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フシギナハナシ
手帳
「お嬢さん、お聞きしたいことがあるのですが。」
傘を差して突っ立っていた私に、見知らぬおじいさんが話しかけてきた。グレーのスーツを着た、老紳士のようである。
「このあたりに、手帳が一冊落ちていませんでしたか。
赤い表紙の、小さな手帳が。」
私は言われるまま、周囲にあるだろうかと見回した。
なさそうだな、と思ったあと、おじいさんの足元へ視線を落とすと、そこに赤いものがあった。
赤い手帳は雑草に半分隠れていた。
「足元に、ありますよ。」
「え……。ああ、こんなところに。」
おじいさんは大しておどろきもせず、それを拾い上げた。本当に鮮やかな赤い表紙だ。傷も汚れも見当たらない。
「見つけていただいて、ありがとうございます。これがなくて、本当に困っていたもので。」
そう言うと、私の返事を待たずにおじいさんは歩き出していた。
歩きながら、彼は手帳をめくっている。
なぜだろう。そのたびに空色の蝶が飛び立っていくのが見えた気がした。
月下美人
もう何年も前のことになるが、私は一度だけ、月下美人の花を見たことがある。
サボテン好きの知り合いがいて、ぜひ見てほしいと誘われたのだ。
梅雨が明けて、やっと夏らしくなってきたころだった。
知人の家は山の中にぽつんと建っている。夜になると外は真っ暗で、ゆっくりとした風の音だけが聞こえてきた。
そろそろ花が開くころだよ。行こう。
彼女と一緒にベランダへ出ると、確かにそこに白い花が存在していた。
けれども私はそれを『花』と呼ぶのはふさわしくないと思った。あまりにも美しく、ほかの花とは比べ物にならないのだ。自分の目を疑ってしまうほどの純白。
美しい人に会ったときのように、私は緊張していた。
本当だ。びっくりするくらいの、美人だよ。
でしょう。なのに、ほかのみんなはさ、このひとの良さが分からないって言うんだよ。
写真を撮るようなことはしない。私たちは月下美人を見た後、すぐに寝入った。
翌朝、私はベランダの鉢植えを眺めていたが、あの白い花弁はどこにも見当たらなかった。彼女が言うには、月下美人はしおれた姿を人に見られたくなくて逃げてしまったらしい。
白桃
店先に、熟れた白桃が並んでいる。
水気を含んだあまい匂いは道端にいてもわかる。懐かしい感覚だった。
小さいころには、よく家で桃を食べた。近所からおすそ分けでよくもらっていたのだ。食べた後に、種を庭にまくこともあった。たしか、結局ひとつも芽を出さなかったのだが。
夏といえばスイカといわれるが、我が家では夏といえば白桃だった。桃のあまい匂いを吸い込むと、今年も夏が来たのだとうれしくなった。
桃を食べるという習慣がなくなってしまったのはいつだろう。皮をむくのが上手かった姉は、いつの間にか家からいなくなっていた。その後からかもしれない。記憶はあいまいで、どうして憶えていないのかすらわからない。
桃を食べたときのことは、実はすべて夢だったのではないかと思うこともある。けれども、懐かしいという感覚は本物なのだ。
今年も、夏がやってきた。その小さな安心感と喜びは本物だ。
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