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Lesson 5 小さなチャンスを狙ってる?
テスト明けに学園祭がある。
なんでテスト明けにするのだろうかと、毎年のことながら文句ばかりが口から出そうになる。
テスト勉強もしなくちゃいけない。
でも、学祭の準備もしなくちゃいけない。
うちのクラスは本当に定番なんだけど『メイドと執事喫茶』をやることになっている。
女装した男子メイドと普通の女子メイド。
男装した女子執事と普通の男子の執事。
私は裏方希望だったのに思いっきり女子メイドに選出された。
――まったくどうかしてるわよ。
なぜかメイド役だけが投票形式で決められた。
5名枠のその中に私が入るだなんてまさか思ってもみなくて、頭を抱えたのは言うまでもない。
肩までの髪は癖が強くて手入れに毎朝苦労するし、目は二重だけどチャームポイントになるほど大きくもない。
鼻だって高くもなければ低くもないという中途半端ぶりだし。
唇は少し厚くて好きじゃない。
バランスの取れた『ザ・アジア顔』の千波に比べれば、私は本当に普通だと思う。
自信がないのはたぶん、誰かにものすごく愛されているとか、好かれているとかいう裏付けがないせいなのかもしれない。
「おいっ、大霜。そろそろ帰らなくていいのか?」
メイド執事喫茶の看板にひとり向き合っていたところに声が降ってきた。
振り返れば教室の戸口には肩からタオルをかけた部活終わりらしい松永が立っていた。
私は松永から顔をそむけるとまた看板に向き合った。
学祭までは時間がない。
裁縫が苦手な私の代わりに衣装を縫ってくれるというクラスメートの計らいで、看板係にさせてもらっていた身としては、とりあえずキリのいいところまではやっておきたい。
『フラワーアレンジメント同好会』なんて柄でもない名ばかりの会に入っているだけの私には他の子たちより時間がある。
今日はあのカテキョとの約束もないし、部屋に帰って閉じこもる時間をできるだけ少なくしたかった。
――だって隣はあの男の家なわけだし。
仕事で遅くなるってわかっていても気になってしまう。
帰ってくる時間とか部屋の明かりがともる時間とか。
窓からこっそり探る自分に呆れもするし、イライラもする。
だけど学校に長くいればそんな気持ちを抱かなくて済むから少しは楽になる。
だって、ここに葵が来ることは絶対にないのだから――
「もう六時半すぎだぞ。校門しまっちまうぞ」
ツカツカと私のほうに近づいてくると、どっかりと私の横に松永は腰を下ろした。
「なんで戻ってきたの、教室?」
看板の文字に色を塗りながら、ちらっと松永を見てからそう尋ねた。
彼は小さくため息をつくと「部屋の灯りと下駄箱」と答えた。
「チャンスかな……と思ってさ」
つぶやくような声に、私の手がはたととまった。
――チャンス? なんの?
思わず松永を見ると、彼はすぐさま顔をそむけた。
耳が心なしか赤く見えて、照れ隠しみたいにぼりぼり頭をかいている。
――そんなに恥ずかしくなること、私したっけ?
「松永こそ、帰っていいよ。どうせもうすぐ終わるし」
「帰らねえよ」
「なんで?」
「ああ? それは……くそっ! ふたりでやったほうが早いだろう? 手伝ってやるから、さっさと終わらせるぞ!」
そう言うと松永は私の手からペンを取り上げようとした。
「いいって! これ私の仕事だもん」
反射的にペンを持った手を上に上げてしまった。
「ちょ……ばかっ、大霜!」
叫ばれた時にはもう遅くて――松永もろとも私はその場に仰向けに倒れ込む。
松永は瞬時に私の頭を庇って、胸に押し込めるように抱きしめた。
たばこの匂いはそこには勿論なくて……
代わりに、制汗スプレーと学生服のなんとも言えない匂いが入り混じっていた。
葵とは違う匂い。
でも、受けとめる腕の強さと胸板の厚さにそれほどの差はない。
ドキドキと松永の鼓動が耳を伝ってくる。
フッと強い腕から解かれて、私は上を見た。
教室の蛍光灯を背中に受けた松永の顔は影になって、どんな顔色をしているのかわからない。
ただその目にはあの日、葵に宿ったものと同じものが見えた気がした。
熱を帯びた潤みをたたえた目。
それがじっと私だけを見つめていた。
ゆっくりと近づいてくる松永の顔。
少し開いた唇に真っ先に目が行った。
ドクンッと胸が激しく打った。
「なあ」
松永が私との距離を詰めながらささやく。
唇までの距離は10センチメートル。
「目、閉じてくれよ」
お願いだ……と、そんな甘ったるい色を瞳に潜らせて松永はささやいた。
「……手」
ポロリとこぼれる私の言葉に、松永が食い入るように私を見つめてくる。
胸の奥底がジリジリする。
「なに?」
トロンとした松永の目は、あの日の葵と重なる。
なんで、こんなときに葵の顔が浮かぶのだろう。
――葵は……何してるかな?
「髪、踏んでる」
そう言った瞬間、ギョッとしたように松永の目が私の顔からその上のほうへと移った。
「わあっ! ご……ごめん!」
松永はそう言うと慌てて私から体を離した。
ゆっくりと起き上る私の目に、頭を抱えすっかりしょげかえった松永の姿が映り込む。
「松永?」
声をかける私に、大袈裟なくらい大きくて深いため息を松永はついた。
ちらりと私のほうへ視線だけをよこすと「折角のチャンスだったのにな」
とつぶやく王子様の背中が猫みたいに丸くなっている。
ここは『残念だったよね』と背中をさすってやるべきなんだろうか?
「でもまあ……暗くなってきたし、帰るか?」
そう言いながら松永は立ち上がり、深呼吸をした。
それからまだその場に座り込んでいる私に向かって右手を差し出した。
差し出された手を何の躊躇もなく取った私をグイッと力任せに松永は引っ張った。
「きゃっ!」
そのまま私はまた松永の胸の中へと勢いよく倒れ込む。
それは本当に一瞬の出来事だった。
不意を突くかのごとく、松永の唇が私の顔に重なる。
右の頬に触れる柔らかな感触。
でも一瞬、触れたとわかったときにはもう松永の顔は私の頭の上にある。
「大霜、隙ありすぎ」
そう言って彼はまた白い歯を見せて笑った。
「男って小さなチャンスをいっつも狙ってんだぜ」
松永は私の腕を離すと、代わりに机の上の私のカバンを手にとって「帰ろう」と言った。
「あ……うん」
教室の電気をパチンと消して、スタスタと早足に歩く松永の背中についていく。
松永が落としたキスの場所を指先で探る。
彼の唇の感触がまだそこにうっすらと残っていて……そこだけかすかにほてっている気がする。
キスの瞬間。
ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ『ドキッとした』なんてことは絶対に言えない『秘密』だなんて思いながら、私は静まり返った廊下をひたすらに歩いていった。
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