あくい、あくい。

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 ***  相手――性別はわからないが、ひとまず“彼”としておくことにしよう。  彼は、名前を名乗ってはくれなかった。自分はとっても恥ずかしがり屋で、直接お話する勇気もないから名乗りたくないというのだ。もう少し勇気が持てたら直接話しかけるようにするから、それまでは文字で交流していたい、と。  それから落書きを消したのは詫びられた。クラスの他の子に見つかったらきっと面倒なことになると思うから、勝手だけどこっそり消しておいたよと言うのだ。実際、消すつもりであった私にはむしろ有難いことではあったのだけれど。落書きを見たのが、それで私をからかってくるような相手ではなかったというのなら、恥ずかしさはあるが幾分マシであるのは間違いないのである。  彼、は友達が少ない私にも非常に優しかった。  多分クラスメートではあると思うが、確証はない。というのも返事が書かれるのは基本的には放課後であるようで、クラスの全員が帰ってから教室に鍵がかかるまでならば、他のクラスの生徒であっても十分教室に入ることが可能であるからだ。  名前もわからないその子を、私は“名無しくん”と呼ばせてもらっていた。 『名無しくん、相談にのってくれてありがとう。  名無しくんの絵をイメージしてかいてみました。へたくそだけど、気に入ってくれたらうれしいな』 『ありがとう、みかのちゃん。  すっごくかっこよくてうれしいよ。ぼくは絵があんまりとくいじゃないから、みかのちゃんみたいなとくぎがうらやましいです』 『私だってぜんぜん上手じゃないよ。いっつもヘタクソだ、ヘタクソだって言われてるもん。おねえちゃんが絵がとっても上手いから、くらべられちゃうのが本当にいやなの。おねえちゃんみたいに、コンクールで金賞とったりできないし。先生は時々上手だねってほめてくれるけど、先生はぜったいに下手くそだね、って言わないから……』 『そんなことないよ。ろうかにはってある、学校の絵。みかのちゃんの絵がいちばん上手だとぼくは思うよ。とくに、花だんのところがすっごくキレイです。色とりどりのお花が咲いていて、ちょうちょがとんでいて、他のみんなよりずっと春らしいのがさいこうに好き』 『ありがとう。そんなこと言ってくれるの、名無しくんだけだよ』  最初は、とてもささやかな交流だった。私のことを褒めてくれて、愚痴をなんでも聞いてくれる名無しくん。次第に私は、彼という秘密の友達の存在にのめりこんでいったのだった。  そう、ただ最初は、それだけであったはずなのに。  彼との会話に、段々と“歪み”が見えるようになってきたのは、一体いつからであろうか。
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