1話「恋情インパルス」

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もうこんな風に雲堺ちゃんに頭を撫でてもらうこともなくなるのか ……それはそれで何だか、淋しい気がする。 そんな私の胸中を察したかの様に、雲堺ちゃんはほんの少しだけ寂しい顔をする。珍しい顔だ。 「やいこちゃんの飯が食えんよーなるんは残念じゃけど、結婚しても今みたいに時々はこっちに戻って来るけんな!」 慰める様に雲堺ちゃんは言うが、ちょっと待って。 「成程。雲堺ちゃんはわたしが結婚せずにいつまでもこの家に居ると思っているのね。ひどいわ」 「うえっ?! え、いや、そーいう意味で言ったんじゃのーて! その、えっと!」 「冗談よ。何を本気で焦っているのかしら、無様な人ね」 わたわたと慌てふためいていた雲堺ちゃんだったが、わたしの一言に今度は憤慨した様子だ。コロコロと表情が変わっていくのを見ているのは本当に面白い。 「びっくりしたぁ~!……やいこちゃんの口から珍しくそんな話がでたけん婚活にでも目覚めたんかと思ったわ。実の所、好きな人とかおらんのんか?」 好きな人。そう聞いて頭に浮かんだ顔はいくつかあるので、とりあえず列挙して答えておく。 「ママと、雲堺ちゃんと──」 「待て待て待て待て。そういう好きじゃのうて。身内とか、友だちとかに向ける親愛じゃのうて、恋愛じゃ恋愛」 「……恋愛、ねぇ」 恋愛をして結婚をしようとしている雲堺ちゃんには悪いが、わたしはその手のことにさっぱり興味が持てない。 もともと他人に関心がないし自分のことにも無頓着な性格だ。それに加えてマイペースで他人に干渉されるのが嫌いなので、付き合うとか一緒に暮らすとか本当に無理。 そんな面倒な性格な上に特に容姿も優れていないわたしに恋愛とか結婚とか関係のない、どうでもいい話だ。 「さぁ、そういう意味で好きな人はいないわね。わたしなんかとどうにかなりたいという奇特な人もいないでしょうし」 「そう卑下せんでええがん。全ては出会いじゃ、出会い! 街コンにでも参加してみたらええのに」 「そうね、機会があればそれもいいでしょうね」 「絶っっっ対にそう思ってねぇ!」 「そもそもわたし、何でこんな話を貴方としているのかしら? それより早く食べ終えてよ、ママたちが帰ってくるわ」 そう言い渡すと雲堺ちゃんはまだ何か言いたげな、納得のいかない顔をしていたがおざなりになっていた食事を再開させる。 「……心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。置いていかれるなんて思ってもいないし、わたしは意外としっかりとしているわ。だから、雲堺ちゃんは何も気にせずに幸せになってね」 雲堺ちゃんは目を大きく見開いてこちらを見ている。……その反応はやはり図星だな。 就職と同時に同居していた祖父母の家を出たお隣の尾曳笠雲堺(おひきがさうんかい)ちゃん。彼は暇を見つけては今みたいにわたしをわざわざ訪ねて来て、一緒にご飯を食べる。 最初はホームシックかな? ださっ。と思っていたわたしだったが、食事の時間を重ねる度に気がついた。雲堺ちゃんはわたしが心配で放っておけないのだと。 快活でウィットに富んだ雲堺ちゃんから見たら、内向的で協調性のないわたしは不安で不安で堪らない存在なのだろう。そう合点したら何故彼が家を出るその日に“困ったことがあったら使え”と何度も念を押して新しく住むことになるアパートの合鍵をわたしに押し付けてきたのかも分かった(結局わたしはそれを一度も使わなかったし、彼のアパートの場所も実は知らない)。 雲堺ちゃんは、ここにわたしを置いて行くのが心残りなんだ おそらくわたしが恋人でも作っていつもにこにこと朗らかに笑ってさえいれば雲堺ちゃんの不安や心配は解消されるのだろうが、残念ながら現実はそう簡単にはいかない。 「優しい雲堺ちゃん。わたしのことは、そうね、ほんと時々あんなヤツもいたなぁって位に思い出してくれるだけで十分だわ」 そう告げると、彼は神妙な顔をする。 「そりゃあこっちの台詞じゃ。やいこちゃんは直ぐに忘れるけんなぁ。……オレのことも、どーせ」 どうせ、なんて否定的な言葉を使う雲堺ちゃんを初めて見た。これは所謂、マリッジブルーというヤツだろうか。 そんなのに陥るほど神経質で繊細ヤツだっただろうか? なんて若干失礼なことを考えていたが、彼と初めて出会った時のことを思い出す。 進学の都合で雲堺ちゃんは親元を離れて一人、祖父母の家へとやって来た。それは彼が小学校を卒業して中学に上がる前の春休みのことで、わたしは“近所に住む歳が近いこども”として紹介された。その時、雲堺ちゃんの表情には確かに不安が滲み出ていたなと今になって思う。 わたしが思うほど彼は強くはないのだろう。置いて行くどころか出て行くことさえ怖いのかもしれない。……でも、きっと大丈夫だ。 「忘れるのは雲堺ちゃんの方だわ。尻込みしてたって一歩踏み出せば周りが見えなくなる程夢中になるのが貴方だもの」 雲堺ちゃんは眉を寄せて不可解そうな顔をしていたが、わたしの見立ては多分間違えないだろう。 幼馴染というには歴史は浅いが、それなりに共に居たつもりだ。彼には困難を乗り越え、笑い飛ばせるだけの力がある。 だから、わたしが力になって手助け出来ることなど何一つない。 「大丈夫、大丈夫。雲堺ちゃんならどんなことがあってもやっていけるわ。わたしも大丈夫だから。ね?」 今度はこちらから雲堺ちゃんの頭をポンポンと撫でる。すると彼は照れた様に笑った。 「お前はオレの欲しい言葉をくれるなぁ。ありがとう、ちょっとナーバスになっとったわ。やいこちゃんは優しいなぁ」 はにかむ彼にホッとする。雲堺ちゃんにはやはり笑顔が似合うのだとわたしは改めて思うのであった。 ***
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