戦いの始まり

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同刻、ゲルマニア地方南部の都市ヴァイルハイムにて、大規模な魔獣の群れが観測された。 その群れは現地守備隊と交戦、同都市を壊滅させる。六時間後、ただちにゲルマニア中の戦力が集められ、五万人もの軍勢からなる討伐隊が同都市へ進撃を開始する。しかしそこは既にもぬけの殻であった。一夜にしてこの都市に住んでいた人口の8割が死傷する。現地へ突入した兵士によれば、そこはまさにこの世の地獄と呼ぶに相応しい惨状を呈していたという。 グロリアスは非常事態宣言を発令し、ヴァイルハイムから半径150kmにも及ぶ広範囲に外出禁止令が出された。さらに近隣都市へ守備隊を派遣するために、周辺地方への遠征軍の要請を行う。だがこれが裏目に回る。 守備隊は二千人から三千人ほどからなり、その内訳は大よそ騎兵五百騎、魔剣士千人、魔砲兵千人となっている。この守備隊はヴァルハイム周辺の都市に配備される。守備隊の配備されない集落は避難“命令“が下され、強制的に守備隊のいる都市へ避難させられた。 その中の一つ、ムルナウが群れによって襲撃を受ける。ヴァイルハイム襲撃から二十二時間後のことであった。兵士の報告によれば周囲は見渡す限り魔獣の海になっており、今までに観測されたことのない個体も散見されるという。あまりの物量のため、第一波で既に前線は崩壊しかけていたようだ。そしてその三十分後、ムルナウからの通信が途絶える。その被害規模から、グロリアスはこれが過去最大規模の群体である可能性があると各地方へ伝達。 ヴァイルハイム周辺に展開していた討伐隊はムルナウ襲撃の報を受けてから二時間後に現地へ到着する。この時ムルナウ守備隊は未だ抵抗を続けており、討伐隊は夜闇に紛れて背後からの奇襲に成功する。しかし群れの中にいた新種の大型魔獣によって守備隊は壊滅。防衛線を突破されたムルナウ守備隊、及び避難民を含む民間人に甚大な被害が出る。 この段階で既に軍民合わせて五万人の死者が出ており、未曽有の災害に人類はパニック状態に陥る。グロリアスは民主監査団と協議した結果、これ以上の混乱を防ぐために、史上初の情報統制を実施する。 討伐隊は背後からの奇襲によって、多数の魔獣の討伐に成功する。しかし群れの大多数はそのまま南下し、アルプス山脈へと逃げ込んだ。アルプス山脈では季節外れの大寒波が到来しており、連日のように猛吹雪が吹き荒れていた。故にこれ以上の追撃は危険と判断し、討伐隊はムルナウの救援に当たる。 それから更に十時間後、人々が働き始める時間帯に、アルプス山中ガルミッシュ=パルテンキルヒェン付近にて再建中のアルプス防衛軍と魔獣の群れによる遭遇戦が始まる。ほとんどが新米で構成されていたアルプス防衛軍は敗走。ガルミッシュ=パルテンキルヒェンは放棄され、住民と敗残兵を合わせた六万人がミッテンヴァルトへ大移動する。道中で殿を務めたアルプス防衛軍の古参兵は玉砕。 この惨劇を受けてゲルマニアの討伐隊が吹雪を突っ切ってのアルプス攻めへと動き出す。この群れはこのままの進行方向であればミッテンヴァルトを襲い、その先にあるインスブルックに到達すると予測された。インスブルックはグロリアス屈指の重要拠点であるため、グロリアスからは最低でも住民の避難が完了するまでの死守命令が出される。同時に集合の完了したアドリア地方軍もインスブルックへ向かい、両軍をもって魔獣の大群の挟撃へ動き出す。 出兵の打診を受け、グレースは自室へ下士官達を招集していた。彼女の執務室には四人の人間が呼ばれる。 「聞いての通りです。既に人類側に甚大な被害が出ています。これ以上の被害は到底容認出来ません。我々アドリア遠征軍はアルプス山脈へ入ります。ブレンナー峠を越えて、インスブルックで一時休憩を取ります。恐らく私達の行軍速度では、魔獣がミッテンヴァルトに到達するまでに間に合いません。そのため、私達がミッテンヴァルトに到着する頃には既に戦端が開かれていることが予想されます。従ってインスブルックまでは輸送機関を使い人員と物資のピストン輸送を行いますが、それ以降は師団の分割も視野に入れ、徒歩でミッテンヴァルトまで向かいます」 「グレース大佐!あの吹雪の中アルプスを行軍するのですか!?夜間は氷点下を下回る温度ですよ!?我々にはロクに防寒具も支給されていません!!そんなことをすれば大量の将兵が凍死してしまいます!!!」 「ローゼンスタイン、今この瞬間も街を追われた民が吹雪の中を避難しているのです。我々は彼らのような弱者を助けるために存在しているのです。違いますか?我々が命を賭ける時は今なのです」 「それでも無謀すぎます!!将兵の命は無駄に浪費してよいものではありません!!」 「その通りです。将兵の命はタダではありません。この作戦の実施のために、グロリアスから旧人類文明の遺産の使用許可が下りました。我々が保管している遺産ナンバー41、人工太陽を使用します。既にフォルテッツァからインスブルックに搬送が開始されているはずです。既にアルプス攻めに入ったゲルマニア討伐隊も使用しています」 「ま……まさかあれほど貴重なものを……」 「今をおいて他に使う場面はありません。元来、人の役にたつために作られた道具なのです。道具にとっても本望でしょう。これなら、いくらかは将兵の損耗を抑えられるはずです。それでも、いくらかの命が無駄になってしまうことに変わりはないでしょう。ローゼンスタイン、貴方はフィレンツェ本部に残って指揮を執りなさい。私は前線へ赴き、直接戦闘に参加します。それと周辺の問屋からありったけの防寒具を調達しなさい。三千人分不足しています」 「……承知しました!ただちに!」 「ミシマ、先行してインスブルックへ向かい、野営地の確保と輸送した物資の確認を。物資リストはこちらです。住民から物資の提供があっても断ること」 ミシマと呼ばれた男は不思議そうな顔をする。 「どうして物資の提供を断るのですか?」 「我々は最悪の状況に備えなければなりません。インスブルックの物資を根こそぎ持っていき、万が一にでも敗北することがあってみなさい。撤退した先に物資がなければ、インスブルックの住人もろともアドリア遠征軍は壊滅します」 「なるほど。今回は戦略的撤退もありえると」 「その通りです。雪山での戦いは圧倒的に我が方が不利です。特に雪山に強いイエティタイプの魔獣が出てくることも考えられます」 イエティタイプとは、主に雪山や豪雪地帯で確認されている魔獣で、全身が濃い体毛に覆われており、人の倍ほどの背丈をしている。この体毛は剣のような刃物を防ぎ、大抵の衝撃は吸収されてしまう。故に、主に炎系の魔法でダメージを与えることがセオリーである。 「あれには物理攻撃はほとんど効きません。必然的に魔法に頼ることになるので、経口摂取出来るエネルギー食品には不足がないかよく確認してください」 魔法はエネルギー、つまりカロリーを消費して発動する。長期戦や何度も魔法を使わなければならない時は、経口摂取出来るエネルギー源を確保しておくのが基本だ。アドリア地方では高カロリーのお菓子がいくつか採用されている。例えば、糖蜜に砕いたナッツを混ぜて固めたものとキャラメルの二層からなるものを棒状に成形し、更にそれをチョコレートコーティングしたものがある。この食品は非常に甘く、一般大衆向けにレシピも公開されている。一つ食べれば消費の激しい上位魔法がもう一度使えるとまで言われており、アドリア以外でもこのお菓子を採用している地域は多い。今回の遠征で搬送している物資の中には、大量のお菓子も含まれており、無事に任務を終えることが出来た場合は、凱旋パレードついでに帰路にある村々の子供たちへ配る予定になっている。 「了解しました。……少し多めにインスブルックに送らせますね」 「ええ、お願いします。ロバチェフスキー、兵の充足状況の報告を」 「アドリア遠征軍四万は滞りなくフォルテッツァに集結完了しました。内訳は魔剣士二万人、魔砲兵一万三千人、工兵二千人、衛生兵八百人、整備兵千二百人、補給兵千人、通信兵二千人、さらに弐式軍刀魔導機関内蔵モデル一万五千本、改弐式軍刀魔導機関内蔵モデル七千本、魔導狙撃銃三千丁、魔導小銃七千丁、魔導砲七百門、重魔導砲五十門、火砲五百門、軽機関銃四百丁、重機関銃四十丁、魔法誘導弾五百発、輸送用大型魔導機関五十両です」 「よろしい。……それにしてもこんなにアドリアに武器ありましたっけ?」 「半分ほどは周辺地方から拝借しました。こんな武器を使う場面などそうありませんからね、どこも快諾してくれましたよ。リヴィエラやユーゴからは義勇兵がアドリアの守備に加わってくれるようです。総勢六千名とのこと」 「そういうことでしたか。よくやってくれました。義勇兵には美味しいイタリアンを堪能してもらいなさい」 「はっはっは!アドリアの料理は絶品ですからね!手配させますよ!」 「よろしい。では各自行動を開始して下さい」 三人は敬礼で答えると部屋を後にした。部屋には近衛師団長のイザベラ・リサルディだけが残る。 「ベラ、近衛は私と共に出撃です。私が戦列に加わらなければならない場合は、必然的に近衛にも戦列へ加わってもらわなければなりません」 「承知しております。規模はいかがされますか」 「基本的に敵の連携を阻むために動くつもりです。ですから第一分隊のみで良いでしょう。多すぎるとかえって動きづらくなりますから。第二、第三分隊はインスブルックにて待機」 「了解しました。ただちに準備に入ります。グレース大佐も出発のご準備を。ご予定されていたボルツァーノまでの直行便が1時間後に発車致します。およそ3時間の行程になりますが、車内で何かお召し上がりになられますか?」 「ふふっ、私なんかに気を遣わなくてもいいわ。ベラは自分の仕事に集中しなさい」 「これは出すぎた真似を」 イザベラも一礼して執務室を後にする。グレースは隣の部屋に待機していたクリスを呼ぶ。 「ホントに戦争なんだな。隣まで話し声が聴こえていたよ」 「軍事機密だから喋っちゃダメよ?クリス君はまだ軍属じゃないからお留守番ね」 お留守番という響きはまるで子供に言い聞かせるようだった。さもクリスが言う事を聞かずに着いてきてしまうかのように。グレースはドサッと椅子に腰かける。 「前から思ってたんだけど、グレースは俺のこと子ども扱いしてるよな 「私からしたら子どもでしょ。倍くらい年違うじゃない」 不満気な彼のボヤキを彼女は一刀両断する。確かに倍の差があれば子どもに見えるのかもしれない。それよりも驚いたことは彼女が四十近いということだ。とてもそうは見えず、クリスは彼女が二十代後半だと思っていた。 「倍……!?逆にサバを読んだところで貫録は出ないぞ」 「あら、素直に喜んでいいのかしら?それとも怒ったほうがいい?」 彼女はご立腹とでも言いたげに腕を組む。これから戦場に向かうことになるのに随分と余裕だ。話を聞いた限りでは、人類側は相当苦戦を強いられているようだったが、不安になりはしないのだろうか。 「あのさ、今度の戦い結構厳しいんだろ?不安にならないの?」 「誰に言っているのよ。私がここのリーダーなのよ?それに本当にピンチになったら空飛んで逃げるわよ。自分のことより、逃げることも出来ない将兵の方が心配ね。こんな大規模な戦闘計画、グロリアス史上初めてなんだから。何が起こるか分かったものじゃないわ」 彼女は珍しく髪を弄る。何本か髪が机の上に抜け落ちる。 「クリス君の友達のセオドール君とフゥラちゃん。あの子たちを戦いに駆り出すことになってしまったわ。実際かなりの戦力だから近衛所属にしておいたけれど、初陣だからどうにも心配でね」 「あいつらが戦場に……!?」 「彼らの所属する第三近衛分隊は5時間後にここを出発よ。言いたいことがあるのなら、ちゃんと言っておきなさい」 「俺……このままここにいていいんでしょうか」 「急にしおらしくなったわね。そっちの方が可愛げあって好みよ」 「ふざけてるわけじゃねえよ」 「あーら可愛げのない。ジッとしているのが嫌なんでしょう?ならこの本でも読んでいなさい。上級魔法について書かれた本よ。ほら、馬鹿なこと考えてないで早く二人のところへ行ってきなさい」 クリスは追い出されるように執務室をあとにした。二人が宿舎のどこにいるのかは知っているが、フゥラのいる女子寮に入るのは気が引けた。とりあえずセオドールのところへ向かおうと彼は足を進めた。 男子寮は二棟ある宿舎のうちの西側だ。二つの建物は連絡通路で繋がっているが、そこを行き来することは少ない。セオドールにはその最上階の隅の部屋が割り当てられている。彼が来るまでは空き部屋だったので、ルームメイトはいないようだった。 クリスが彼の部屋の近くまでやって来ると、彼の部屋から一人の女性が出てくるところに鉢合わせる。 「む、お前はクリス・レイフィールドだったか?」 「どうもこんにちは。まさか知ってるとは思わなかった」 イザベラは彼の姿を見つけると足を止めた。初対面のはずだが、どうやら彼のことを知っているようだ。イザベラはメガネをかけた黒髪の女性で、クリスが見た中で最も女性軍人らしい人物だった。 「ああ、もちろんよく知っているとも。貴様がグレース大佐に卑猥な下着を付けさせて遊んでいる不埒な輩だとな!」 「はぁ!?お前それ信じ込んでんの!?」 「冗談だ。しかしクリス。貴様のその口の利き方は良くない。来週から軍属になるのなら直すように心がけろ」 「ああ、分かったよ」 「申し訳ありません。以後気を付けます、だ」 「も……申し訳ありません。以後気を付けます」 「よろしい。引き留めて悪かったな」 そうして彼女は立ち去ろうとする。しかし何か言い忘れたように足を止めた。 「あ、そうそう。噂がもし事実であった場合は私が鉄拳制裁をくれてやるから、くれぐれも変な気は起こさないように」 「安心しろ……してください。お前……ベラ中佐にやられる前にグレースに消し炭にされますよ」 「フッ、違いない。それと私の名前はイザベラ・リサルディだ。最初に名乗らなかった私が悪いのだから、今のは聞かなかったことにしてやる」 グレースがいつもベラと彼女のことを呼ぶものだから、クリスは彼女がベラという名前なのかと思っていた。彼女のことをベラと呼んだクリスを見て、彼女はニヤッと笑うと、挨拶代わりに片手を上げ、そのまま廊下の向こうに消えていってしまった。 一人残されたクリスはセオドールの部屋へ入る。彼は荷物をまとめ、グロリアスの制服を着ているところだった。村にいた頃とは違い、彼の部屋の中は男臭く、彼自身も身体が引き締まったように感じた。ここへ来る前より男前になったのではないか、と彼は思った。 「なんだクリスか。どうした?男の着替えをジロジロ見るような趣味があったなんて知らなかったぞ」 「待て待て違う違う」 以前から彼にはその疑惑をかけられてしまっているため、クリスは全力で否定する。その必死な様子を見てセオドールはクスクスと笑う。 「お前……初陣なんだろ?その……なんだ、グレースがちゃんと挨拶しておけって言うからさ」 上手く言い出せない彼を見てセオドールはニヤっとする。 「おいおい縁起でもねえ!第一今回俺は後方支援だよ。そう心配すんな!」 そう言いながら彼はクリスの肩をバンバンと叩く。心なしかいつもより力が強いように感じた。 「……そうか。ちゃんと帰ってこいよ。あと、フゥラにもよろしく言っておいてくれ」 「おう。あ、でもよろしく伝えるのは断る。自分で言ってこい」 「えっ!?ああ、まあそうだな。そうする。フゥラは女子寮か?」 「知らん。でもたぶん女子寮だろうな。ほれ、これあいつの部屋の番号」 セオドールは部屋にあった紙切れに彼女の部屋の番号を書き込む。そしてそれを彼に手渡す。当然と言えば当然なのだが、クリスは女子寮に入ったことがなかった。フゥラとは駐屯地内で会うことも多く、わざわざ彼女の部屋に行くことがなかったのだ。部屋番号自体は以前彼女に教えてもらっていたため、男子禁制というわけではないのだと思われる。 「一応聞いておきたいんだが、女子寮は男が入っても大丈夫なのか?」 「当たり前だろ。まあ用事もなくふらついているとリサルディ中佐にぶっとばされるけどな。結構痛いぞ」 「ぶっとばされたことあるのかよ……」 一体彼が女子寮で何をしていたのかはさておき、リサルディ中佐ならやりそうだとクリスは感じた。それにしても当たり前とはどういうことなのだろうか。どうやらクリスが想像していたより男女間の交流が盛んなようだ。 「まあそうこともあるってことさ。あ!ちゃんと部屋のノックはしろよ!」 セオドールは茶化して言った。 クリスは彼に別れを告げて女子寮へ向かう。彼らが出発するまで残り四時間を切ったところだった。空には雲が出始め、薄暗くなりつつあった。彼らがここを発つ頃には雨が降っているかもしれない。 女子寮は男子寮とは異なり、香水や化粧品の匂いで充満していた。男子寮はなんとも言えない男臭さが充満しているため、それよりは幾分かマシだ。クリスは挙動不審になりながら女子寮へ入るが、不思議なことに周囲の女性は男性がいることに違和感はないようだ。フゥラの部屋は二階の一室だった。セオドールが言っていたように、用もなくふらふらしている方が不自然だ、早く彼女に会おう。クリスはそう考え、部屋の扉をノックする。「開いてるよー」と中からフゥラの声が聴こえる。返事を聞いて彼は扉を開ける。 「よう」 「うわ!クリスじゃん!女子寮入る度胸があるなんて思ってなかったよ!」 彼女は既に制服に着替えていた。元々使用人の制服を着ていることが多かったが、グロリアスの制服もなかなか似合っていると彼は思った。グロリアスの制服は男女共に煌びやかな装飾が施されている。これは人類が戦争をやめたことで、軍服が機能性や迷彩を重視する必要がなくなったことが大きい。いくつも戦闘服を用意しなくて良くなったことで、防衛費が削減され、その分一つの制服が豪華になったのだ。 制服は白を基調としており、右肩から心臓の位置にかけて金の飾緒が二本付けられている。左胸には勲章が付けられ、グレースにもなるとその数は左胸では収まらなくなり、右胸にまで付けている。腕には階級章が縫い付けられており、フゥラのものには、くの字が一つ描かれていた。グレースのものには四本の直線が描かれていたと思う。 黒い布地で作られたベルトはハイウエストで締められ、その銀のバックルにはグロリアスの国旗が描かれている。 男性用の制服は下がストレートズボンになっているが、女性用の制服はタイトスカートになっている。それに加えて女性は黒いタイツを履くことになっている。靴は黒いブーツで統一され、歩くたびにザッザッと音が鳴る。 グロリアスの制服はこのように少しも運動に向かない代物だ。国威発揚だとか、盛大なセレモニーのためだけにあるような制服なのである。これらの制服は特に男性からは好評で、退役したら記念に貰っていく者が多い。なお、男性用女性用と銘打たれてはいるが、どちらを着ても問題はない。そのため女性でもストレートズボンを履いている者がいるし、男性がスカートを履いていることもある。 どうやらフゥラはスカートタイプの制服を選んだようだ。相変わらず素肌はほとんど見えないようになっているが、使用人の服よりもお洒落になっていた。 「どうしたの?もしかして見惚れちゃった?」 そう言って彼女はくるりと一回転し、胸を強調するような決めポーズを取る。この決めポーズはセオドール曰く「ご主人様に甘える時のポーズ」らしく、セオドールの父に何かねだる時に使っていたらしい。初めてそのポーズを見せられたセオドールの父は卒倒し、育て方を間違えてしまったと大いに嘆いたという。彼女はそのことを悩殺したと思い込んでおり、嘆いていたことはつゆほども知らない。 「あ、ああ。似合ってるよ。初陣って聞いたから来たんだ」 「えへへ、褒められちゃった。そうだよ。困っている人がたくさんいるから助けに行くんだ。まあ後方支援だけどね」 決めポーズに軽く引きながらも彼は彼女を褒める。彼女はまるで花が咲いたように笑った。その姿は随分誇らしげだった。彼女がやりたいことをやるのだから、ある意味これは彼女の晴れ舞台なのかもしれない。心配するなど無粋の極みなのかもしれない、と彼は思った。ちょうどその時、彼女の背後から別の声が飛んでくる。 「なんだフゥラ、いつもとは別の男じゃん。ってぇ!お前それソムリエじゃん!!」 その声の主はフゥラより長身の女性だった。赤いショートヘアのその女性は、彼を見るなり叫ぶ。なんと失礼なやつだろうとクリスは思う。 「え?ソムリエ?クリス料理上手いの?」 「おい!!そこのお前!!余計なこと言うんじゃねえ!!」 反射的に怒号が飛ぶ。どうやらフゥラは彼にまつわる噂を知らないらしい。彼をソムリエと言われてもきょとんとしている。 「いやいや!お前は女の敵だから!フゥラに近づいたら張り倒すよ!」 「女の敵……?クリス一体何をしたの……?」 その赤毛の女はフゥラを引きはがすように抱き寄せた。フゥラの目が疑惑の色に染まっていく。 「こいつはグレース大佐の情夫で、毎日のようにいやらしい下着を大佐に着せて遊んでいるんだよ。きっと何か弱みを握っているに違いないよ!」 「え……!?」 フゥラは絶句する。赤毛の女の口から放たれた呪詛は非常に強力だった。それは彼女の心を揺さぶり、思い切った行動を起こさせる。彼女は赤毛の女の手を払うとクリスに詰め寄る。 「ちょっと、それ本当なの?大佐のこと脅してるの?」 彼女は軍服を着ているからか、いつもより高圧的に思えた。背も年も自分より低い女性に凄まれているにも関わらず、彼女からは妙なプレッシャーを感じた。クリスもこんな彼女は初めて見た。 「いや!違う!誤解なんだ」 「誤解?じゃあやっぱり“何か”したんだね。クリスが違うっていうなら私は信じるから、ちゃんと私の目を見て答えて?」 彼女はクリスの目を覗き込む。完全にとばっちりなのに、何故自分はこんなに窮地に立たされているのだろう、と彼は心の中でボヤく。何故か今の彼女にはどんな嘘も通用しないような気がした。別段秘密にすることでもないため、彼は事実をそのまま述べる。 「俺はグレースの雑用係だから、身の回りの世話もしなけりゃならないんだ」 「“身の回りの世話“ね。続けて」 「やましい意味じゃないぞ!?朝は起こさなきゃならないし、着替えも俺が持っていくんだ。当然洗濯も俺で……」 「へえ、下着をエッチな物にすり替えることなんて簡単だね」 どんどん彼女の表情が無機質なものへと変貌していく。事実を述べているだけなのに何故こうなるのだろうか。 「そんなことしたら殺されるわ!……元々グレースの下着が際どかったんだよ」 「それ今度会った時に大佐に聞いてもいい?」 「もちろん!むしろ聞いてくれ!ちゃんと説明してくれるはずだから!」 貴方の下着は際どいんですか?などと問いかけて、グレースが正直に説明してくれる保証はないが、そこまで意地の悪い人ではないはずだ。嘘はついていないのだから、むしろ彼女に直接聞いてくれた方が助かる。フゥラはしばらくクリスの目を見続けたが、何かを悟ったように顔を引く。 「……信じてくれるのか?」 「信じるも何も、クリスにそんな度胸あるわけないし、誰かが勘違いしたんでしょ」 「えっ!?フゥラ何言ってるのさ!?」 クリスのことを信じると言った彼女に対し、赤毛の女は驚いているようだ。そんな彼女に対し、フゥラは説き伏せるように話しかける。 「アンネ、大丈夫だよ。あいつ私より弱いし度胸もないから。そんなおかしなことする奴じゃないよ」 「信じてくれるのは嬉しいんだが、もう少し肯定的に説得してくれないか」 初めてここに来た時もそうだったが、フゥラの言う事にはいつも棘がある気がする。特にクリスに対してのみ。 「それで何しに来たの?パンツ盗りに来た?」 彼女は舌を出して笑う。これはデリケートな話題をバットで叩くような行為だ。これでは本当に信じてくれたのか不安になってしまう。 「盗らねえよ。お前孤児院にいた頃俺に洗わせてただろうが。今更盗るかよ。……今日が初陣だってグレースが言うから、ビビってないか様子見に来たんだよ」 「心配してくれてるんだ?えへへ、それは嬉しいかも。でも大丈夫。むしろ早く出発したくてウズウズしてるよ」 彼女の様子からは、怯えや緊張といった感情を読み取ることが出来なかった。それを隠しているだけなのかもしれないが、少なくとも隠すだけの余裕はあるのだろう。自分の予想以上に強い精神力を持った彼女にクリスは感心する。 「そうか、なら何も言う事はないな。ちゃんと仕事してこいよ。それじゃ」 「うん、任せて」 フゥラが平常運転なことを確認したクリスは、部屋をあとにしようとする。するとアンネと呼ばれた女がそれを引き留めた。 「ま……待ってくれ!」 その表情は甲羅に引きこもる亀のように、どこかおどおどとしていた。これにクリスは驚いたのだが、まさか彼女が口を開くとは思っていなかったのか、フゥラも驚いた様子だった。アンネは軍服の裾をぎゅっと握り、クリスに向き合う。 「あ……あのさ、なんかその……疑って悪かったな!酷いこと言っちゃってホントごめん!」 彼女は顔の前で手を合わせ、クリスに謝罪した。あまりの態度の変わりようにクリスは面食らうが、それも彼女の真摯な感情からくるものなのだろう、と彼は彼女に対する認識を改める。 「分かってくれればいいんだ。出来れば周りの誤解も解いて欲しいけどな」 「それで許してくれるならそうするよ!任せて!!」 「あ、ああ……」 彼女は食い気味になって言う。クリスとしては分かってくれたのならそれ以上何かする必要はないと思うのだが、彼女なりに罪滅ぼしがしたいのなら止める理由もない。上手く事が転がってくれれば彼の疑いが晴れることにも繋がる。 クリスが彼女を責めなかったためか、フゥラがニコっと笑った。 「じゃあな。武勇伝期待してるぜ。アンネもな」 クリスは二人に別れを告げ、部屋を後にした。窓の外ではパラパラと小雨が降り注いでいた。その空模様は一体誰の心を映していたのだろうか。
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