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Lesson 3 くわえたばこと甘い唇
知らないうちに眠っていたことに気がついて時計を見ると、夜中の三時を回っていた。
風呂にも入らないでそのまま眠っていたし、布団も掛かっていなかったから、起きぬけはひどく寒く感じた。
椅子に掛けてあったジャージを上に羽織って、気分転換に窓をあける。
10月の半ばの秋の夜風はちょっと肌寒くもある。
そんな風にくせっ毛のある私の髪がふわりと撫でられた。
網戸を開けてみる。
道路を走る車の影も見当たらない外はしんと静まり返っていた。
窓枠に肘を立て掛けて空を見上げる。
南の空には星が輝いている。
だけど詳しくないから、どんな星座のなんていう星なのかはさっぱりわからない。
――葵に訊いたらわかるんだろうな、きっと。
葵はいろんなことに詳しい。
小さいころはよく一緒に夜空を眺めていたっけな。
「今お目覚め?」
予想もしていなかった声に問いかけられた私の体が思いっきりこわばった。
声のしたほうへゆっくりと顔を向ける。
胸元のボタンを大胆に外したYシャツ姿の葵が、まだ火のついていないたばこを片手にこちらを見ていた。
整った顔に揶揄するような響きをにじませながら自分の家のベランダにもたれかかるようにして立っている。
「そっちこそ、まだ寝てないの?」
「なかなか忙しくてね。徹夜になりそうな勢いです」
答えながら葵は手にしていたたばこに火をつけてくゆらせた。
白い煙がゆらりと立ち上っている。
なにかを考えるように手元を見ていた彼が思いだしたかのようにくすっとかすかに笑いをこぼした。
「なによ?」
「ん? 寝なくて良かったなあって思ってさ」
「なんで?」
「ヒナの顔を見られたからだよ」
そうやって彼は柔らかな笑みを私に向けた。
その瞬間、私の小さな胸が跳ね上がる。
葵から目が離せなくなる。
――ちょっと待って! なんでそういうことをさらっと言っちゃうの!
顔が熱くなってくる。きっと真っ赤になっているに違いない。
赤らんでいるだろう顔を悟られないように私はそっと顔を横に向けた。
だけど視線の端には葵がいて、彼がフッと悪い笑みを浮かべるのがかすかに見える。
「なんでもそうかもだけど……強く願えば届くもんだなあ」
――なにそれ? どういう意味? 強く思えばってなに? なにを強く思ったの?
私に会いたいとでも思ったってことなのだろうか。
いや、そんなはずはない。
だって葵はいつも私のことをからかってばかりいて、ウソなのか本気なのかぜんぜんわからないことばかり言ってるだけで。
それに年だって離れすぎている。
10歳も年下の高校生なんて葵みたいな大人の男が本気で相手にするわけがない。
だけど聞きたくなる。
聞いたところで葵は答えないってわかってるけど、聞きたくてたまらなくなる。
でもダメ。
聞いても悔しさが残るだけだって、はぐらかされるのがオチだってわかってるもの。
「私の顔なんて見慣れてるでしょ? さっきだって『2時間』も一緒にいたんだから」
「『2時間』ねえ」
葵は手にしていたたばこを再び口にくわえた。
大きく吸い込んで、一息に吐きだす。
ふぅっと白い煙と一緒にため息まで出したかのように、葵は苦い笑みを私に向けた。
「でもさあ、あの時間ってば『俺』じゃないじゃない?」
「『葵』じゃなければ誰なのよ?」
だんだんと落ち着いてきた私は、半ば睨みつけるみたいに葵を見た。
すると彼はまたしても小さく笑いをこぼしたあとで「ごめん」と謝った。
「たしかにヒナの言う通り、俺は俺だよ。だけどさ、あの時間の俺は『先生』なわけでさ。別物でしょ? ひとりの男としての『本宮葵』じゃないんだからさ」
そう言ってもう一度たばこをくわえて煙を吸い込む葵の姿に、またしても胸の鼓動が早くなる。
葵が目じりを下げる。
『家庭教師』の仮面を取った男の顔がそこにある。
自分のよく知っている憧れの隣のお兄ちゃんの笑顔に、私の心臓がバクバクと音を立てて速度を上げる。
――やだ。やだ。やだ。やだったら!
そんな目で見ないでよ。
そんな顔で笑わないでよ。
思い出しちゃうから。
あの夏の、あの日のことをすごく、すごく思い出しちゃって、たまらなくなっちゃうんだから!
「ねえ」
――ほら、きた!
葵は私になにかをねだるときは必ずこう言う。
思わず背筋が伸びる。
だけど身構える時間すらくれずに、葵は次の一手を突きつけてくる。
「キス……したくない?」
予想もしていなかった一言に、ひと際大きく胸が跳ねあがった。
耳の傍で除夜の鐘がガンガン鳴り響いているみたいに心臓の音がけたたましい。
――『したくない?』って聞くのズルくない? したくないわよ。したくなんかないわよ、葵なんかと!
強がって、精一杯否定しても、それは……『したい』の裏返し、悔しいけど真実。
葵は私の反応を見て楽しんでいるみたい。
それも全部わかるのに、どうしてもたばこをくわえた唇から目が離せなかった。
形の良い唇。
うっすらと乗るいたずらな笑み。
見透かすような瞳の奥に浮かぶのは、あの日の身を焦がすような熱い炎。
彼の魅力に囚われて、鎖につながれた私は身じろぎひとつまともにできやしない。
沈黙が痛い。
目を逸らしたい。
この場から今すぐにも逃げ出したい。
だけどできないのが心底悔しくてイライラするの!
ひとり葛藤する私を見透かすようにもう一度葵は笑うと、たばこを口から離して「うーそ」と告げた。
「は?」
「だってこんなタバコくさい口でヒナのカワイイ唇は奪えないでしょ? 嫌われちゃったらお兄さん、ショック死しちゃうもん」
にっこり。
余裕たっぷりな大人の笑みっていうやつを葵は満面にたたえて見せる。
「おやすみ、陽菜子ちゃん。明日はちゃんと早起きするんだぞ? あっ、今日か」
それじゃあバイバイと、私に背を向けてひらひらと手を振りながら、ゆっくりと葵は自室へと戻っていった。
広くて、大きな背中。
たくましい男の人の手と、長い指。
届きそうで届かないその距離に、伸ばしそうになった手を引っ込めた。
葵の姿が消えるとすぐに、ぴしゃりと窓が閉められる音が響いた。
「最低……エロカテキョがっ!」
べぇっと思いきり舌を出して、私は葵の消えていった方向を睨んだ。
汗ばんだ手をしっかりと握りしめる。
――たばこ吸う男の唇なんか、こっちから願い下げなんだから!
声に出しては言えないことを葵に届けと心の中で叫びながら、私はゆっくりと窓を閉めた。
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