心臓に花 女王には甘い秘密を(番外編)

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「明日は春宵祭だし、野崎には活躍してもらわないと困るから不問にしておいてあげましょう。今日のところは」 「ただの冗談だって。押し倒しただけでなんにもしてないからな、言っとくけど」 「押し倒しただけ?」 「う、あ、ごめんなさい」  伸がなぜ馨に謝るのか、大和にはわからなかった。だいたい、伸の言う通りただ押し倒されただけで殴られたり、蹴られたりしたわけではない。あえて言うなら床に当たった頭が少し痛かったが、大和はそんなことがあったことさえすでに忘れていた。 「夏川、あんまり野崎を虐めてやるな。ただふざけただけなことは俺も保証するから」  見るに見かねたのか、慶吾が横から助け舟を出した。 「はいはい。じゃあ、野崎が明日ひとりで二十点以上得点を取れたら永久的に不問にするから。ま、せいぜいがんばって」  馨はにこやかに微笑んだが、その笑みは先ほど寮生たちに向けられたものとは質がちがった。なにがどうちがうのかは大和は上手く言葉で説明できないが、今の馨はなぜか笑っていながら笑っているように見えなかった。 「せいぜいって、おまえ、それが仲間に対しての励ましの言葉か!?」  馨の言い草にムッとしたらしく、伸は胸もとに指を突きつけるようにして言った。が、馨と目があうと、すぐにたじたじとなってしまう。 「ほら、今日はもう解散だ。部屋にもどって各自休むこと」  泉の言葉でようやくその場はお開きとなった。  大和は馨の後をついて廊下に出た。馨は振り返ることなく真っ直ぐに廊下を歩いていく。  なんとなく、なんとなくだがその背中に拒絶されているような気がする。  あれからというもの馨は大和に優しすぎるくらい優しかった。部屋にいる時間が長くなったし、当たり前のように抱きしめてキスしてくれる。  だけど、いま目の前を歩いていく背中は明らかに大和を拒んでいた。触れたらはねつけられる気がして、大和は伸ばしかけた手をぎゅっと握りしめた。  寮長室のドアを閉めるやいなや、馨は手首をつかんできた。見上げた顔には一切の笑みがない。  たぶん馨は大和に腹を立てている。怒らせるような真似はしていないつもりなのに。  夕食前も、その最中も、馨はいつもと少しも変わりなかった。大和の好きなおかずをわけてくれたし、話しかければ笑って返事をしてくれた。  夕食が終わってから食堂を出るまでの間は、馨とほとんど口を利いていない。  なにが悪かったのだろう。それともただ機嫌が悪いだけだろうか。  馨は大和を無言で浴室へと引っ張っていく。脱衣所についている洗面台の前へ大和を押しやると、水道のコックをひねり、その下へ大和の手を運んだ。  馨はそのまま後ろから腕をまわして、大和の手を洗い始めた。  手くらい自分で洗えるし、そもそもなぜ馨が人の手を洗っているのか理由が不明だ。汚いものに触った覚えはない。 「大和ちゃん、俺、聞いてないんだけど」  大和の手に石鹸をつけて洗いながら、馨はいつもよりトーンを落とした声で言った。 「なにを」 「野崎に押し倒されたってこと」  それがこの態度の原因なんだろうか。でも、あれは伸が言った通りふざけただけだったし、それよりもその後に伸から言われた言葉のほうが大和にはよっぽど重大だった。そちらに心を占められたせいで、押し倒されたことはあっという間に脳から押し流されてしまった。 「忘れてた」 「忘れてたじゃないでしょ。野崎だからまだいいけど、他の奴にやられたら俺にちゃんと言えよ」 「なんでだよ」  洗面台の上についている鏡の中、馨と目があった。きついまなざしに射竦められて、大和は鏡から目を逸らせなかった。 「大和ちゃんは、俺がふざけて女の子を押し倒したりしても平気?」  その場面が脳裏へ浮かびそうになり、慌てて思考を止めた。胸の奥にどろりとしたものが広がったからだ。 「嫌だ」  たとえふざけただけでも嫌だ。そんな風に誰かに触らないで欲しい。 「俺もね、大和ちゃんがそんなことされるのは嫌なの。指一本でも触らせたくないって言ったの、忘れた?」  耳へ吹きこむように囁かれて、肩がびくりと跳ねた。  泡の交じった水が円を描きながら排水溝へ吸いこまれて消えていく。 「忘れてない」 「忘れてないのに俺の目の前で他の奴に手を握らせたんだ。大和ちゃんっていい度胸してるよね」  耳翼に歯を立てられて、痛くて甘い感覚がじわりと広がる。  手を握ったくらいで馨が腹を立て痛くて甘いるなんて思いもしなかった。耳に広がったのと似た感覚が心へ広がっていく。  好きな人を怒らせたのに喜んではいけないのかもしれない。でも、嬉しい。それが正直な気持ちだ。  馨は水道を止めると、大和の背からすっと離れた。備えつけの棚から取り出したタオルを大和へ差し出す。 「明日が春宵祭でよかったね」  にっこり笑っているのに、そのまなざしはどことなく不穏だ。 「下手なことして走るのに支障が出たら困るからさ。じゃなかったら、俺、なにしてたかわかんないよ」  明日が春宵祭じゃなかったら、いったいなにをするつもりだったのか。  喉元まで出かかった疑問はごくりと呑みこんだ。訊かないほうがいいと、本能が忠告したからだ。 「じゃ、お先にお風呂どうぞ」  馨は大和からウィッグを取り上げると、脱衣所から出ていった。  これから風呂へ入るのになぜわざわざ手を洗ったのか。大和は自分の手を見つめながら考えこんでしまった。
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