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まだイルテが純粋無垢な小さな子供だったころ、夜の空に浮かぶ美しい星々を手に入れようと、よく家を抜け出していた。
町から少し離れた場所にある丘の上に立ち、空に向かって手を伸ばしても届かない星たちが、自分の手が届くことがないほど遠くにあることを当時のイルテは知らなかった。
何度も何度も夜に家を抜け出しては、星を取りに丘の上へ走った。
しかし、いくつもの夜が通り過ぎ、純粋を捨て俗世に身を堕としたイルテは見知らぬ男の腕の中で寝物語として教えて貰ったことがある。
『星は決して手の届くことのない存在、もし届くとしたらそれは星にあらず。その辺の石ころと同価値さ』
“ステラ”と名乗っていた頃のイルテには、男の言葉が随分な皮肉だと鼻で笑ったものだ。
何せ、自分の源氏名である“ステラ”とは“星の子”という意味があるのだから、“星の子”を手に入れた男はさぞかし気分がいいだろう。
そう思っていた。
(けど、あの言葉はきっと揶揄っていたわけじゃなかったのかもしれない)
ステラは”星の子”という意味もあるが、決して手に届かない存在ではない。男はイルテを人間だと言いたかったのではないか。
お高く止まらなくても、俗世に身を堕としても、イルテはイルテなのだと言いたかったのではないか。
(そんなことを考えても、もうその客の真意なんて一生知ることはないのだけどね)
イルテは目を伏せた。
満天の星空の中を、イルテはクルスに抱えられながら駆けていく。
無言だった空間に、クルスはゆっくりと口を開き音を生み出した。
「それで、何が聞きたいのかな?」
ようやく軌道とやらに乗ったのだろうか。
躊躇いながら顔を上げると、クルスが「今なら何でも答えてあげるよ」と先を促してくれたのでイルテは先ほどまで考えていたことを思考の外に振り払い、尋ねた。
「クルスさんは」
「うん」
「クルスさんは吸血鬼、なんですか?」
性格や体調的特徴はともかくとして、昔、本で読んだ吸血鬼の容姿とほぼ一致し、何よりもクルスの人外的な力と回復力を考えると、そうとしか考えられなかった。
ジッとクルスの瞳を見つめていると、クルスは困った風な悲しい笑みを浮かべていた。何故だか、自分が悪いことを言っているような気持ちがして、居た堪れなくなりイルテは顔を伏せた。
「……そうだよ、私は吸血鬼の一族さ。もう300年は生きていると思う」
「そんなに長く……」
「吸血鬼は長寿なんだ。ただし500年もすれば老いて死ぬ、ちゃんと寿命と言うものは人と同じで存在しているんだよ」
「そう、ですか」
「私を恐ろしく思うのならいつでも出て行っていいからね。私はもう恐怖で人を縛ることは止めにしたんだ」
「な、んで?」
「私には人と交わした“約束”がある。吸血鬼は悪魔と同じ特徴があってね、“約束”は何よりも最優先される。“約束”を破れば、寿命が来る前に私の命の灯が消えてなくなってしまうんだよ」
「“約束”、それは誰としたんですか?」
「……とても大切な人。だから私はあの町で祭司をして、人々を守っているんだよ」
大切な部分は濁されている気がするが理解はできる。ようするに、昔、とある人物と“約束”をしたからクルスは人を守ろうとしているということか。
これ以上、質問をしてもクルスは答えを濁すだろう。一番、聞きたいことは聞けたのだからいいではないかと自分に言い聞かし、イルテはクルスの肩に額を押し付けて目を伏せた。
「クルスさんは、吸血鬼っぽくないですね」
「そう?」
「はい。日中は散歩しているし、ニンニク好きだし、銀の十字架も首から下げてる。吸血鬼の弱点っぽいものが1つも当てはまらないじゃないですか」
「それは偏見だよ。あなた達、人間だって好き嫌いは分かれるじゃないか。私たち吸血鬼も同じさ。特に私の様な上級位になると、弱点と呼ばれるものは殆ど無くなる。下級位なら効くんじゃないかな?」
「そんな簡単に弱点を教えて良いんですか?」
「私には同族意識というものが薄いから構わないよ。それに、私には効かないし、………まあ、敢えて言うなら……」
クルスはイルテを右手だけで抱えられるように持ち直して、左手を使い自身の胸の前で十字を切った。
「銀の刃物で、心臓を十字に斬れば私を殺すことが出来る。ただし1突きをしても意味がない。十字に斬らないとね」
あっさりと自身の弱点を晒すクルスに、イルテは驚き顔を上げた。
「何で……」
「もし、私の存在があなたやあの町にとって悪いものとなった時、迷わず私を倒しなさい。あなた達はヒトの世界で生きるものなのだから、異形の者は姿を消さないとね」
諦めでも自虐でもない。クルスは本気で思い、それが当たり前の様に語っているだけだ。
イルテはクルスの服の端を強くつかんだ。
「……? イルテ」
戸惑うクルスに、イルテは言葉を重ねるか迷った。クルスは何も突飛で思い付いた訳ではないのだろう。何百年と生きた彼だ。人の世界で生きる事に関して、何かしら覚悟があったのだろう
(その覚悟を知ることはないけれど……)
クルスはイルテに自身を明かしたのだから、イルテもそれに習うべきだろう。
思い出したくない忌まわしい記憶。しかし、その現実こそが今のイルテを作り出すものなのだからーー。
「クルスさん、僕の事も聞いてくれますか?」
「……うん、聞くよ」
クルスの暖かな声が、イルテの背中を優しく押してくれる心臓が痛いほど打ち続けられている。イルテは深く呼吸を繰り返し、ゆっくりと声になるように言葉を発した。
「僕は“ステラ”という名前の男娼です。王都からもっとも近い貿易町の花街に10歳の時に売られました。元々は王都に住む上流階級でしたが、強盗に押し入られ、両親は殺され、僕だけが生かされたのです。本名はその時に捨てました。
両親は駆け落ち同然だった為、親戚が僕を引き取りに来ることはなく15歳の時に水揚げされ3ヶ月前まではお客をとる日々でした」
蓋を開けたくない記憶。思い出すだけで吐き気が及び、クルスの服を掴む指の力が強くなった。クルスは黙って聞いている。
「何が一番嫌だったかと聞かれたら、僕は僕の歌が一番嫌いでした」
「歌?」
イルテの言葉が意外だったのか、初めてクルスがキョトンと瞬きを繰り返した。
「はい、僕の歌には人々を癒す力があるみたいです。女将さん曰く、『失われた天使族の奇跡の歌声』と呼んでいました」
「なるほど、天使の血か」
クルスは納得した風に頷いた。
「……僕が歌えばどんな怪我も治ります。だから毎晩、僕は歌う事を強制させられました。暴力を振るわれたり初物だった少女たちの身体を癒しては、翌日も同じように働かせられるように。けど、いくら身体を癒しても心までは癒せません。少女たちは泣いて懇願してきます。「歌うな」「休ませろ」「許して」と。しかし当然、女将さんは許しません。しばらくして店は初物専門店として上々の成果が出て評判となり、僕は身体と喉を潰さないように数日に1人の割合で買わされました。勿論、変な客ではなく所謂、良い客だけです。」
イルテはクルスの服を掴んでいた手を離し、自身の手の平を見つめる。
あまり荒れていない白い手の平。だが、この手は目に見えていない血で赤く染まっていることだろう。指を折り目を瞑る。
「花街での僕の位は、多くの少女たちの犠牲の上で成り立っています。彼女たちを置いて1人で逃げ出すのは嫌だったけど、あのままあそこにいるのもダメだと思い脱走したんです」
「よく、逃げられたね」
「常連のお客様の中で手伝ってくれる人がいましたから」
イルテの脱走に手引きをした者がいる。
その事実にクルスは苦虫を齧った思いがして口をへの字に曲げたが、イルテは全く気付いていない様子だった。
今回の人攫いは、てっきりイルテの保護者が無理矢理にでもイルテを連れ戻そうとしたものだと思っていたが、もし前提が違ったとすればーー。
「厄介な事になりそうだ……」
「クルスさん?」
あまりにも、クルスの呟きがか細く聞き取れなかったイルテが聞き返すと、クルスは口元に笑みを戻して「何でもない」と答えた。
腹を割って話し合った二人は、お互いのことをそれ以上追及することなく夜の空を駆けた。
やがて東の空に白い朝もやが掛かり始める。
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