ヘヴィ―・メタル・キッス ……1

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

ヘヴィ―・メタル・キッス ……1

「俺の唇がね、あんたの唇の縦皺をさぁ、妙に生々しく感じとってさぁ……頭の天辺のどこか奥の方へ堪らないぐらい訴えかけてくるんだよぉ」  深夜のバーガー屋で出くわした卑猥な視線に乗じて、なかばアタシの方から高田馬場駅近くのホテルへと連れ込んだ見知らぬオヤジにシャワーを浴びながら互いの唇を貪り合う最中にそう言われた瞬間、不意に自分本来の輪郭を取り戻した気がして、ゾクゾクっと震えが来た。  相手のオヤジはロハで若いアタシの肉体を、アタシはアタシで数日前から感じていたまるで幽体離脱していくかのように遠ざかるコアな自分を一瞬にして取り戻せたのだから、セックスってやつは時と場合とそれに当然だけど相手次第によっては、やっぱりなかなかグルーヴィーなコミュニケーションだなぁってつくづく思った。  そんな次第で自己回復したと思われるアタシは、高田馬場から早稲田通りを30分程下って、真夜中過ぎの住宅街をしっかりした足取りで歩いていた。もうすっかりと世界に折り合いをつけたはずのアタシ。ウォークマンが奏でる今晩のサントラは柄にもなく『シルク・ディグリーズ』で、そろそろラストの“ウィアー・オール・アローン”が始まろうというそんなタイミングで自宅に到着してしまったけれど、二十代前半にしてボズの傑作バラードが似合うような人生であるはずはないし、そこへ行き着くにはまだまだ“ロング・アンド・ワインディング・ロード”であってほしいとすら思っているのだから、案外ロマンティストなのかもしれないなぁ、アタシって。  まぁ、そんな考えに思いを馳せながらウォークマンを停め、裏通りを少し入った住宅街の中程に構える店舗兼住まいを前にして佇んだアタシは、数時間前にその背へ陰鬱なBGMを奏でたシャッターが、打って変わって“雨にぬれても”みたいに軽やかな曲調で滑らかに上昇していくさまに改めて人間と云う生き物の心のありようの不思議さを痛感し、またその不思議な心模様が、掴んだシャッターの下端から指先へと振動の形で伝わって、そこから更にこのアタシの全身へ甘い毒みたいに拡散していく、まさにほとんど“天国への階段”へと差し掛かろうというその瞬間、不意に“雨にぬれても”が逆回転を始めて、時まで一緒に逆戻りしてしまった。 何故って?  そりゃ、あの忌々しい電話のベルが店内からアタシの耳へと届き、現実を上書きしてしまったからだ。そして、中途半端な姿勢でシャッターを支えているアタシの脳裏には、追い払ったはずの陰鬱なBGMとあの心許ない幽体離脱の感覚が手に手を携えてゲットバックしてしまいそうなイヤ~な予感が漂いだした。   「くそったれぇ!」  思わずそう毒づいたアタシは、深夜であるのも構わず、そうとは知らずに景気づけの意味をもこめていたのか勢いよくシャッターを下ろしてしまった。 住宅街の安眠にはた迷惑なテロリストと化したアタシは、そんなチンケなプライドにすら酔ってしまうことで、勢い任せに開きっ放しだったサッシの引き戸を駆け抜けると、一気に正面のドン付きを目指した。一瞬、『明日に向かって撃て!』のラストのブッチとサンダンスが脳裡を掠めたけれど、アタシが居るのは現実だし、実際ここはただのこじんまりした店内だ。当然ストップ・モーションになるわけもなく、アッという間も銃声もなく、ドン付きに到着。そこを占有するカウンターに置かれたレジ台脇で、望みもしないのに鳴り続く、毎度取り上げる度にアタシの存在のちっぽけさをアタシ自身に突き付けてくるような、あまりにもちゃちなプラスチックのその軽さの手触りに、ついつい投げやりな応対をさせられる、そんな留守録機能すらない安っぽい電話機を、アタシはしばし見下ろし反芻してみた。 「今晩のアタシはこの数日間のアタシじゃない。お陰様でアタシはもういつものアタシなんだ……」 そう心の中で言い聞かせたアタシは、電話機を見据えながら、スタンドへと手を伸ばした。辺りを仄かに照らし出すスタンドの灯りがアタシの影を映写した。そう、アタシは確かにアタシ。名前はサキ、野良猫あがりの23歳! ここ数日、知らぬこととは言えアタシがダウナーなのに付け込みやがってこの変態野郎! アタシは今晩こそは、あちらのご希望に沿わぬ形でレスってやろうと意を決し、スタンドに載せたままだった掌を受話器へ移すと、これ以上はないというぐらい怒りを込めて取り上げた。 「……はぁ、はぁ……サキぃ、俺だけのサキちゃん」 いつもはこの冒頭で叩き切っていたが、今晩はこのまましばらく黙っていることにした。アタシにも余裕が生じていた。好きな女に想いをぶちまけている男が、その女から沈黙しか引き出せなかったとしたなら、その男は更なる饒舌を重ねるに違いないし、それはアタシにとって、何かのヒントに繋がるかもしれないのだ。 「あれぇ? 今晩は切らないんだ。そうか、分かってくれたんだね? だったら、告白しちゃうけど、あ、嗚呼ぁ……こ、この前君の項を目に焼き付けたんだぁ……はぁ、はぁ……それに、項からサキちゃんの汗の匂いがプーンってしてさぁ、さっきもそれ思い出しておかずにしちゃったぁ……フウー……」 やっぱり、こいつ常連ビニール・ジャンキーか? 餌箱に商品を補充している時に、狭い通路を客とすれ違うことになる。そんな時に居合わせた奴だろうか。お世辞にも大繁盛しているとは言い難い店だけれど、それでもそんな状況は割かしあるし、こいつが誰と断定は出来なくても、項を視ておまけに嗅いだというのがマジだとしたら、十中八九先週のことに間違いないだろう。まだ五月だというのに三十度超えの数日間、仕方なしに点けた冷房がご臨終だった悲しい始末で、知らぬ間に後ろ髪をアップにしていたし、確かにしたたかに汗ばんでいたし、ブルーのTシャツの腋はといえばじっとり濡れていたほどだし、それとなくその脇汗の濡れ具合を確認したアタシは、まるでパブロフの犬みたいに『デレク&ザ・ドミノス╱いとしのレイラ』の中ジャケットに写っているボビー・ウィットロックの腋染みを連想して思わず噴き出したほどだったし、試しに鼻を寄せクンクンしてみたほどだったのだから、項が臭ったというのもあながち変態野郎の妄想だとは言い切れなかった。  「サキちゃん、今晩こそあきらめないよ、僕……ねぇ、ほらぁ、照れてないでさぁ……なんにも言ってくれないのかな、やっぱり今晩も……じゃぁ、し、仕方ないよね? 僕からサキちゃんの唇を塞いじゃうからねぇ? いいかい? あぁぁ、堪らない感触だよぉ、サキ! あぁ、だぁ、だめぇ、ま、またぁ、い、イクッ——」  距離を超えて牡臭が漂ってきた気がして、咄嗟に受話器を耳もとから離したアタシは、このどうしょうもなくも憐れな変態野郎に対してとことん上から目線の態度でお望み通りにアタシの声をくれてやることに決めると、ゆっくりした動きで縦皺に刻まれた唇を受話器へ寄せていった。  「てめぇ、くそったれぇ! 黙ってりゃいい気になりやがって! 何がサキだぁ、呼び捨てにすんじゃねぇ! 誰がてめぇみたいなチンカス野郎とチュウするってんだよ‼」 向こうで唸りが響いていた。ヒット&アウェイ? ううん、一気呵成に畳み掛ける! 「所詮、今晩アンタをいかせたのはアンタ自身さ。いい? ここ大事なとこ、赤線引いときな、アンタをいかせたのはアタシじゃなくてアンタの指先さ!」 なんも聞こえてこねぇ、というより、こういう空気感があれよね、ほら、絶句ってやつ。 さあ、鉄拳制裁で弱ってきたんだし、次はアリキックでふらつかせに掛かるか! 「ちょっとさあ、アンタ聞いてんの? アタシの声が聞きたいんでしょ!? じゃあ、聞かせるけどさ、アタシさ、さっきまで逆ナンしたハゲのオッサンとさ、ラブホでハメハメハ大王でさ、アタシの唇の縦皺が堪んないって言われた時にさ、ここんところダウナーで世界からスッカリ切り離されているような、まるで自分が自分じゃないみたいな心許ない気分だったのが、一気にアタシがアタシに戻れたんだよ! でもさ、それに引き換えアンタはさ、アタシになんの影響も与えてないんだよ! 言ってみりゃさ、ただの変態コミュ障のぼっち野郎だってんだ! アンタはアタシの歴史に塵ひとつ落としちゃいねぇー! 無だよ、無‼」 続く
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!