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◆
夏の第三角形が、見下ろしている。
まだぬるい夜風を切って、僕は一目散に坂を下りていく。いつもの草むらに自転車を置き、ひとつ、深呼吸して海の匂いを肺にこめて、歩き出す。
そして。
「……いた」
いつもの場所。壁に背を預けて、でもいつもみたいに立っているのではなくその場にしゃがみこんで。
いつもよりずっとずっと暗い場所。頼りなげな明滅する切れかけた蛍光灯だけの場所に、彼女はいた。
「なにしてんの」
彼女は振り返る。
「うみ、みてた」
「夜に?」
「いつもお昼だから。たまにはいいかなって」
「そう」
弾む息を整えながら近づいていく。カツン、と足音が反響して、重なるように風鈴の音がした。
彼女のそばまで行って、僕は手を差し出す。ほんの少し躊躇した後、彼女は僕の手を掴んだ。引っ張りあげて、立たせる。
同時に、電車が頭上を通る音がした。大きな音が、僕らを包む。
「――」
「え。なに?」
彼女が何かを言ったようだったけど、音にかき消されて聞こえなかった。彼女は笑ってなんでもない、と言うように首を振った。
少し迷って。
僕は彼女の手を引いた。
「海」
「え?」
「行こう」
戸惑うような視線を、僕は正面から受け止めた。でも、いつかみたいに彼女はすぐにノーとは言わず、ゆっくり、だけど確かに頷いた。僕は少し息を吐き、彼女の手を引いてゆっくり歩き出す。
あの、入っては行けなかった扉の向こうへ。
チリ……ン
頭上で、風鈴が鳴った。
一歩、外へ踏み出すと同時、暑い夏の夜の潮風が全身を包み込む。誰もいない。僕と彼女は連れ立って、ゆっくり、ゆっくり、海辺を歩いていく。月明かりがまぶしかった。
「特別だったんだ」
「え?」
僕の言葉に、彼女は顔を上げた。
「特別だったんだ。僕にとって、あの場所と、あの時間と、が」
さすがに、君が、とは恥ずかしくて言えなかった。
「なのに、なんかごめん。昼。レイヤ、きちゃって」
「ううん。ともだち?」
いつもの調子の会話が始まって、僕はようやく少し笑えた。
「うん。一番仲がいい」
「へえ。面白いヒトだったね」
「うん。面白いヤツだよ」
月明かりに伸びる自分たちの影を追いかけるように、僕らはゆっくり歩いていく。
「レイヤがさ。僕たちのことヘンだって言ってた。名前も知らないのに、ずっと会ってるの」
「うーん。ふつーはそうかな。でもわたしはヘンだって思わない」
彼女の笑みがなんだか嬉しくて、僕は足を止めて空を見上げた。
「わたし、君のこと好きだよ」
――唐突な。
唐突な、言葉だった。
空を見上げたまま僕は硬直してしまった。その『好き』がどういう意味を持っているのかは判らないけど、でも、唐突な言葉だった。唐突で、特別な。
「あの時間、わたしにとっても特別だったの。だからね、ずっとあのまま、あの時間が続いて欲しくて、でもなんか、怖いじゃない。すぐ壊れちゃいそうで、なくなっちゃいそうで、それに、なんかもっと一緒にいたくなって、水曜日以外も、ってお願いしたら君は来てくれた」
「……うん」
「嬉しかった。ありがとね」
へへっ、と、彼女が笑う。僕は視線をゆっくり空から彼女へと下ろし、小さく笑い返した。
トクン、トクンと。
心臓が鳴っている。
チリン、チリンと。
風鈴が揺れている。
特別はある。特別は確かに存在する。
それはひどく曖昧で、壊れやすくて、不安定で、でもそれゆえにキラキラしていて、まぶしくて、怖くて、大切で。
特別はある。
僕らはお互い、特別を共有していたんだ。口に出すと壊れてしまいそうな、特別を。
守り続けていた。信じ続けていた。だけど。
目を閉じる。
暗い高架下。その向こうに広がる、真っ青な海と空。ウミネコの声。潮の匂い。風鈴の音。揺れる氷のタペストリー。その夏の境目で、壁に背をもたせかけている彼女の姿。白いワンピース。ストローハット。アイスキャンディー。そして、風に揺れる髪。
壊れない特別だって――きっと、きっとある。
目を、開けて。
息を、吸って。
僕は彼女に告げた。
「秋のさ」
「あき……?」
「うん。秋の海って、見たことある?」
「……ない、かも」
「じゃあ、見よう」
「え?」
「見よう。秋の海。一緒に」
夏だけじゃなく。いつの間にか出来上がった特別な時間だけじゃなく。
秋も、また、特別にしていけばいい。
「キレイだよ。夕日が海に映りこんで、青じゃなくて、真っ赤になるんだ」
「……みる」
照れたように、小さな声で。彼女が頷く。
秋の海を見よう。真っ赤に熟れた海を見よう。
冬の海も見ようか。寒々しくて、でも力強い海を見よう。
春の海も見ようよ。きっと不思議と新鮮な色をしているはずだから。
そうして、夏の海を見よう。
来年もまた、一緒に。特別な時間を、壊れない時間を、紡いでいこう。
さざなみの音が、静寂を包む。
「僕、シュンって言うんだ」
「シュン……」
頷いて、笑う。
名前を言ったって、壊れないさ。水曜日以外になったって。夏じゃなくなったって。
この特別は、壊れない。
そう――信じるから。
僕は彼女に、問いかけた。
「君の名は?」
夏の風が、吹いた。
一瞬きょとんとした後、無垢な笑顔を浮かべて。
「わたしはね――」
――夏の番人が、笑った。
――Fin.
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