夏への扉と、夏の番人

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◆  こうして、今年も僕の夏ははじまり、進んでいく。今までと違っているのは僕が受験生だってことで、例年になく勉強の占める割合が増えたことくらい。でも、それさえたいしたことがないくらい彼女のいる夏はいつもどおりだった。  風。陽射し。溶けていくアイス。セミの抜け殻。水の匂い。濃く伸びた影。時折走る電車の音。そして青。空も海も、ただ、青―― 「ねえ」  その日も、彼女はいつもどおり壁に背を持たせかけ、いつもどおり壁に背を持たせかけている僕に声をかけてきた。 「うん?」 「何回鳴ったかな、今日」 「風鈴?」 「そそ」 「数えてないよ」 「えー」  つまんなーい、とちょっと不服そうに唇を突き出す彼女に肩をすくめる。 「わがまま」 「女の子はワガママでいいって法律で決まってるんですー」 「それは知らなかった」 「テストに出るよ」 「覚えとくよ」  チリン。  風鈴の音と同時に僕は頷き、彼女は屈託なく笑う。白い肌。少しだけ紅潮した頬。空を映しこんでいる瞳。そして風になびく長い黒髪。  キレイだな、と思う。  それは前から気づいていたはずなんだけど、どうしてだか今年の夏はその感想を持つ瞬間が増えていた。  そうだった。  それが、いつもの夏とやっぱり少しだけ違っていたんだ。 「――なに?」 「え?」 「なんか見てた」 「ああ、ごめん。別に……」 「ふーん?」  また首をかしげ、彼女は海へと視線をやる。  毎年毎年。毎日毎日。  どうしてだろう。彼女はここから出ようとはしなかった。すぐそこにあるはずの場所へ、手を伸ばせば届くはずの場所へ、一歩を踏み出そうとはせず、まるで病室のガラス窓から見る空に焦がれるように、ここを動こうとはしなかった。 「――行く?」 「え?」 「海。行く?」  僕の問いかけに彼女は二度、三度瞬きをして、それから。  それから、ほんの少しだけ泣きそうに、笑った。 「いい」  かすれた拒否の言葉に、僕は少し視線を落とし、小さく小さく頷く。  なんとなく、思っていた。  やっちゃったな、って。それはきっと、今までを壊す呪いの言葉みたいなものだった。 「僕、行かなきゃ」 「……うん」  彼女の顔を見ることが出来ないまま、夏の扉を後にして歩き出す。 「ねえ!」  背中に、声がかかった。振り返る。  夏の境目で、番人が笑っていた。  ストローハットを手に持って、笑っていた。 「あした、くる?」  一瞬、心臓がきゅっと縮んだ。  だってそれは、はじめてのことだったから。  彼女から僕が来るかどうかを聞いてきたことも、水曜日以外をふたりの間に持ち出そうとしたことも。  唇を開けるけど、少し乾いていてうまく声が出せなくて、もう一度閉じた。ちょっとだけ舐めて湿らせてから、もう一度、声を絞り出す。 「おなか、すいてなきゃね」 「アイスふたつ、買っとくよ」 「……じゃあ、くる」 「うん、またね」  チリ、チリリン。  風鈴の下で笑う彼女を、何となく見続けているのが苦しくて。  僕はまるで逃げるようにその場を後にしたんだ。  八月十日。とても暑い――暑い、日だった。 ◆  その日から僕は、レイヤにはナイショで鞄の中に菓子パンをふたつ、忍び込ませるようになった。さすがにアイスだけじゃ中学三年男子の腹は満たされない。彼女とあの場所で、並びながら食べるようになった。ただし、もって行くのはメロンパン以外。どうやら好物らしくって、最初の日に持っていったら半分くらい取られてしまったから。  会話もちょっとだけ増えた。  相変わらずどうでもいいような会話だけれど、海を見ながら僕らは他愛ない話をする。  少しだけ形を変えて。  それでも、いつもの夏は過ぎようとしていた。  あの日までは。 ◆  いつものように、あの場所で、僕らがそろって並んでいるときだった。  チリン……リリン。と鳴る風鈴の音を、かき消す声が響いた。 「シュン!」  レイヤ――だった。  僕は驚いて菓子パンを落っことして、彼女はきゅっと唇を引き結んでいた。 「やっぱなー、おまえ」 「レイヤ、なんで」  慌てて菓子パンを拾って、何となく彼女を背中側にしてレイヤと向き合う。レイヤは汗の浮かんだ額を一度ぬぐってから、苦笑のような、安堵のような、曖昧な顔をして見せた。 「デートだったらいいけどさー、俺にくらい教えてくれたっていいじゃんよ」 「そういうんじゃ」  言いかけたとき、後ろに回していた腕にひんやりとした感触がした。彼女の手だ。  僕の腕を握っている。 「あ、どもー。サーッセンッ、お邪魔して。レイヤっていーまーす」 「レイヤ、こら」  彼女にへらへらと笑いかけるレイヤを押し出すために、そっと彼女の手をほどく。 「あ、ひでえ。ちょっとちょっと。シューン」 「うーるさい。いいから」  レイヤを押して、道路側の出口へと向かわせる。その途中、振り返る。  彼女はどこかぼんやりした顔でこちらを見ていた。 「ごめん。また……来るから」  彼女は何も言わず、小さくこくんと頷く。その様子に少しだけほっとして、僕はレイヤを押し続けたまま、夏の扉の前を後にしたんだ。 ◆ 「何で来たんだよ」 「だっておまえ、明らか最近ヘンだったべ?」 「べじゃない。なんなんだよもうー」  自転車を漕ぎながら。僕とレイヤは並んで塾を目指す。 「いーじゃん。だって気になったんだもん」 「もんでもない。もー、もーっ、もーっ!」 「モーモー牛さんだっちゃ」 「だっちゃでもない!」  キキッと自転車を止める。少しだけ先に行ったレイヤも自転車を止めて振り返る。  僕はちょっとだけむすっとして見せて、言った。 「来て欲しくなかった」 「そうかよ」  レイヤはつまらなそうに鼻をならして、ゆっくり自転車を漕ぎ出す。僕も追う。 「シュン」 「なに」 「あの子、名前は?」  問われて。僕は一瞬口ごもる。それから努めてなんでもないように、 「知らない」  と、言った。 「はっ!?」  キキッ――と、今度は音を立ててレイヤが自転車を止める。 「今おまえヘンなこと言わなかった!?」 「なにがだよ」  僕はなんでもない風を装いながら、止まることなくレイヤを追い抜かしていく。レイヤが後ろからついてくる気配を感じる。 「名前、知らんの? 彼女じゃねえの?」 「知らないしだから彼女じゃないって」 「え? 何? 通りすがり? 違うよな」 「違う。毎年会ってる」 「毎年? は?」 「中一の夏から、夏の間だけ」  言うと同時に、ふっと着いてくる音がやんだのが分かった。ゆっくり自転車を止めて振り返る。  道の真ん中。木漏れ日の下のレイヤがちょっとだけ青ざめた顔で立っていた。 「……おばけ?」 「アホウ」 ◆  とりあえず、レイヤにとって僕と彼女の関係は『意味不明』とのことだった。  まぁ、普通はそうなんだろう。僕は彼女の名前も知らないし、年齢だって知らない。それは彼女だっておなじで、僕は今まで彼女にちゃんと名前を言ったこともなかった。  今日、バレたわけだけど。  午後十時。ベッドの上で自室の天井を見上げながら、僕は今日あったことを反芻していた。  リン……と耳の中であの風鈴の音がする。  ほんの少しうつむいた彼女の顔。その頬に落ちていた影。そして僕の腕を掴んだひんやりとした指先。鼻を刺すような、潮の匂い。  いろんなものが、音が、色が、頭の中を離れなかった。  どうしてだろう?  僕は僕に問いかける。  どうして今まで、水曜日だけでよかったんだろう。  どうして今まで、名前も知らずにいられたんだろう。  どうして今まで、あの場所と時間を知られたくなかったんだろう。  どうして。  答えは簡単で、でも、それを告げたところでレイヤが納得するとも思えなかった。  僕にとってあそこは特別だったんだ。  ちいさな頃、海水浴場で見つけたシーグラスが宝石より輝いて見えたみたいに、そしてそのシーグラスを誰にも触らせたくなかったみたいに、特別な場所で。特別な時間で。特別な存在で。  それは何か、ほんのわずかでも狂ってしまえば『特別』でなくなってしまう、脆いもので。  僕はそれを守りたかったんだ。  あの、暗い中から見える夏を。夏の扉を。夏の番人を。僕の――僕の『夏』を。  ずっと守りたかった。だから、壊れ物のように扱っていた。余計なことに触れずに来た。  でも。  僕は僕に告げる。  今年は何か、違っていたじゃないか。水曜日の法則を違えても、彼女と会うことが出来るようになったじゃないか。  だったら、たぶん、大丈夫だ。  壊れ物のように不安定な時間だと思っていたけれど、きっと、大丈夫だ。  明日、また行けばきっとそこに彼女はいる。  何度も何度も。僕は僕にそう告げて、自分を納得させようとした。  でも。  ざわざわとした胸の奥を結局ごまかせなくて。  僕はこっそり家を抜け出して、自転車にまたがった。
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