薄暮に沈む

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 男が包丁で刺されたことを確認する前に,蹴り上げられたあの人の身体が宙を舞って壁に叩きつけられた。激しく頭を強く打ち付け,痩せ細った身体が不自然な向きで倒れた。  起き上がった男は自分の身体に刺さる包丁を確認すると,怒り狂い,床に倒れているあの人を何度も踏みつけた。顔が潰れ,歯が飛び散り,骨が砕ける音が響き,床一面に血が広がると,やけに水っぽい軟便が床を汚した。  男は肩を庇うようにして部屋を出ると,フラフラとどこかへと消えていった。僕はグチャグチャになったあの人の元へと近づくと,そっと顔を覗き込んだ。いつ以来なのか,これほど顔を近づけるのは久しぶりだった。  『ご,めんね……ごめんね……痛かったでしょ……ちゃんとできなくてごめんね……』  白く濁った瞳から涙がこぼれ,関節の曲がった腕で僕の頬を撫でようとした。 『ごめんね……痛くしてごめんね……ほんと,ごめんね……』  僕は曲がって届かない手に自ら身体を預けるようにして,頭を撫でさせた。優しい手が僕の頭を撫でると,記憶の中に残るいつも一緒に過ごした幸せな時間が走馬灯のように駆け巡り心をいっぱいにした。  ずっと撫でて欲しかった。ずっと触れていたかった。懐かしい指先に胸が痛くなった。 『ほんとにごめん……わたし,騙されちゃった……ごめんね……』  僕を撫でる指先に力がなくなると,慌てて焦点の合わなくなった瞳を覗き込み,小さな血の泡を吹いている口元を確認した。急いで誰かに知らせて助けを呼ばなくてはと思い,痩せこけた腕を優しく噛み,変わり果てた身体を玄関の外へと引きずった。
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