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プロローグ
フェドゥブルヤールの丘の上、あの樹の下で落ち合うのがいつも二人のお決まりだった。
その日もミカゲは、学校が終わった後鞄を置きにだけ家に戻り、機嫌の良い母にキスを贈ってからいつもの丘に向かった。
自宅のある東洋人街を抜けて川沿いの街路を歩いていると、対岸の家々の軒先に色とりどりのランタンが飾られているのが目に入る。今はまだ日の落ちていない夕刻で、ランタンに火は入れられていないが、夜になると無数に飾られたランタン全てが灯されるだろう。
今夜は「霧の妖精の夜」だ。
川面を滑ってくる快い風に前髪をさらさらと揺らされながら、歩いていて薄く汗の浮くのを感じたミカゲはシャツの襟元を寛げた。そうして涼しい顔をして街路樹の木陰を進んでいく少年に、顔見知りの住民達が思い思いの声を掛ける。ミカゲはその全てに朗らかな笑顔で応じて、大人達の温かい視線に見送られつつ橋を渡った。
橋の中程にいつもいる似顔絵描きの男が、彼の前を通り過ぎる時に言葉を寄越す。
「よおー坊ちゃん、また彼女と逢引かい」
心の中では苦笑いをし、だが顔には明るい笑みを乗せて返す。
「そんなんじゃないよ」
橋を渡り切った先の、祭の準備で賑わう教会通りをさっさと通り抜け、木々に囲まれた石階段を登る。
軽く息を切らして長い階段を登り終え、そこからもう視界に入る丘の頂上を見遣る。頂上にはかなり高樹齢と思われるトネリコの樹が風にその豊かな枝葉を揺らしている。
そしてミカゲの目はその樹下に佇む人影を見つけた。近付いていくとミカゲから声を掛けるより前に、気付いた彼女が名前を呼んでくる。
「やあミカゲ」
「よ」
ミカゲも一声返す。その顔には先程まで大人達に見せていた明るい笑顔は無く、冷めたような無表情が浮かんでいる。
そんな彼とは対照的に少女——少年のようにも見えるさっぱりとした短髪の彼女はにこにこと目を細くして笑って、ミカゲを手招きした。
「ミカゲ、ほらここからよく見えるよ」
「別に、毎年見てるだろ」
「いいじゃない。毎年楽しいんだから」
「コンお前な」
いいじゃないと言いながら後ろに回りミカゲの両肩を掴んでぐいぐい押してくる少女の、極めて簡明な名を非難めいた声で呼ぶ。
「痛いんだよ馬鹿力め」
「馬鹿は余計だよ」
「とにかく力任せに押すな。肩が壊れる」
「君の身体は繊細だなあ」
「お前が無闇に頑強過ぎるんだよ」
眉を顰めてコンに掴まれていた肩をこれ見よがしに払う。
コンは気にする様子もなく元来細い目を糸のように細くして笑っている。よく日に焼けた小さな顔は少年じみた清々しさを見る者に与えるのだが、近くで見ると黒々と長い睫毛が意外な可憐さを有していることに気付く。
そんな彼女の顔からぷいっと己の顔を背けて、ミカゲはコンがよく見えると言ったその景色へと目を遣る。
丘の頂上から見下ろす位置に古代の半円形劇場があり、今夜の「霧の妖精」を演じる十六歳の若者達が続々と集まってきている。皆が妖精を模した伝統的な衣装を身に付け、遠目からも楽しげに談笑しているのが分かる。
コンがそれを眺める横顔で言う。
「君はやっと再来年に参加できる年齢だね」
「積極的に参加したいわけじゃないけどな」
「周りの女の子がほうっておかないでしょう」
「なんとか逃げられないか今から思案中」
「あれまあ勿体ない」
「お前こそ来年じゃないのか。可愛い妖精さんに扮したコンちゃん、楽しみだね」
軽口を放ち、そこで初めてにやっと笑ってミカゲはコンを見た。そしてどきりとする。
笑っているか怒っているか、そう思って振り向いたのに、コンはそのいずれでもない横顔をしていた。伏せられた長い睫毛が震えているように見える。どういう表情なんだろう、とミカゲは動揺の中考える。似たような顔をしているのを一度見たことがあった気がした。
「あっ」
コンの唐突に上げた声にミカゲははっとする。
「ジョエル先輩だ! おーい!」
明るい声で眼下に呼ばわりながらコンは何者かに向かって大きく手を振っている。呼ばれたなんとか先輩が手を振り返しているのが見える。
「お前相変わらずの趣味だね」
まだ手を振っているコンの横でミカゲはぼやくように呟いた。
「何が?」
「ありゃ妖精なんて美しいもんじゃねえな。どっちかって言うとドワーフだ」
「何それ。ジョエル先輩のこと?」
「素晴しく隆々たる筋骨であられるようで、到底あんな薄羽根では浮遊できんだろうな」
「ミカゲ、自分が華奢だからって僻むのは良くないよ」
「僻んでねえよ」
「ふふ。ミカゲがジョエル先輩に抱き締められたら折れちゃいそうだね」
「なんで俺が抱き締められるなんて話になるんだ。お前だろ」
「はあ? なんで僕が?」
「付き合ってんじゃねえのか」
「仲がいいだけだよ」
「へえ」
興味なさげに相槌を打ってミカゲは大木の根本に座り込んだ。コンはそんなミカゲを怪訝な顔付きで見つめながらも立ったままでいる。
遠くでぽんぽんっと祭の始まりを告げる号砲の音がした。
初夏の落日は遅い。じわじわと暮れていく薄明の中、ぽつぽつと街の方ではランタンが灯り始めたようである。
いつもであれば何かと話題が尽きない二人だが、今は互いに押し黙っている。コンが口を開かないからだ、とミカゲは途中で気付いた。会話好きな幼馴染みは、普段なら色々と話の口火を切ってくれるのだが。
コンは立ったまま木の幹にもたれて、丘を下ったところにある半円形劇場の様子をじっと見ている。舞台上では開演の口上が朗々と詠われ、観客として来ている住民らが拍手を送っているところだ。
「……今年も霧は出ないみたいだな」
ミカゲは何気なく呟いた。それに対してコンが返した言葉はミカゲにとって意味不明だった。
「もう会えない」
眉を片方上げ、ミカゲは訝しがってコンを見る。
いつの間にかコンはミカゲの方に振り返っている。
「僕は軍の予備修練所に行くよ。そのまま軍人になる」
感情の読み取れない細い目で彼を見つめ、淡々と告げるコンを、ミカゲは座り込んだままでぼんやり口を開けて見つめ返す。
「だから、もう会えないね」
「……は?」
呆然として一声しか絞り出せないミカゲのそれ以上の言葉を待つでなく、コンは身体ごと向こうを向いて、黒い短髪を揺らして薄暗がりの丘を駆けて行ってしまった。灌木に隠れてすぐにその姿は見えなくなる。
劇場の方では口上が終わって歌が始まったようだ。
哀切な響きの誰とも知れぬ歌声を心底邪魔に思いながら、ミカゲはようやく言葉を発した。
「何だよそれ……」
街にはランタンの灯りがいよいよ星のように見えている。
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