートは目を開いた。 左を向けば、やはり彼女はエルバートを見ていた。 細めた目は潤んでいる。 揺らめく水面のように美しく、光を放っている。 「……はい、必ず」 答えは約束。 今すぐに、ではない。 ちゃんとわかってもいる。 彼女の言葉の意味。 すぐには、全部は、きっと無理なのだということも。 「……では、私は貴女の願いを全て聴き入れます」 だから、ちゃんと願いを……。 また。 また願っているのは、私の方だ。 ブランケットの中で、指先が触れる。 細くて華奢な手。 驚いたのか、小さく跳ねた。 掴まえて包み込む。 必ず守ると決めた。 貴女を、心を。 恐る恐る、エルバートの方へ体を向けた彼女は左手を伸ばす。 自分の顔の前を通り過ぎたところで、ピタッと止まる。 その手も掴まえて、エルバートは自分の頬に当てがった。 本当に不器用な彼女。 微かな願いが見えたなら、その手を取って導けばいい。 微かに心が見えたなら、遠くから手招きすればいい。 だってほら、彼女はすこしずつ歩み寄ろうとしている。 人間として。 それでいて、誰よりも純粋なままで。 ゆっくり、顔を寄せる。 逃げようとする背中に手を回す。 拒んではいない。 頬を包む手はもう、彼女の意思だ。 首に顔を埋めると、彼女の体温が一気に上がるのを感じた。 傷を唇で包む。 頬の手が、慌てたように震えた。 ブランケットの中の手は繋いだまま。 暴れたって離しはしない。 彼女の首に残る痛々しい爪痕は、彼が死を望んだ証。 彼女に生きて欲しいと願った証。 そして今……命ある限り、彼女を守ると誓った証。 唇を離せば、彼女の顔は赤毛に勝るほど真っ赤だった。 やはり意地が悪いようで、思わず言ってしまった言葉が追い討ちとなる。 「……一緒のベッドで眠りませんか? そう言ったのは、貴女です」 あれは、彼のための彼女の提案。 大胆な言葉を彼女は自分のために使わない。 証拠に、彼女の心はこんなにも慌ただしくなっている。 余裕のない、可愛らしい人。 あの時と同じ、澄んだ心。 そうだ。 まだ聞かせてもらっていなかった。 “死神のドール”が窓の外を見る”邪魔者”の横顔を見つめている間、尋ねていたことだ。 言葉にできないまま何度も何度も……尋ねていたこと。 ーー貴女はあれから、どんな風に生きてきたのですか? 「さぁ、もう休みましょう」 真っ赤な顔と手を解放しても彼女はしばらく固まったままでいて、小さく唸ったと思ったら、背を向けて丸くなってしまった。 今夜はもう、そっとしていた方が良さそうだ。 エルバートは微笑むとブランケットを半分残して、眠りについた。 2人の時間は、まだ始まったばかり。
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