薄暮に沈む

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 大好きなあの人の楽しそうな笑顔がなくなってから,どれくらい経ったのかはわからなかった。時間が止まったかのように感じられたが,相変わらず蝉は狂ったように鳴き続け,その五月蠅さが時間が動いている現実を突きつけた。  男が来るようになってからはほとんど食事をとらなくなり,ペットボトルの水を飲んでは吐き,何種類もの薬を一気に流し込んで意識を失うように潰れていた。そんな姿を見ても,相変わらず僕はなにもできず,隠れるように部屋の片隅で身を丸めて黙っていた。  こんな毎日を繰り返すようになったのは,あの夏,白いシャツのあの男が突然家に来るようになってからだった。あの日以来,あの人から表情が消え去り,痛みも感じなくなったのか,どんなに乱暴に扱われてもまるで人形のように反応をしなくなった。  あばら骨の浮き出た身体には痣が目立ち,丸みを帯びていた尻はすっかり骨と皮だけになっていた。乾いた唇は裂けて血が滲み,震える指先で必死に髪の毛をなおしている姿を何度も目にした。  優しかった面影は消え,健康的な肌はすっかり乾燥してひび割れてしまった。掃除の行き届いていた部屋はすっかり荒れ果て,まるでゴミ屋敷のようになっていた。そんなゴミ屋敷でも男は気にせずにやって来て,ソファに座ると持ってきた缶ビールを口にした。  定期的に男は黒い革製の鞄から小さなビニル袋を取り出して,テーブルの上に無造作に放った。その度にあの人は震える手でそっとビニル袋を拾い上げると,キッチンへと消えてゆきゴソゴソと一人でなにかをしていた。しばらくすると銀紙をクシャクシャと丸める音と,何度も火を点けるのを失敗するライターの音だけが部屋の中に響いた。  三十分もすると歪んだ笑顔のあの人が現れ,ソファに座る男の前で(ひざまず)き深々と股間に頭を沈めた。どれくらい時間が経ったのかわからなかったが,男がソファで寝ている前にあの人が笑顔のまま号泣して立っていた。  全身,骨と皮しかなく,肌は黒ずみ髪の毛はボサボサで汚れていた。手には小さな包丁を握りしめ,ゆっくりと頭上に振り上げたかと思うと,男に倒れ込むようにして覆いかぶさった。  僕は異変に気付いて起き上がったが,その瞬間,男の左肩のすぐ横に深々と包丁が突き刺さり,そのまま柄の部分が勢いよく折れ曲がった。
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