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クリスはグレースの執務室の窓辺から外を見ていた。窓の外に生える木々の枝には小鳥が留まり、チュンチュンと朝のハーモニーを奏でている。そののどかな風景とは対照的に、眼下を見下ろすと、広いグラウンドに等間隔に兵士が並び、基礎訓練を行っていた。
時刻は午前九時。朝礼と朝食を終え、兵士たちは訓練に勤しむ時間だ。そこにはセオドールとフゥラの姿もあった。二人とも汗だくになりながら腕立て伏せをやらされていた。どうやら二人は軍人としては体力がなさすぎたらしく、別メニューでしごかれていた。
「まだ八十回だぞ!!今日は二百回だと言っただろう!!おい!!地面に寝そべるな!!」
「む……むりです……」
「お前が無理だと言っても魔獣は襲ってくるぞ!疲れたら黙って命を差し出すのか?そんな軟弱者は要らん!!」
「はい……がんばります…………」
泣き言も許されず彼らは運動をさせられ続けていた。その過酷な光景を見て、やっぱり入るのはやめようかな、などと彼は思ってしまう。二人を指導しているのはヴィットリオ・シモーネという教官だ。既に現役からは引退しているようで、その顔には年季の入った皺がいくつも刻まれている。
大変だなぁと思って見ていると、会議を終えたグレースが執務室へ戻ってくる。
「二人の様子はどう?今日もしごかれていそうね」
「ああ、見ているだけで辛そうだ。……そういえばグレースもあんなようなことをやっていたのか?」
「ええ、もちろん。今でもあれくらいなら出来るわ」
何を当たり前のことを、とでも言いたげに彼女は言った。その華奢な身体のどこにそんな体力が眠っているというのだろうか。グラウンドで汗を流している筋骨隆々の兵士達が出来るというのは分かるのだが。
「俺もここに入ることになったらアレをやらされるんだな……。ついていける気がしない」
「え!?ええ、そうだけれど!クリス君ならきっと大丈夫よ!私にだって出来るんだから!」
彼女は彼の心が「やっぱり島に帰りたい」という方向へ流されつつあるのを察したのか、焦ったように彼を励ます。来てほしかったり来てほしくなかったり、この人は忙しいなぁと彼は思う。
「そうだ!空いた時間に私が訓練してあげる!予行演習。どう?」
彼女は良いことを思いついたと言わんばかりに目を輝かせ、彼に提案してくる。前にもこんなことがあったように思う。この瞬間の彼女はまるで小さな子供のような顔をしている。
そんな善意100%の視線を向けられると否定しずらくなる。もとより興味はあるため断る理由もないが。
「前訓練には参加させてあげられないとか言ってなかったか」
「それは他の兵士のメニューについていけるわけがないからよ。個人レッスンなら何も問題ないでしょう?」
彼女からはもっともらしい理由が返ってきた。確かにそれならば問題なさそうだ。
グレースはグロリアスの中でも有名な人物らしく、「蒼き流星」という二つ名までつけられていると聞いた。その由来までは知らないのだが、そんな戦闘のプロから直接指導してもらえるチャンスはそうない。
「やってみたい。グレースって蒼き流星って二つ名付くくらい強いんだろ?俺も強くなりたいから、教えてくれるっていうのならその言葉に甘えたい」
「その呼び方恥ずかしいからやめてちょうだい!まあ強いっていうのは否定しないけれど……」
「蒼き流星」という単語を聴くと、彼女は耳まで真っ赤になる。確かに変な渾名を付けられるのは気持ちの良いことではない。しかしクリスの「下着ソムリエ」に比べれば恥ずかしくも何でもないのでは?と思う。
「俺が下着ソムリエよりかっこいいから良いだろ。渾名交換するか?」
「みんなの誤解は解いておくから……。それはそれとして!どうせだしその渾名がつく理由になった高速飛行を教えてあげよう!」
「高速飛行?」
高速飛行は非常に難易度の高い魔法の一つだ。クリスも空を飛ぶことは出来るが、フゥラほど上手く出来ない。それにしてもそれが渾名の理由となるとはどういうことなのだろうか。
「ちょうどもうすぐお昼だし、実演してあげる。ご飯の前にね」
彼女は不敵な笑みを浮かべながらそう言った。
クリス達は兵士達と入れ違いになりながらグラウンドに出た。気持ちの良い日差しが彼らの肌を照らす。駐屯地内にはご飯の良い香りが漂っていた。そのご飯の匂いとは逆の方向へ彼らは向かっていく。
「この辺でいいかしら。クリス君、ちょっと両手上げてくれる?」
「え、はい」
クリスは言われるがままに両手を挙げた。すると後ろからグレースが近づき、自分の身体を押し付けるように、彼を強く抱きしめる。もちろん彼の背中には彼女の豊かな双丘の感触が伝わる。
「え!?ちょっ!?」
「不快だったらごめんなさいね。でもそれを気にしている余裕はないと思うから、安心して?」
いえ、むしろ快感です。彼はそう心の中で呟く。彼が抵抗しないのを確認し、彼女は出発する旨を伝える。
「それじゃ、ちゃんと掴まっていてね」
そう彼女が言った瞬間だった。クリスは自分の身体が今までに体験したことのないスピードで上空に向かって急加速するのを感じた。
「うわあああああああああああああ!?!?!?!?」
あっという間に足元の駐屯地が小さくなっていく。スピードもそうなのだが、身体に吹き付ける風も尋常ではなかった。口を閉じているのに風の力で唇が捲れてしまうほどだ。そしてそのまま二人は雲に突っ込む。クリスはぶつかると思い目を閉じるが、予測していた衝撃はいつまでたっても訪れないのだった。目を開くとそこは一面灰色の世界だった。上も下も全て雲だった。彼は雲に触れるほどの高さまで上昇したことなどない。故に雲はもっと柔らかいものだと思っていたが、いざ突っ込んでみると、それは霧のようなものだと分かった。雲の中を進むからかいつのまにか服は水でビショ濡れだった。
グレースは止まらず、そのまま雲を通り抜ける。次の瞬間、一気に視界が開ける。雲の上には何も景色を遮るものはなく、まるで真綿の絨毯の上にでもいるかのようだった。空はどこまでも真っ青で、いつも見ている空よりも綺麗に見えた。
クリスはこの景色に感嘆した。だがこの光景もどんどん足元へ遠ざかっていく。グレースは更に上昇を続けた。次第に空は青ではなく黒くなっていった。眼下には青い地球が見える。そして横を見ると、まさに地球と宇宙の境界が目に飛び込んでくるのであった。普段、宇宙から地球を見下ろすことなど出来ないが、今は青く丸い地球が見えそうになっていた。このまま進んでいけば、じきにまん丸の青い星が足元に見えるはずだ。クリスは興奮で胸が高鳴る。グレースのように魔法が使えるようになれば、いつだってこの光景が見られるのだ。それは非常に魅力的な能力だと思う。
グレースは速度を落とす。そしてしばらく進んだ後、完全に上昇を停止する。
「どう?すごいでしょう?」
「ああ、本当にすごい。俺達が住んでいた場所って本当に球体だったんだな。それに世界から見たらアペニン島も豆粒みたいだな。こんな光景見せつけたらどんな女だって落とせそうだ」
「ふふっ、高速飛行を使いこなせるようになれば、これくらいのことは朝飯前だよ。もっとも、これはまだ本題ではないんだけれど」
クリスは眼下に広がる地球を見ていた。それはどんな宝石よりも美しく、複雑な模様を作り出していた。いつも見ているような光景はそこにはなかった。この世界と比べたら、いつも見ている自分だけの世界での出来事など、ちっぽけなものでしかないと思えた。
「君が何かしたって、この大きな世界を動かすことは難しい。だったら、少しくらい自分に正直になったって世界は揺らいだりしない、許容してくれる。そうは思わない?」
彼女は静かに言う。最早彼女の声すら世界の小さな揺らぎのように感じられた。全ての感覚が鈍く、小さくなっていくようだった。
「クリス君、貴方は今どうしたい?」
彼女が耳元で囁いた。その微かな言葉は、不思議とこの無の空間の隅々にまで響くようだった。彼はこの神秘的な空間を心行くまで飛び回りたかった。何も考えずにただ気の赴くままに。永遠に。だが果たしてそんなことを彼女は聴きたいのだろうか。
「クリス君、難しく考える必要はないよ。思ったことをありのまま言えばいいの。そこに答えに辿り着くためのヒントが隠されているはず」
「ありのまま……か。俺はここを自由に飛び回りたい」
自由、という言葉が自分の中で何か引っかかる。グレースはまだ何かを待っているようだった。彼に時間を与えてくれているのかもしれない。自由、そうか自由か。彼は何か一つの答えを得た気がした。そしてそれを口で伝える。
「グレース。俺やっと分かった気がする。自分が何をしたいのか」
「うん」
「俺は今まで誰かのために何かをしたかったんだ。その誰かはセオドールやフゥラだったり、グレース、お前だったり。」
「うん」
「でもそれは俺のためじゃなかった。俺は誰かに俺を認めて欲しかったんだ。何故かは分からないが、お前はそれに気が付いていた」
「うん」
「その誰かっていうのが分かった。俺なんだ。だから俺は俺を認めたい。どうすれば認められるのかは分からない。それこそ誰かのために何かをすることかもしれない。でもそれはもう誰かのためじゃない。俺のためだ」
グレースは彼の肩に頭を寄せ、「よく言えました」と呟いた。思えば、サインを止められたあの時からずっと彼女はこのことを伝えたかったのかもしれない。それにしても、随分と子供扱いされているように彼は感じた。
「クリス君。人は誰しも自分の信じるものに従って生きたいと思っている。でもそれを顕在的に自覚している人は少ない。自分の信じるものが何か、どうすればそれに従ったことになるのか、私にだって全ては理解出来ていないと思う。そして理解出来ていたとしてもその信条に沿って生きることが出来るとは限らない。クリス君はどう思う?」
彼女は彼に問いかける。難しい質問だったが、今の彼になら分かるような気がした。
「俺も今それを自覚したばかりだから、それはその通りなのかもしれない。そしてその通りに生きられない人がいるのもその通りだと思う。今の人類にとって地球は窮屈すぎる。こんなにも広い大地があるのに、人が住めるのはごく一部だ。グレースはそんな世界を守りたかったのか」
「少し違うかな。ほら見て、人が住んでいないところにも植物は生えているじゃない?地球は私達人類だけのものではないのよ。人類はお互いを理解することで戦争の軛から逃れた。けれど今は魔獣という新たな脅威に直面している。私達人類は人類以外のものとも対話すべき時が来たのよ」
彼女は青い星を指差して言う。人類が住んでいる部分は建物の屋根やコンクリートの色で白っぽくなっている。だがそれは目の前の光景のうちほんの一部分でしかなかった。他の部分には青々とした緑や広い砂漠が広がっており、そこには数々の生命が息づいている。人間はその中の一つでしかないのだ。
「グレースは……生命を守りたいのか?」
その問いにグレースは答えなかった。そしてニコっと笑う。
「高速飛行のためには迷わない心が必要なの。誰かのために思い描いた道は咄嗟の修正が出来ない。だから迷った瞬間に地面に激突することだってあるわ。だから自分で道を作らなければならないのよ」
「おいおい、教えてくれたっていいじゃねえか」
「ダーメ。まだ君には早いわ」
彼女は彼の顔を覗き込んで言う。そして彼女の拘束が緩んだ。クリスの足が宙で揺れる。
「さ、高速飛行の練習よ。今からクリス君を落とすから、頑張って飛んでみなさい。コツは自分を断熱カプセルのなかに入れることよ」
彼女はウインクして言った。クリスは聴き間違いかと思った。ほんの少ししか飛べない彼が、ここから落とされればどうなるのか分からないのだろうか。
「待ってくれ!俺はこんな高さから落とされたら――」
「それじゃね~」
クリスの言葉を言い終わる前に、パッと拘束が解かれる。支えを失ったクリスの身体はあっという間に加速し、落下していく。
「うわああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!!!」
彼が落下していくのに合わせてグレースも降下を始める。もちろん、彼はちゃんとすぐそばにグレースがいることに気が付いていない。
(ど……どうすれば良い!? 確か最初に空を飛ぶ練習をした時に高所から落下時の対策を教えてもらったはずだ……! 姿勢制御はこ……こんな感じのはずだ!)
クリスはヤケになりながらも記憶を頼りに腕と足を広げて姿勢制御を試みる。これは上手くいき、安定した姿勢を維持することに彼は成功する。次にこの前魔獣と戦った時のように減速を試みようとする。だがそれを行うにはあまりに落下スピードが速く、チューブを作ろうとしても作り始めたそばから通り過ぎてしまうのだ。
彼は別の手段で減速する必要があった。そのためにまずは滑空を試みる。幸い近くには雲があったため、その水を利用して氷の翼を作り出そうとする。彼は雲に突入し、水を集めていく。
「さむっ!これじゃ地面に着く前に死ぬわ!」
雲に突入したお陰で彼はずぶ濡れになる。更に落下時に発生する気化熱によってどんどん体温が奪われていく。上昇時も雲を突っ切ったが、その時よりも寒く感じた。氷の翼は作れそうだが、これでは滑空中に凍死してしまう。
何とかして体温を確保せねば。そう考えた彼は火を起こそうとし、手を前方に突きだす。するとその手を誰かが掴んだ。驚いて横に振り向くと、そこにはグレースがいた。彼女は何か喋っているようだが、風の音でよく聴こえない。すると彼女の声が頭の中に直接響いてくる。
(ごめんごめん、こんな風の音じゃ聴こえなかったわね。火なんか起こしたら丸焼きになっちゃうわ。今日の私の夕飯になりたいのならそうしてくれても構わないけれど)
話には聞いていたが、これがテレパシーというやつなのだろう。音とは別のメッセージ伝送手段だが、体験するのは初めてだった。故にコミュニケーションは一方的なものになる。
(あら、クリス君はまだテレパシー使えないのね。気にしなくていいわ。今はどう?寒い?)
口をパクパクさせる彼を見て察したのか、彼女は一方的に喋る。彼女に言われて気が付いたが、手を握られてから不思議と寒さを感じない。彼は首を横に振った。
(私は自分を中心にして、魔法で断熱層を作っているのよ。だからその範囲にいれば寒くない。密度の違う空気を作り出せばいいわ。やってみなさい)
正直言っていることの意味がほとんど分からなかった。しかしそれだけ言うと彼女は掴んでいた手を離す。すると再び凍えるような寒さが彼の身体を襲う。早急に彼女の言った通りのものを作らなければ。
彼は密度の違う空気、という言葉を頼りに圧縮空気の壁を自分の前面に作り出し固定した。すると風はそれにぶつかり、頭部周辺の寒さが和らぐように感じた。
本来であれば圧縮空気は周囲の空気と同じ密度になるように拡散するが、魔法で固定しているため拡散しないようになっている。更に圧縮空気の方が密度が高いため、外の空気は圧縮空気の中を通り抜けていかない。鉄が水銀に沈まないのと同じ理由だ。
クリスはこの圧縮空気の壁を変形させ、全身を守るようにする。するとグレースがまたテレパシーで話しかけてくる。
(上手くいったみたいね。やっぱり実践させるのが一番!それじゃ次の段階よ。今度はその圧縮空気の一部を推進剤にしなさい。今貴方は閉じた空間にいるの。だから進みたい方向の反対側に穴を空けて、そこから圧縮空気を噴射していくと推進力を得られるわ。風船と同じよ。穴を空けたら萎みながら飛んで行っちゃうでしょう?)
そういうとグレースは急上昇していく。そして大きな環を描きながらクリスの周囲を回り始めた。先ほど言っていたことをやっているのだろう。何もない大空を自由に飛び回れるその様子はとても羨ましかった。
(一度空気を噴射すると、圧縮空気で囲まれた空間の空気が減るから、噴射するたびに外を覆っている圧縮空気から内部の空気を補いなさい。外の圧縮空気もそれに合わせて補充するのよ)
クリスには非常に高度なことをしろと言っていることだけ分かった。こういう時は何を言われても理解出来ないものだ。とりあえずグレースの言った通り圧縮空気の噴射を試みる。とりあえず右に旋回してみようと彼は考えた。彼は彼から見て左側の圧縮空気の膜に穴を空け、そこから圧縮空気の噴射を行う。シューっと音がして空気が漏れだす。しかしそれはクリスへ推進力を与えるほどの力にならない。それならば、と次はその十倍の量の圧縮空気を噴射してみる。今度はそれなりの力になり、彼の身体は大きく右へ旋回を始めた。
初めてこんな速さで空を飛べた。感動で彼の肌は粟立ち、思わず歓喜の声が漏れる。
「うおおおおお!!!すげえええええ!!!」
感情が高ぶった彼は、次は上昇しようと先ほどよりも多くの圧縮空気を作り出す。そしてそれを自分の足元から噴射する。
先ほどとは比べ物にならないエネルギーが彼の身体にかかる。グレースに抱かれて上昇した時と同じようなGを感じた。何もかもが初めての体験に、脳が更なる刺激を求める。
まだ姿勢制御が十分に出来ていないためか、時折体勢を崩しそうになる。それでも彼は今よりも先を見たかった。彼は再度圧縮空気の充填をする。
(クリス君?あんまり無茶しちゃダメよ?初めてなんだからゆっくり――)
「いけるいける!見ててくれよ!!」
彼女に聴こえているか否かは定かではなかったが、彼は彼女の警告を無視して急降下を始める。重力による落下スピードと、彼の噴射する圧縮空気のエネルギーが合わさり、猛烈なスピードで彼は落下していく。
「うっひょおおおお!!すげえ!すげえよこれ!!!」
このスピードならフィレンツェからアペニン島まで一瞬で行けるだろう。彼の感情は極度の興奮状態を迎えていた。その状態では気が付きもしなかった。無理な加速によって圧縮空気の壁の中の酸素濃度が落ちていることに。
(クリス君!?クリス君!!止まりなさい!!)
気が付けば彼は睡魔に襲われていた。遠くでグレースの声が聴こえるが、ぼんやりとした頭には内容が入ってこない。そして、落下しながら彼の意識は途切れた。
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