セミの聲

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 僕らの夏が来た!  右手に感じるぬくもりを握り締め、僕は彼女を連れ出した。海、山、野原。お祭りだってある。折角の夏だ。すべてを堪能して最高の想い出にしよう。  山では朝日を見た。町はずれにある少し大きな山のてっぺんから見た。  普段運動なんて碌にしていなかったから、てっぺんに着くころには2人ともへとへとになっていた。それでも山の輪郭が白く輝き、少しずつ太陽が顔を覗かせる様子は、僕らに疲れを忘れさせてくれた。  太陽が昇り切ったあと、彼女は「素敵な夏になりそうね。」と太陽に負けないくらい明るく微笑んだ。  ミーンミンミンミン・・・どこからかセミの鳴き聲が響き始めた。  野原では一日中駆け回った。これまでの窮屈な生活とは全く逆の広い草原で、お互いを追いかけあった。  太陽は高く上り、どんどん暑くなっていく。額から流れる汗も気にせずに、僕らは追いかけあった。これまでは限られた時間しか会えなかった。それらの時間を取り戻すかのように、僕らは互いを追いかけあった。  太陽が少しずつ西に下がり始めた頃、僕らは大の字になって草原に寝転んでいた。彼女は「あなたとこんなにたくさん一緒に居られてうれしい。」と少し恥ずかしそうに呟いた。  ジーッ、ジーッ・・・セミの聲がうるさいくらいに響く。彼女の言葉に少し照れくさくなったので、僕はセミのせいで聞こえなかったふりをした。  海では夕日を見た。砂浜に座って、お互い何も言わずに沈んでいく夕日を見た。  太陽は朱く輝き、海の中へ静かに沈んでいく。彼女は顔を朱く照らされながら、その様子を静かに見守っていた。  彼女が何を考えているのか。それは予想できるけれども考えたくはなかった。まだ夏は終わっていない。それを考えるのは夏が終わってからで良いと思った。  カナカナカナカナ・・・セミの聲が波の音とあわさって、音楽を奏でているようだった。その音は、僕らの夏の終わりを悲しんでくれているように感じた。  お祭りでは様々な出店を楽しんだ。  賑やかな灯りの中、彼女は大はしゃぎで出店のものを楽しんでいた。射的では上手く当たらず頬を膨らませた。水風船を奇跡的に釣り上げ、ご機嫌で手のひらで跳ねさせていた。りんご飴を食べて真っ赤になった舌を見せてきた。彼女は出店の灯りのように様々な表情を見せてくれた。  お祭りの最期には花火を観た。僕たちが幼いころに見つけた「特等席」。神社の裏の一本杉に座って花火を観た。  花火が上がるたび、彼女は小さな歓声を上げる。その様子を横目で見ていたとき、彼女はポツリと言った。 「ありがとう。この夏、いろいろなところへ連れて行ってくれて。」  花火から目を離すことなく彼女はつづけた。 「病気になってからずっと病院にしかいられなかったから、この夏はとても楽しかった。あなたと昔のようにたくさん遊べてとても楽しかった。」  彼女は静かにこちらを向いた。 「実はね、もう長くはないんだって。」  知っていた。  だから、おばさんに無理を言って外に連れ出したんだ。  もう一度、外の広さを思い出してほしかったから。  もう一度、彼女と一緒に居たかったから。  途切れ途切れの聲がした。見ればセミが地面に転がっていた。彼女はそれを優しく手に包んで俯いて言った。 「私はこのセミと同じかもね。暗く狭い土の中でじっと過ごして、外に出ても生きていられるのは僅かだけ。」  彼女は顔を上げて微笑みながら続けた。 「でもね、私はその僅かな時間がとても嬉しかった。かけがえのない宝物になった。きっとこのセミたちもそうやって色々経験して、満足して夏と一緒に終わりを迎えたんだと思う。」  僕はその言葉に気の利いた返事もできず、ただ彼女の手の中で弱々しく鳴くセミの聲を聴くことしかできなかった。  それから数年が経った。  今年の夏もセミがうるさいくらいに鳴いている。  僕はその聲を聞きながら、君の墓前にりんご飴を置いた。
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