薄暮に沈む

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 電車の音が耳の奥底で小さく響いた。あの人がこんなところにいるはずもないのに,再び捜し求めて歩き始めた。もし願いが 叶うなら,今すぐにでもあの人の胸に飛び込みたかった。  ずっと昔から,いつも優しい笑顔が僕の心を暖かくしてくれた。すぐにでもあの両腕でしっかりと抱きしめてほしいと願い,重い身体をズルズルと音を立てて引きずった。  大好きだったあの人を最後に見たのは,蝉の音がうるさい薄暮に沈む熱さの残る玄関前のコンクリートの上だった。肌に触れるコンクリートは生温かく,横たわるあの人の白く濁った瞳の奥に,僕自身が映っているのに気付いたとき,その時初めて僕はなにをしなくてはいけないのかを理解した。 『会いたい……』  あの夏,初めて男が家に来た。一見真面目そうな男は白いシャツに細身の黒いパンツで,仕事帰りなのかいつも黒い革製の鞄を手に持っていた。あの人は俯いたまま男を迎え入れると,男は何も言わずに汗で背中に貼り付いたシャツを脱ぎ捨て,黙って浴室へと入って行った。  そしてシャワーを浴びると,タオルを腰に巻いてはいたが濡れた身体のままあの人を連れて寝室へ姿を消した。すぐにドアの向こうでは苦しそうな声が漏れ聞こえだし,あの人が乱暴に扱われ,首を絞められ,何度も何度も意識を失っては逃れられない恐怖に耐えているのが手に取るようにわかった。  その間ずっと,僕はなにもできず,男に見つからないように部屋の隅で隠れるようにして震えていた。  その日以来,男は夜になるとやってきて,簡単な食事を済ませると当たり前のようにあの人を襲った。  男の太い腕があの人の身体を締め付け,苦しそうな声をあげるあの人を,僕は助けることができなかった。毎晩,毎晩,終わりのない拷問にも似た行為が目の前で続けられた。  どうして男が家に来るようになったのか,どうやったら助けられるのかを毎日考えた。それでも男を見ると恐怖で動けなくなり,部屋の隅で身を小さくしてあの人の苦しそうな悲鳴にも似た声を聞きながら震えながら隠れていた。
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