嫉妬の覚え

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空が綺麗だ。 群青のキャンバスに散りばめられた光の粒。 だんだんと日が暮れて、夜空になっていくのと共に、エミリアの心も落ち着きを取り戻してきた。 ーー貴女の心を、私にください 彼の言葉が何度も何度も胸の内で鳴る。 聖なる地の教会で、彼女の願いを聴く代わりに彼が出した条件。 喜んで受け入れた。 そのつもりだった。 救われた時のこと、離れていた間のこと……知りたくて、知って欲しくて、自然と心を通わせ合えると思っていた。 自分たちを妨げるものは、もう何もないのだから。 わたしは、役立たずだ。 そばにいたいと願ったのは自分なのに、それが叶っているのに、心が不満を訴えてくる。新たな望みを欲してくる。 自分の心が穢れていると思っては、彼に見せるわけにはいかないと思った。 ふさわしい人でいたかった。 清く、美しく、それでいて芯の通った心を持つ女性。 彼女の思い描く憧れの女性像。 彼の隣が似合う、勝手に作り上げた理想像。 心はずいぶんと自由になった。 そのことに喜びを感じつつもエミリアは、今までありもしなかった感情の流れに戸惑い、受け入れられずにいた。 純粋に相手を想って、大切に…… それが時々苦しくなる。 想ってばかり。 自分の願いだって叶えたい、そんな気持ちが心の片隅から湧いてくる。 胸でずっとざわついている。 このざわつきが言葉になって、彼女自身へと訴えてくる。 彼の、唯一の存在でありたい。 「こんなこと言えない……」 頬を生温い涙が伝って、彼女は自分が泣いていることに気がついた。 窓枠にかけた手にぽつりと落ちて、粒が増えていく。 午後の礼拝。 彼の目に映らない場所からこっそりと見守った後、午前とはまた違う女性たちに囲まれるような光景になって、その場を去った。 あの丘で空を見ています。 すこしだけ、一人にさせてください。 簡単な書き置きをして、自分の家に帰ってきた。 空を眺めるのにはここが一番だ。 遠く潮騒の音を聴きながら太陽の沈む水平線を見て、笑顔の練習をする。 彼が安心できる笑顔を。 人々が思わず笑ってしまうような笑顔を。 それが、わたしの役目。 幸せを願う者の役目。 見破られるようじゃ、まだまだ……彼のそばに不似合いだ。 口角を上げたまま、辺りは暗くなった。 涙が流れていることに気がついても、未完成な笑顔は、張り付いたままだった。 「……一人の時間は、まだ必要ですか?」 振り返った扉の向こう、伺うように控えめな声がする。 鍵をかけた扉は、二人の心に立ちはだかった壁と同じような距離感を思わせた。 涙を拭うと、こちらを向く彼の姿が見えるような気がした。 まるで自分のことも見えているかのように、目が合っている気がした。 「……」 「……今夜はここで休みます。わがまま言ってごめんなさい……ちょっと考え事をしたくて」 「私がいてはいけませんか?」 すぐに返事が来る。 作った笑顔にヒビが入るような感じがして、出て行く自信がなかった。 本当に弱い。 きっと余計な重荷をかける。 いつものように笑って「お疲れ様です」と言えばいいのに。 元気よく手を引いて、もう眠りましょう、と誘えばいいのに。 そこまで、今日が終わるまで、頑張れる自信がなかった。 「……一人でいたいんです。ほら、今までここで過ごすのは、ずっと一人だったから」 ふふっと、取ってつけたような笑い声を添える。 明るく放った言葉が、チリチリと空間に破れて消えていく。 「……」 ちゃんと、彼に届いているだろうか? ……呆れてしまった? 勝手にしなさい、そう言うだろうか。 初めてだ、こんなこと。 聖なる地の教会でも、ランデンヘ来てからもずっと一緒だった。 本当に幸せだった。 だって彼が笑うから。 彼女もつられて笑顔になった。 笑顔を”作る”なんて、考えもしない時間を過ごした。 それなのに、今はーー 「そうですか……。扉を蹴破りますから、下がっていなさい」 「あ……えっ!?」 「開けるつもりがないなら仕方ありません」 「ちょっ、ちょっと待ってください!」 「はい?」 「そのっ……どうして……。今日だけは、一人にさせてください」 言葉に詰まりながらなんとか話をする。 ゆっくり考えて返事をする時間はないけれど、入ってこられては困る。 眉尻が下がって、情けなくわめく姿が目に浮かんでしまう。 「顔を見せてからもう一度言ってください」 冗談とは思えない本気の声色に、慌てて鍵を開けた。 カチャリと軽やかな音がして、鳴り止まない間に開く扉。 入り口に立つ、大きな人影。 顔はやはり上げられず、足首で揺れる黒衣を見ているのが精一杯だった。 「見くびられたものです」 呆れたような、悔しそうな、悲しそうな、怒気を含む声色。 恐れていることに体が跳ねた。 「貴女が私を必要としないなら潔く身を引きましょう。ただし、貴女が心からそう願うならです」 両手で頬を包まれて、顔が上を向く。 親指が頬を撫でて、涙の跡を消していく。 「嘘でもそうさせたいなら、信じさせてみなさい。私を騙してみせなさい」 あぁ……彼は時々、意地悪だ。 心を見透かして、何も言い返せないように言う。 わたしがこんなにも隠そうとしている心の穢れを見つけては笑う。 「できるものなら、ね」 優しい表情で、サラッと言ったりして。 ひどい……。 このままじゃ、どんな顔したって隠せない。 両手で包まれた顔に浮かぶ感情がどんなものでも、彼に映ってしまう。 本当に、ひどい。 ここまでしてもらわないと、心を見せられないなんて。 わたし……なんて子どもで、未熟なんだろう。 「私のために散々泣いて見せた貴女が、どうして自分のための涙は、一人で流すのでしょうね……」 頬に手を当てられたまま、後ろへ導かれる。 ゆっくり後ろへ下がりながら、背から腰へと軽くなぞられると、簡単に上体が倒れた。 力ない体の衝撃がベッドに吸収される。 あぁ……ダメ。 目頭が熱くなる。 泣いてしまう、彼の前で。 みっともなく。 わたしはいつでも、笑っていなくてはいけないのに。 彼の生きる日々に笑顔を添える。 それすらできずに、彼の隣にいさせて欲しいなんて。 どうか幸せでいて欲しいなんて、願う者としてあまりに頼りなく……ふさわしくない。 人間になって、心が豊かになった彼の感情を、かき乱す存在が、自分であってはならない…… 「貴女の心は、喜びだけですか? そんなに乏しいものなのですか?」 ブワッと、決壊したように一気に涙が流れ落ちる。 穢れた想いに濁った涙が枕を濡らして、見られてしまうように思った。 それでも止めどなく、流れて流れて…… 彼の顔が歪んで見える。 月明かりに照らされた白い肌、赤い目。 一緒にいると、胸が高鳴って、胸が苦しくなる人。 どうしようもなく、心を落ち着かせて、心をざわつかせる人。 ちっぽけなわたしを包み込んでくれる、大切な人ーー 額に彼の額が当てられる。 近くて、もう隠せない。 目を閉じても、彼の赤い目が優しく笑っているのがわかった。 腰から離れた手で涙を拭われて、手いっぱい濡らしていく。 いろんな思いが洗い流されていくように、胸が少しずつ軽くなった。 力が入った両手で無意識にシーツを掴んでいたことに気がついてからすぐ、力が抜けた。 彼は今、彼女だけを見ている。 一番近くで、逃げられない距離で。 彼はいつでも、彼女だけを見ている。 そんな風なことを、わからせるように。 涙に濡れた赤毛を撫でられながら、次第に彼女は落ち着いていった。 「……」 ベッドで二人寄り添って窓から星を見ていた。 月を囲うように輝き続ける。 彼の片手を膝の上で大事に包み込んで、形を確かめるように、温もりを確かめるように、優しく撫でる。 「……胸が……苦しくなるのです。アナタが懺悔室へ向かうとき。変なの、当たり前のことなのに……」 話始めると、胸がきゅーっと締め付けられる思いになる。 さっきまで撫でていた彼の手をギュッと握ってしまう。 「似合ってるって……彼女たちの方がアナタの隣。怖くなって……わたしではダメだ。今のままではダメだ」 滅茶苦茶だ。 自分の気持ちを言葉にすると、こんな風になるなんて。 何言ってるだろう。 こんなの、伝わるものも伝わらない。 「こんなの……ダメ。何一つ役目を果たせていない。穢れた心なんか嫌……でも感情は思い通りに動いてくれなくて……。アナタは……そばにいてくれているのに」 握った手がピクリと震えた。 それが彼女へと伝わり、身を震わせる。 覗き込むように彼の方を向いたが、彼は強く真っ直ぐにエミリアを見ていた。 目を逸らすが、すぐに彼へと戻ってしまう。 「どうすればわかって頂けますか?」 「……」 「同じように苦しくて、貴女が塞ぎ込むのを見るともっと苦しくて。貴女の涙を見るのも苦しくて……苦しくて仕方がない」 やっぱりそうだ。 お互い苦しいんだ。 よくない……? やっと、叶ったのに。 一番欲しい時間を手に入れたのに。 そこにはなぜか、苦しみがあって……ツラくて。 もういっそのことーー 「……ですが、こんな幸せなこともない」 そう言った彼の顔は、綺麗な笑顔だった。 自然で、柔らかで、見ているだけで安心する。 あったかい笑顔。 「さっき貴女が私の前で泣いたとき……嬉しくもあった。貴女が苦しみを言葉にしたとき……ホッとしました」 「それは……」 「意地悪だと思いましたか?」 ふっと笑って、彼はもう一方の手を彼女の頭の上へポンと置いた。 「綺麗なだけの心なんてつまらないでしょう。苦しみを一人で背負わせるなど誰にだってできます。私をそんな存在にさせるつもりですか?」 赤毛を撫でられる。 いつも彼は、彼女が落ち着くまでこうしてくれる。 元気に笑って見せた日も、体調を崩した日も、嬉しくてはしゃいだ日も……不安定になった日も。 「私にとって貴女は、唯一私を苦しめる人。……私を、幸せにできる人です。似合う? 似合わない? 私の気持ちに全く意味をなさない概念です」 また泣きそうになる。 赤く腫れた目に再び、涙が溢れてくる。 ーーアナタが泣いているから なんて、彼が死神のドールの頃によく言ったものだ。 自分自身、泣き虫のくせに。 「あぁでも……また貴女を泣かせていると、ライナスの逆鱗に触れますねぇ」 思わず笑ってしまう。 最後に別れた時のことを思い出す。 帰り際、 「祝福はするが、よーく覚えておけ。エミリアを泣かせたと聴けば即、引き離しにくるからな。全く、お前は感情の扱いが雑でーー」 お迎えの人たちに促されながらも、ずっと彼に言い聞かせていた。 嬉しそうに、心配そうに。 見えなくなるまで。 「わたしも……」 苦しい。 でも、幸せ。 不安ばかりつのる。 でも、それを吹き飛ばしてしまうのもまた、彼だけだ。 「アナタだけ」 こんなにも心をかき乱す人。 汚く濁らせてしまう人。 わたしでいいなら……穢れも含めてもらってくれるなら、それに応えるのもわたしの役目。 ただ、時間がかかるから、まだ、受け入れ切れないから、すこしずつ、すこしずつ…… 彼が撫でてくれる赤毛。 キスを落としてくれる赤毛。 誰に何と言われても、その価値はもう二人の中で決まっている。
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