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モレリア大陸 第2話
小さな湖の畔。
太陽は真上にあったが、草むらで獣が盛っている気配がある。
荒い息遣いと小さな呻き声。一定間隔で肌を打つ高い音。その合間に粘度の高い水音が交じる。
何が行われているかは明白だった。
ピクニックに来ていたはずのリディアは、自らが用意した厚手のレジャーシートの上で四つん這いになり、スカートの裾とペティコートを捲くり上げられて青空の下で全てを晒していた。
彼女はそのあられもない格好のまま、恋人のエリックが情熱と共に与えてくる責め苦に耐えて、今も声を噛み殺している。
エリックは他人にこの関係が知られることを全力で避けている。
その気遣いから人目につかない穴場を幼馴染に教えてもらったリディアは、周囲が草に覆われている木陰にレジャーシートを敷いた。
こうなることは予想していた。案の定、軽食を摂り終えて早々、自分へ手を伸ばしてきた恋人の為すがままになって今に至る。
リディアの秘密の恋人エリックは、いつも素っ気なく振る舞っているが情熱的で愛情深い性質の男だ。少なくともリディアはそう思っている。
彼はガレア国のそこそこ大きいらしい商家の嫡男で、子供の頃から婚約者が居る。
これは割り切った関係だ。彼が国に帰るまでの、あるいは彼女が嫁ぐまでの仮初の。そのはずだった。
一際荒い息を吐き、呻き声と共にエリックは果てた。それと同時にリディアの背中へ苦しくない程度、体重がかかる。
意識朦朧となりながら余韻に浸っていたリディアは、湿度を含む弾んだ息と汗ばんだ肌を背後から感じている。
程なくして長い溜息を吐き終えたエリックは一人身を起こした。
用意してあったタオルでリディアの身体を丁寧に拭き、自身の汚れを拭いて簡単に身支度を整える。脱がして転がしていた下着を拾って履かせ、ペティコートとスカートの裾を下ろした。
エリックはやるべきことを終えると、身体が満足に動かずうつ伏せたままのリディアの隣にドサリと横たわった。
エリックは横たわったままのリディアの様子を伺う。彼女は目を閉じたまま動かない。
そのことに安堵したエリックは、リディアをそっと抱きしめると頭を優しく撫でた。それを幾度か繰り返すと今度は頭頂に唇を押し付ける。髪の薫りを楽しんでいるのか深く鼻から息をする気配もある。
彼の気が済むと大きな手で髪をゆっくり丁寧に梳いていく。このとき労うように背中を撫でることもある。
彼は吐精し終えると必ず愛情を持ってリディアを撫でてからガレアの言葉で愛を囁く。何度聞いてもリディアが認識できない難しい言語だ。リディアには彼が何を言っているのかは今だに分からない。
けれど、それが愛の言葉だということだけは、しっかり理解していた。
割り切った関係のはずだ。愛想のない態度。正面から見つめ合うこともない。こちらを楽しませようと話題を振ってくることもない。街を歩いても一歩以上後ろを歩く。話をすると五月蝿い女は嫌いだと顔をしかめる。
本人は隠しているようだが、顔立ちは相当良いし、立ち振る舞いも綺麗だ。良い体をしてるし、清潔で良い匂いもする。会う度に贈り物をくれる。エリックの抱き方はとても丁寧で、今まで経験したどの男よりもリディアを巧みに高めて満足させていた。
男としてレベルは総じて高いのだ。
公に出来ない関係だが、これほどの男を所有していることで、女としての自尊心が満たされる。それは今のリディアにとって、とても重要なことだった。
それでも、余りに素っ気なくし続けられると、さすがにリディアの心も折れる。彼の態度は恋人としてあんまりだ。気分が悪いと関係を解消しようと思ったこともあった。
だがある日、リディアは立ち並ぶ店のガラス越しに見てしまった。後ろを歩くエリックが自分に注ぐその眼差しを。
愛しげに、熱く、切なく、エリックは彼女の後ろ姿を見つめていた。
意味が分からない。婚約者がいると言っていたじゃないと、リディアはエリックを詰りたかった。
仮初の恋人。あくまでも割り切った関係だと、しつこいほど念を押したのはエリックだった。それなのに、何故そんなに愛おしげに自分を見つめるのか。リディアは彼の裏腹な態度に混乱してしまう。
1年9ヶ月先。世間知らずで有名な、おとぎの国の乙女が王太子と大聖堂で結婚式を挙げる頃、エリックはガレア国に帰る。確実に終わってしまう関係だ。
こんな風に大事に扱われるとリディアは切なくて胸が詰まってしまう。
今も気をやって朦朧としているか、気を失っていると思われているのだろう。
抱き合った後の深い倦怠感の中で、いつも素っ気なく小憎らしい男の不器用な愛情をリディアは強く感じていた。
*
二人は人を介して出会った。
そこには少しだけ複雑な経緯がある。
リディアには仲の良い同性の幼馴染が居た。家の都合で年に何ヶ月かしか会えなかったが、王都に来た時は親の目を掻い潜り、互いの小さな手をしっかりと繋いで街へ繰り出した。彼女はリディアに街で過ごすための多くを教えた。お金の数え方、買い物の仕方、値切り方、人攫いからの逃げ方なんてこともあった。
時は過ぎ、お互いすっかり大きくなってしまったが、リディアが幼馴染を頼みに思っているところは変わっていない。
その彼女がある日リディアにこう言った。
「秘密の恋人を持ってみない?」
リディアに持ちかけられた如何わしさしか感じない話の説明をする前に、まずはローランという男について簡単に知って貰いたい。
ローランは街一番の気の良いハンサムとして名を馳せた平民の若者だった。ところが2年前に実は男爵の落し胤と分かった。跡継ぎを亡くしたばかりの男爵はローランを引き取って嫡子として教育を施した。
元々小器用な頭の良い男だ。1年足らずで貴族の立ち振舞やマナーをすっかり学び終えた。
息子の優秀さに感激した実父は、王侯貴族や由緒ある裕福な商家の子息子女だけが入園を許されるという王立学園にローランを入れた。
その類稀な社交性から学園内で上手く立ち回って友人を数多く作ったローランは、ある目的の為に時々街に再び現れるようになった。
秘密の恋人を求めている貴族や商家の子息といった学友に、容姿に恵まれた平民の若い娘を取り持つという目的で。
ローランの学友の一人に裕福な商家の子息が居て、エリックはその友人なのだとか。こうして何人かの人を介して二人は出会った。
エリックは学園には通っておらず、この国へは伝手を頼ってラキンス商会で修行するために来ていた。
ラキンス商会は世界的に有名な豪商で、本拠地はボルネド大陸ロンバウト国にある。
4年前、ラキンス商会が満を持してモレリア大陸に進出してきた。
モレリア大陸を制覇すべく、率先して動き出した商会長の三男エデュアルトは、その類まれな商才で長男次男を押しのけて次期会長と決まっている。
彼は大国ハヴィランドをこの大陸での拠点に定めた。本当はガレア国の方が商売をするに当たっての条件にあっていたようだが、それを変えるのに充分な理由がエデュアルト・ラキンスに出来てしまったのだ。
その理由はとても有名で、今や街の子供だって知っている。
この話はエデュアルトが、魅力的な商品の数々の入った積荷と共に海を渡り、長い航海の末にハヴィランドに辿り着いたところから始まる。
エデュアルトがこの大陸に上陸し、降りたタラップの先はハヴィランドで一番大きな港だった。
港町に一泊した翌日。彼らはガレア国へ移動途中で、かなりの人数が揃った強盗に荷馬車を襲われるという不幸に見舞われた。どうやら船に居る時に既に荷物を狙われていたらしい。
そこへ、港町の外れの修道院に急ぎの用があったセレスティア・エインズワースが馬車で行きあった。
実はその修道院に従姉が駆け込んでしまったので、彼女はそれを止めるために急ぎ迎えに来たのだ。早くしないと激情家の従姉のことだ。今すぐ修道女にならんと勢いで髪を切ってしまうかもしれない。そんな訳でセレスティアは先を急いでいたが、護衛騎士達へ当然のように助けるよう指示を出す。
騎士達も助けてはやりたいのは山々だったが、そうなると警護対象であるセレスティアの周囲が一時でも手薄になる。警備上良くないという理由で護衛騎士たちは難色を示した。
「彼らに何かあったら、きっとわたくしはこの事を思い出す度に自分を責めるでしょう。気鬱の余り、病を得て倒れてしまうかもしれないわ。彼らを救うのは、わたくしの心を救うことでもあるのよ? あなた方はわたくしを守る為に傍に居るのではなくて?」
そう言って美少女に期待を込めて上目遣いで見られては、断れば男が廃るというものだ。騎士たちは鼻息も荒く腕まくりすると、あっという間に強盗達を伸して、畳んで、小さくしてから縄で縛り上げ、街の警らに投げ渡した。
13歳の令嬢に命を救ってもらったエデュアルト・ラキンスはこのことを生涯恩に着ると彼女に言った。それを丁重に断ったセレスティアが将来王妃になる高貴な身だと知ると、エデュアルトはこの国を栄えさせる一助となることを誓った。
こうしてラキンス商会は、モレリア大陸での商売の拠点をハヴィランドにすることになったのだ。
獲物を狙って羽を広げた鷹を前にした多くの既存の商会は、恐れ慄いて次々とラキンス商会の傘下に入った。進出してきて4年。大陸の7割近い流通や物品はラキンス商会の息がかかっている。この凄腕の商人の元で勉強をしたい者は多かった。
エリックもその一人で、彼は忙しく中々リディアと会う時間を作れない。それでも会った時は必ずリディアに贈り物をくれた。
さすがに商家の出だけはある。女性の厳しい目で見ても、彼からの贈り物はどれもセンスが良く、流行を押さえ、且つリディアにとても良く似合っていた。
彼はリディアの髪を大変気に入っているようだった。高価なヘアオイル、髪飾り、櫛やブラシと良いものが入る度に贈ってくる。彼は会う度に人の目を盗んではリディアの髪を優しい手付きで触っていた。
また、自分に会うときにだけ必ず付けて欲しいと香水もリディアに贈っていた。その代わり、人と多く接するところでは決してつけるなと約束もさせられた。まるでマーキングだ。
気持ちの在り処に疑いを持つほど、普段のエリックは素っ気ないが、そういうところで彼は独占欲を見せた。
彼はハヴィランド国の王都に住まう平民の恋人たちがデートする時の定番である場所へ行きたがった。劇場やカフェ、出店が並んでいる場所、噴水のある広間、観光名所などにリディアを連れて行った。その癖、並んで歩いて会話を楽しむなんてことは絶対にしない。周囲に人が多ければ多いほど離れて歩く。リディアがガラス越しに後ろを歩くエリックを見ると、やはり彼女を愛しげに見つめていた。
もしかしたら思い出を作りたかったんだろうか。いずれ祖国に帰る彼は、自分のいる景色を瞳の奥に閉じ込める為に後ろから見つめているのかもしれない。そう思うとリディアの胸は締め付けられるのだった。
隣を歩きたがらない理由の大きな一つにエリックの容姿もあった。
強い癖のある赤毛、緑の瞳、ソバカスの組み合わせは、ありがちかも知れないが居たら目立つ。しかもエリックは背が高い。自分が特徴的なことを本人も分かっていた。
少し長い前髪がいつも銀縁のメガネに掛かっていた。それを鬱陶しげに指で払う仕草をリディアは気に入っている。
その眼鏡に度が入っていないとリディアが既に気付いているのをエリックは知らない。
ソバカスがなく、メガネがなく、赤毛でなければ、顔立ちは美しいのだ。素晴らしい美男として周囲の視線を違う意味で攫っただろう。
抑えているようだけど、立ち振舞が綺麗なので貴族かと思ったとリディアが言ってみれば、子供の頃、行儀見習いで数年奉公していたのだそうだ。
本当にただの商会の奉公人なのだろうかとリディアは長らく疑っていた。彼にも色々と秘密がありそうだ。
実はリディアにも秘密にしていることがある。
平民と言っていたがその実、男爵家の長女だし、身分だけじゃなく年齢も偽ってた。17歳ではなく、実際は19歳。しかもまもなく20歳になる。
3年前に婚約者が落馬して亡くなったのが、リディアの運の尽きだった。亡くなった婚約者に求められるまま純潔は捧げてしまっていた。結婚すると思って応じたのは間違いだった。
早い者だと結婚して初めての出産をしている者もいる年齢だ。
そんな年齢になって急に結婚のアテを失ってしまった運の悪いリディアは、急いで次の結婚相手を漁らなくてはならなかった。
そうやって気が焦っていたのが悪かったのか、夜会で知り合って親しくなった子爵令息に、やり捨てられた。
彼は亡くなった婚約者と同級生でリディアが純潔でないのは聞いて知っていたのだそうだ。とても自慢げに武勇伝を語っていたそうなので、恐らくその話は他でもしてるだろう。もうどこで漏れるか分からないと、困り果てたリディアは、恥を偲んで父に亡くなった婚約者に純潔を捧げていたことを打ち明けた。
当然だがリディアの父は烈火の如く怒り出し、年の離れた貴族の後妻か愛人として生きるしか道はないと吐き捨てた。
今は少しでも有利な嫁ぎ先を探されている。どれ位の猶予が残されているのか分からないが、若い恋人と戯れて過ごせるのは今しかない。
*
事後の余韻を楽しんだあとリディアは避妊薬を飲むことを強要される。飲んだあとは口の中に残っていないか執拗に確認された。妊娠したら自分も困ることになるが、こんな風に入念に確認されると興ざめだ。
今日は表情に出てしまったらしい。
「――きみの為なんだ」
エリックは機嫌が悪そうに顔をしかめる。
「うん……でも、これ苦くて」
そう言う理由ならと、エリックは珍しく申し訳無さそうに目を伏せた。
「分かった。次からは、はちみつ水を持ってくる」
やっぱり返答は素っ気ない。
あの苦い丸薬を飲まないという選択肢をリディアは与えてもらえない。
もし、彼の子を身ごもったら責任をとって妻として娶ってくれるだろうかとリディアは少しだけ考えた。
けれど、リディア本人にも意外なことだったが、貴族から平民に落ちて一生を過ごすのを厭うほどには、貴族令嬢としての誇りはあったようだ。
隣国では裕福な商家の嫡男だったとしても、リディアは貴族以外のところへは嫁げない。ラキンス商会のような豪商ならいざ知らず、一介の商人の妻なんて冗談じゃないと自分の思いつきを否定した。
もしも彼がローランのように貴族の落し胤だったとしたら。
もしも彼が貴族の養子になってくれたなら、同じ貴族として自分は喜んで彼の元に嫁いだだろう。
その日の帰り道。家紋のついていない大きな馬車が彼女の前に現れるまで、そのことはちょっとした想像に留まっていた。
今日この日この時がリディアの運命を確実に変える大きな分岐点だった。
1年後の彼女は現実逃避の為に繰り返す、自身の想像の中でいつもこの瞬間に戻りたがった。
けれど、この時のリディアはそんなことは知らずに居た。
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