夏への扉と、夏の番人

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 塾の午前講習の後、僕らはいったん家に帰る。  その時間ってのが、また一日で一番暑い時間帯で、クーラーに冷やされた手足からいっせいにどばっと汗が吹き出るんだ。それを少しでも風で乾かすように、僕らはひたすら自転車をこいでいく。  けど、夏の日差しってやつは容赦なく僕らを照らしつけるもんだから、汗は乾く前に次から次へと玉になって浮かんでくるんだ。  塾から僕らの家のあるあたりまでは、緩やかな下り坂になっている。僕ら――つまりいつも一緒にいる僕とレイヤ――は、毎日、午前講習が終わるとこの道を使い家路に着いた。家で昼飯をかきこんで、今度は上り坂になったここを戻る。  別に弁当を持っていったっていいんだけれど、僕とレイヤは一日中コンクリの壁につつまれて、冷房のきいた部屋にいることが耐えられなくて、わざわざこうして夏の洗礼を浴びるために、毎日この道をほかの塾生より多く往復していた。 「シュン」  僕の前。十字路で自転車を止めたレイヤが振り返って言った。 「午後、またいつもどおりでオーケイ?」 「ああ、うん。ここで」 「オッケ、んじゃまたあとで」 「うん、また」  僕もまた自転車を止めて頷くと、軽く手を上げたレイヤが再度自転車を漕ぎ出した。道の途中で右に曲がっていく。レイヤの家はあっち方向だ。ちなみに僕の家はここを左に行く。  その背中を見送って、僕ははっと大きく息を吐いた。  暑い。べとべとした空気は肺にちょっと重い。白くまぶしいアスファルトに目を細めて、ゆっくり視線を上げる。  ――青。  それから、ぷくぷくに膨れ上がった風船みたいな、白。入道雲だ。  彩度の高い青の中に、白い雲が負けじと鮮やかに体を張っている。  まぶしい。  今度は完全に目を閉じる。まぶたの裏でも、鮮やかな光が見えた。  それからゆっくりと息を吸う。暑い空気が体中を包んでいく。ほんのわずか、潮の匂いが混じっていた。  耳を澄ます。こんな街中でもセミの声が聞こえる。わずかな生命を燃やしている生物の声。それから、車の音。どこからか子供の声。かすかに、ほんのかすかに、消えてしまいそうな波の音。  水曜日か。  ぼんやり、思う。頭の中からさっきまで詰め込まれていた数式や文法をいったん追い出して、意識的にぼんやりと考える。  水曜日。あの子の日だ。  目を開けた。青い空を見上げながら、自分の腹に問う。  ――昼飯抜き、オッケ?  ――オッケじゃないけど、ガマンならなんとか。  ――んじゃ、オッケだ。  自分で自分に頷いて。  少し位置がずれていた自転車のペダルを軽く蹴って元に戻す。それから。  ――たんっ!  僕はもう一度自転車を漕ぎ出した。  自分ちへ向かう左への曲がり角を通り過ぎてまっすぐ走り出す。  海へ。 ◆  一番最初に彼女にあったのは、二年前。中学最初の夏休みに入ってすぐの水曜日だった。  その年も、白いワンピース姿だった。今より少し髪の毛は短くて、いわゆるセミロングの状態ではあったけど、今とおなじにストローハットをかぶって、今とおなじにアイスを食べていた。  僕らの街は少しばかり変わった土地だ。駅があって、そこから海側へいったん上がる。上がりきったあたりが一番栄えていて、商業施設とか塾とかがある。そこから、下る。下った先は海だ。ちょっと起伏のある街なんだ。  海、とはいっても実は海水浴場はちょっと遠い。まあ電車で一駅ではあるんだけど、テリトリーとはいいがたい場所にある。僕らのよく知る「海」は、防波堤のある、釣りなんかのほうが適している「海」だった。  自転車で坂を下っていく。ツン、と鼻に刺激が来たところで僕は自転車を止めた。草がぼうぼうに生えたままの脇に自転車を持たせかけ、歩いていく。ふ、と視界が暗くなった。高架下のトンネルだ。上には電車が走っている線路がある。  この場所はどういうわけか、少しひんやりしている。空気の通りがいいのか、別の要因かは知らないけれど、いつも少しひんやりしていて、そして何故かいつも水溜りがあったりする。  暗いトンネルはほんの少しで終わる。その先。出口のところ。まるでどっかの猫が探し続けている夏の扉を開け放しているかのように、真っ青な海と空が見えた。  そして、その手前に。  今日も彼女はいた。まるで、夏の番人のように。 「や」  僕の呼びかけに、長い黒髪をふんわりとなびかせ振り返る。白いワンピースにストローハット。手には水色の――たぶんソーダ味の――アイスキャンディー。  最初に見たときは、何だこれ人形か、と思ったもんだった。それくらい、キレイな子だったから。けど、今なら分かる。僕と同じように年はとっているし、ちゃんとした人間の女の子だ。  その彼女が僕を見つけてふっと笑った。よく通る声が、高架下に反響する。 「なんだ、君か」  僕は肩をすくめて頷く。 「二週間ぶり、かな」 「だね。先週は?」 「塾、テストだったから。腹減っててこれなかった」  僕の答えに、彼女はアハハ、と笑い声を上げた。  高架下の壁に背を預け、まるで夏の番人のように彼女はここにいる。  水曜日。僕が昼を抜いてここに来るときには。 「今日も昼抜き?」 「まぁね」 「食べる?」  無造作に差し出された食べかけのアイスキャンディーに一瞬ドキッとした。 「え、いや」 「食べないの?」  ふーん、と不思議そうに首をかしげ、彼女はキャンディーを自らの口に運んだ。  ちいさな唇が、水色のキャンディーをくわえる。 「うんまあー」 「……幸せそうで何よりだよ」  まったく、食べかけのアイスキャンディーなんてものを男子中学生の前に無防備に見せないで頂きたい。  僕の言葉に小さく微笑んで。それでどうやらこっちには興味を失ったようだった。  さっきまでと同じように、また彼女は海と空へと目を向けている。  キラキラ波が反射する海と、白い入道雲が浮かぶ空。時折、キュイキュイ、と聞こえるのはウミネコの声。  その姿を確認して、どうしてだか少しほっとして、僕は彼女の反対側の壁へ、彼女と同じように背を預けて立った。  それは、毎年の光景。  夏の扉を守る彼女と、その手前でぼんやりする僕。  お互いにたいした会話はしない。それは最初の夏からだった。  目を閉じる。  あれは、中学一年の夏のことだった。 ◆  その年の春、僕はこの街に越してきた。  ありがちな親の転勤に付き合わされての話だけれど、ただまぁ、小学校が終わってからという区切りならいいかとカンタンに考えていた。  これがそうはうまく行かなかった。僕はどうしてだか、一学期が終わっても学校になじめなかった。いじめというほど積極的な攻撃を受けていたわけでもないけれど、友達、と言い切れる相手を作ることは出来なかった。それは中学校というものに慣れなかったのか、この土地に慣れなかったのか、それは今でも分からない。ただひとつ言えるのは、そんな状態だったからこそ、僕は彼女に会うことが出来たのだ。  友達と言い切れる存在はいなくて、だからといって親にそれを悟られて心配かけるのもイヤで、僕は夏休み中毎日毎日外に出た。  ただ、行く当てはなかった。  最初のうちは図書館にいったりしていたけれど、同級生に会うのがなんとなくつらくなって、そのうち当てもなく街を散策し始めた。  そして、この場所にたどり着いた。  外から見るとちょっとばかし不気味なこの場所は、そのせいで「きっと誰もいない」と僕に期待させ、僕を誘い込んだ。  そして僕は出会ったんだ。  この、夏の番人と。 ◆  ――チリン。  ふいに内耳を涼やかな音が揺らした。驚いて目を開ける。 「なに?」 「フフッ」  僕の問いかけに彼女は笑い、そっと白い指を天井へと向けた。 「これ。拾ってきたの」  そこにあったのは、 「……風鈴?」 「そう」  ガラスで出来た涼やかな風鈴だった。 「どこで?」 「これ? 道路側の入り口のところ。草のところに落ちてた」 「なんで?」 「さあ。わたしに聞かれても。だったらわたしだってこれ」  これ、と彼女は風鈴の横にあったもうひとつのものを指差した。 「なんで? って聞きたい」 「まぁ、そうだね」  彼女の指先にあるのは、よく駄菓子屋とかでぶら下がっている『氷』のタペストリーみたいなやつだ。去年の夏、僕がやっぱりあの自転車を置いてきた草むらのところで見つけた、よく判らない落し物。何となく面白くて、彼女に手渡して、彼女はそれをこの天井のパイプみたいなところへ括りつけた。  今年はその『カキ氷はじめました』的なタペストリーの横で風鈴が揺れている。  チリン。  また、涼やかな音がなる。 「キレイだよね」 「だね。いい音だ」 「うん」  夏の番人は嬉しそうに笑って頷く。  けど、本当に。  風鈴に、氷のタペストリー。そして海と空とアイスキャンディー。  彼女のもとに『夏』が集まっていた。 「そのうちさ」 「うん?」 「もっと増えるかもね、それ系。夏っぽいの」 「ここに?」 「そう」  僕が頷くと、彼女は一瞬きょとんとして首をかしげた。 「ひまわりとか?」 「うーん。それもありだけど、それよりあれだな。まずいるのはあれだ」 「なに?」  僕は真面目そうな顔をして見せて、告げた。 「冷やし中華始めました」  一瞬、彼女は目を丸くし――そして次の瞬間はじけるような笑い声を上げていた。 「なにそれー!」  こんな風に。  僕と彼女の水曜日の一時間は過ぎていく。  どういうわけか、水曜日以外の日は彼女はここにいない。それははじめて会った夏から変わらずだった。だから三年間とはいえ、僕と彼女は数えるほどしか会っていなかった。  夏が終わる頃、水曜日であっても彼女はこの場所からいなくなっていたから。  僕にとっての夏は、いつしか彼女だった。  彼女が水曜日にここに現れるようになって、いなくなるまでの期間。  それが、夏だった。 「っと。じゃあそろそろ僕塾戻らなきゃ」 「ああ、うん。タイヘンだね」 「受験だからね」 「そっか。なおさらタイヘンだ」  神妙に頷く彼女がなんとなくおかしくて、でも笑うのも失礼かななんて思ってちょっと笑いを噛み殺して僕は手を上げた。 「じゃ、またね」 「うん、ばいばい」  手を振る彼女に背を向けて、僕は僕の街へと戻っていく。  立てかけてあった自転車を引き起こし、またがって、坂道を登っていく。途中の十字路でレイヤを待つ。レイヤとは、中一の秋ごろから急に仲良くなり始めた。いまでは親友同士だ。大概のことは何でも話す。ただ、僕はひとつだけ秘密にしていた。水曜日の、彼女との時間を。  少ししてレイヤがやってくる。僕はいつも通りレイヤと並んで塾へ向かった。僕の中の夏の水曜日は、この瞬間に夕暮れとおなじ意味を持った。
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