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まただ。
今日も胸がザワつく。
今まで感じてきたそれとは明らかに違っていて、気がついた時にはいつも、口元がへの字になっている。
ザワつく理由をいつも求めていた。
はっきりさせたかった。
でも今は、原因を目にしたら、そうじゃないんだと目を逸らしている自分がいる。
「ーーわたし、どうしちゃったの……?」
胸がキュウッと狭くなる。
目を閉じてわずかな痛みをやり過ごそうとするも、小さくなったしこりは消えてくれず胸の中に残り続ける。
そしてまた、原因を見てしまっては一気に膨れ上がり、縮むのだ。
思い当たるとすれば、一つ。
彼は頻繁に言い寄られ、それによる浮名が絶えないでいること。
聖職者といえば、柔和な壮年男性が多かった。
もちろん若い人も居るのだが、未熟なうちは修行も兼ねて、世界の中心に近い場所に配置されることがほとんど。
長い時間指導され、指導する立場となり、それを経て世界のあらゆる場所へと派遣される。
その時にはもう、いい年齢になっている場合が多い。
世界の一角のランデンヘやってくる聖職者は、特に長く経験を積んだ人が多かった。
ライナスが現れる前までは、”司祭”と位がついた人ばかり。
そして現在、エルバートは”牧師”だ。
司祭と牧師はすこし違う。
信じる神は同じだが、宣教方法、思想がところどころ違っている。
司祭が先に立って人々を導く存在だとすれば、牧師は人々と同じ歩幅で歩いていく存在。
司祭が神に代わって人々を許すなら、牧師は人々と共に悩み考えていく。
そのような違い。
かと言って、対立しているというわけではない。
神に救いを求める人々が、神にお近づきになる術として、適している方の手を取ればいい。
向く方向は同じ、方法が違うだけ。
だから、ランデンヘ初めて牧師が来たとなれば、町は賑わった。
若い、ともなれば、興味を引くには十分すぎる。
当然のように教会へ足を運ぶ人も増えた。
今では町全体が大きくなっているのだ。
昔のままで小さく感じるようになった教会が、人で溢れる日も少なくない。
「ーー許されたければ祈りなさい。そして授かった善意を、相手を想って与えるのです。次へ次へ。それはずっと連なって……」
エルバートが礼拝する姿を初めて目にした時、エミリアはやはり彼は人とは違うと思った。
彼は、神の代弁者ではない。
神だった人。
実在の神と信仰の神が違っても、彼らの神がライナスのことを指しているのだとしても……彼は、神だった人。
「死神様……」
教会の入り口のすぐ近く。
エルバートが立つ祭壇から一番離れた場所から、無意識に呟いていた。
「ーー慈悲深き我らの神が、死神からあなたの運命をお守りくださるでしょう。遠く、あなたの道をお示しくださるでしょう」
聖書を閉じ、顔を上げたエルバートと目が合う。
小さく首を横に振ったが、彼は微笑むだけだった。
聖堂は徐々にざわつき始めて、人々は腰を上げる。
午前の礼拝はこれで終わり。
エミリアは扉を開き、そのまま聖堂の様子を見続ける。
彼の仕事が一旦の終わりを迎えるには、まだ時間がかかる。
順番にエルバートへお礼を伝え、人々が教会を後にしていく。
知り合いの町人こそ扉の横に立つ彼女ににこやかに笑顔を見せて出ていくが、外部からやってきた人々は彼女を一瞥すると眉を潜めて出ていくことがほとんどだ。
もう慣れた……というのは嘘かもしれないが、気にしてばかりいるわけにもいかない。
気にしないふりの癖がついてしまっていた。
彼へと視線を戻せば、また。
また、だ。
胸がザワザワと波打ってくる。
祭壇の彼を取り囲む、若い女性たち。
黒髪、金髪、茶髪……生まれ持った艶やかなロングヘアが美しい女性たち。
自分よりずっと華やかで、大人。
彼の隣がよく似合う、そういう人たち。
きっとああいう女性のことを”ふさわしい”というのだろう。
彼女は自分が目を泳がせていることに気づかないまま、そんな風に思っていた。
眉尻が徐々に下がっていることにも気づかないまま。
「皆さま、今日もお幸せに」
エミリアは、教会に訪れた人々にいつもこの言葉を添えて送り出す。
どんな表情を向けられても、ずっとこの言葉を送り続けてきた。
彼女が願ってきたのは、人々の幸せ。
彼女が願っているのは、彼と、人々の幸せ。
そこに、彼女自身の幸せは入っていない。
幸せとは、彼と人々の幸せ。
そうなのだと、生まれた時から思っていた。
当たり前に思ってきた。
だから今も、そう信じていた。
もう一度、視線を彼へ向ける。
一人の女性を連れて、祭壇脇の懺悔室へ入っていく様子が見える。
礼拝が行われるたび、目にしている。
なんてことない。
これも、牧師である彼の役目ーー
「はぁー。残念! なんで私じゃないわけ? こんなに着飾ってきたのに!」
ほかの女性たちが、扉へと歩いてくる。
近くになって、彼女たちは口々に話し始めた。
「そう簡単にはいかないわよ。あんなに高貴で端麗な人、見たことある!? 私はない。今後出会うこともないって」
「それに加えて牧師様なのよ。柔和な内面に、クールな見た目……ステキよね〜!」
「あの若さでここにいるなんて、秀才なんだわ〜!」
圧倒されるように会釈をして、顔を伏せた。
彼女たちの言葉通り、彼が目当てで教会へ訪れている人も少なくない。
目的がなんであれ、教会は人々を受け入れる。
彼女は幼い頃から知っている。
ずっと見てきたのだ。
いつでも心穏やかに、いつも通り過ごすつもりだった。
にっこり笑って、人々の幸せを願って。
それなのに、胸にしこりが残るようになってしまった。
突っかかって、ジクジクと心を痛め、彼女を憂鬱にさせる。
こんなの、ダメなのに。
きっとわたしが……変なのね。
そう思い続けて、今に至る。
「ねぇ、ちょっとあなた」
すぐ近くで声がして、ハッとして顔を上げた。
視界が揺らいだあとに、金髪の巻き髪を横に流した女性に視点が合う。
夏空のように、晴れたくっきりとした青色の目。
強さがあるのに、ガラス玉のように透き通る青の瞳が美しい。
「ただの世話人なんでしょ? あまり視界に入らないで。牧師様と親しそうに……目障りなの」
「ごめんなさい、わたし……」
反射的に口を開いたものの続きが思い浮かばず、すぐに言葉が途切れてしまった。
あれ?
何を言おうとしてる。
言えることなんてある?
何も、ないじゃない。
わたし……彼の、何者でもない。
思い返してみる。
……そうだ。
ただそばにいたいと、わたしが願っただけ。
彼はそれを、聴き入れてくれているだけ。
わたし、何者なんだっけ……
彼の幸せは……
彼が幸せになるには……
そのお手伝いを、わたしはしたいだけ。
彼が幸せそうに笑うのを近くで見ていたいだけ。
……それ、だけ……?
わたしが彼のものでも、彼は……わたしのものじゃない。
「……気に入らないのよ。牧師様のそばにあなたみたいな人がいるの。あなたみたいな……”赤毛”が、ね」
伸ばされた手が、エミリアの髪をすくう。
装飾された爪に引っかかって、痛い。
彼女の後ろで、他の女性たちが不快感を露わにしているのが見える。
わかっている。
この、”髪色”のせいだ。
ランデンが、のどかな田舎町だった時は思いもしなかった。
この髪が、忌み色だとは。
赤毛は本来、ありえないとされている。
彼女以外にいないとされている髪色。
それを神聖に思った町人はみんな、綺麗な色だと褒めてくれた。
ランデンに赤毛を忌み嫌うならわしは一切なかった。
しかしどうやら、世界の多くでは忌まわしき色として扱われるらしい。
人々は異色を嫌い、かつては排除しようと、ないものにしようとされていたようだ。
あまりに明るい茶髪を赤毛とみなし投獄対象とされていたようで、ライナスの降誕によりずいぶんと禁じられたものの、それでもやはり考えは根強く人々の心に残っている。
当然、人々の流入と共に思想もランデンヘと入ってきた。
彼女は、完全なる赤毛。
血の色と同じ、忌まわしき赤。
こんなにはっきりと言われたのは初めてだ。
「……気をつけます。皆さま、今日もお幸せに……」
この場から早く離れたかった。
胸が痛い。
苦しくて、みっともない顔になりそうだった。
もう慣れている。
慣れているんだ。
ライナスへ仕えていた時も、このようなことはあった。
教会を開放していなかっただけあまり気にはしないでいられたが、わずかに感じることはあった。
今さら……今さら……。
相手の手に触れないように、自分の髪を引き戻し会釈をする。
背を向けて、素早くその場をあとにしようとした。
「不吉な世話人に、幸せを祈られても……ねぇ?」
気味悪そうに吐かれた言葉が、背後から胸に刺さる。
彼女たちの心に影が落ちるのを感じる。
それが自分のせいだと、言われなくてもわかってしまう。
ただの嫌がらせではなく、魂が怯えているのも。
本当に信じて言っているのだ。
声が遠ざかっていくのと同時に、エミリアも聖堂をあとにした。
廊下を駆け抜けて、ダイニングへ逃げ込むように入って扉を閉める。
数度深呼吸をして、心を落ち着かせようとした。
美しい女性と懺悔室へ入っていく彼の姿と、彼女たちの純粋な嫌悪感とがぐちゃりと混ざり合っていく。
大きなしこりがかき乱していく。
幸せそうな顔をして連れ立っていく。
彼と一緒に、女性たちは。
毎回見てきた、違う女性たちの顔。
喜ばなければいけない。
幸せそうな姿を。
だってそれが、わたしの願っていることなのだから。
胸をざわつかせ、気分を塞ぎ込ませている自分はなんて醜いのだろう。
動けないまま、顔を伏せて思い悩んだ。
「……ア? ……エミリア?」
時間が経ってしまったのか。
彼の声だ。
ビクッとして、背後へ意識を向ける。
もたれかかって押さえてしまっていた扉のドアノブが、動いている。
「あっ! えっと……ごめんなさい、すぐ退きますから。すこしだけ、お待ちください。」
慌てて返事をする。
上手く誤魔化せただろうか。
明るく、聞き分けのいい世話人。
手のかからない、役に立つ世話人。
そうでしょう?
それでもいいからって……願ったんだから。
「……」
「あ、あとちょっと……」
さも何かをしていて、扉を開けられないでいるかのようなふりをする。
もう大丈夫、笑顔は……できてる。
「お待たせしました」
「……」
扉を離れると、ゆっくりと開かれた。
毎日、一番近くにいる人。
でもずっと遠くに感じる、神秘的な人。
なによりも大切で、欲しかった人。
視界のほとんどが黒に覆われて、一息ついた時には思ったよりも彼が近くにいることに気がついた。
「……お疲れ様です、牧師様」
「貴女はそう呼ばないようにと、お願いしたはずですよ?」
やってしまった、と思わず目をそらす。
何か言わなくてはと焦って、つい言ってしまった。
「し、失礼しました」
「お疲れ様です」
ピクリとも表情を変えずに瞬きもせずに、それだけ言って至近距離で彼が見つめてくる。
赤い目が陰っている。
切れ長の目を細めて、鋭く彼女の目を覗き込む。
彼女も笑顔を崩すことなく、ジッとしていた。
「あ、あの……」
「なんでしょう?」
そのまま数秒、いや、数分か。
時が流れた気がして、やむなく口を開いたのはエミリアだった。
「何か……?」
「いいえ」
いいえ、と言われても……と困ってしまう。
何もないわけがない。
赤い目が不満そうな気持ちをいっぱいに表している。
おそらく、感づいているのだろう。
彼女の微妙な、変化に。
不意に手が伸びてくる。
顔に向かって、この感じはきっと、頬を包もうと……
ビクッと体が跳ねた。
……え?
それに彼女自身驚いて笑顔が歪み、脆く崩れていく。
目を見開いて、自分の反応に困惑する。
どうして?
気がつけば自分を守るように、彼に距離を感じさせるように、胸の高さで両手を向けていた。
彼の立ち入りを、無意識に拒んでいた。
怖くて彼の顔を見れない。
彼の赤い目に、責められたくない。
「……」
「……」
「……午後は休んでいなさい」
身を引いた彼は気遣うような柔らかい口調でそう言って、2、3歩後退り、ダイニングを出ていった。
控えめに閉められたはずの扉の音がずれて重なって、しばらく胸に響き続ける。
彼を拒んだ自分が怖くなった。
この世界に彼を求めたのはわたし。
そばにいてくれる。
とても優しくて、温かくて。
どうして、彼を怖がったのか。
自分自身が、わからなかった。
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