薄暮に沈む

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 あれからどれくらいの時間が経ったのかはわからない。意識を取り戻すと,あの夏を忘れさせてくれない刺すような陽射しが,逃げ場のない僕を容赦なく照りつけた。  誰もいないモノクロの世界を彷徨い,唯一人の気配を感じることができる古い小さな駅にあの人の姿を求め,重く自由の効かない身体を引きずりながら一歩また一歩と歩みを止めずに歩き続けた。  お腹から飛び出した腸を引きずり,身体が千切れ,いつのまにか擦り切れてなくなった下半身の軽さに,かろうじて動く前脚で残った全身を支えて歩みを続けた。どんなに身体が不自由になっても,どんなに目が霞んで見えなくなっても,あの人の優しい笑顔を求め続けた。  初めて会ったあの日,小さな僕を優しく抱きあげてくれた,僕を選んで家族に迎えてくれた大好きなあの人に会いたくて,あの人と一緒に電車に乗りたいと安楽を求めて彷徨った。  一年なのか十年経ったのか,もはや時間の感覚はなくなり,灼けるような陽射しのなかをずっとずっと,ただひたすらあの人を捜し求め,随分と小さくなった身体を引き摺りながら,古い小さな駅の周りを彷徨った。  もう一度だけ,あの人に優しく抱きしめて欲しいと願って。 『会いたい……会いたい……会いたい……』  激しく鳴き続ける蝉の音に包み込まれ,視界が狭くなってゆくとともに僕の思考も薄れていった。大好きだったあの人の笑顔を思い出すと僕の心が温かくなり,もう一度だけでも会いたいと願い,ほとんど動かなくなった身体を僅かに引きずった。  ほんの少しだけ休みたいと思い,ゆっくりと目を閉じようとした瞬間,突然目の前に男が現れた。あの夏の出来事が一気に頭のなかを駆け巡った瞬間,僕の心が張り裂けそうになった。男に牙を向け,怒りと恐怖と憎しみが心を満たしたと同時に,男は無言のまま乱暴に僕の頭を踏み潰した。  男の手にはミイラのように干からびたあの人の頭が吊るされ,最後のこの瞬間に僕にはもうあの人を救うことも笑顔をみることもできないと悟った。
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