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吹雪の中、ミッテンヴァルトを目指して何人もの人々が歩いていた。彼らは魔獣に住む場所を追われ、この極寒の世界へ叩きだされてしまった人々だ。周りには遮るものもなく、人々は猛烈な雪と風に晒される。通常ならかまくらを作って寒さをしのぐべきだ。だが彼らにはその選択肢が与えられていない。
足を止めれば魔獣の群れに飲みこまれてしまうかもしれない。
その場にいた誰しもがその考えを共有していただろう。凍え死ぬか魔獣に食い殺されるか。その非常な二択を選ぶなら、せめて少しでも生きる可能性のある方へ賭けるしかないのだ。既に道は凍死体で溢れ、死体を辿るだけでガルミッシュ=バルテンキルヒェンに辿り着くことが可能だろう。老人や子供のような体力のない者から順番に死んでいく。隣を歩く者が倒れても誰も立ち止まることはない。立ち止まってしまったら、もう二度と身体を動かすことは出来ないだろうと感じているからだ。
ミッテンヴァルトまでには整備された道がある。基本的にはこの道から外れなければ別の街まで行くことが可能だ。
しかし不幸なことに、ミッテンヴァルトまでの道は両側を木々に囲まれているため、吹雪でホワイトアウトしてしまい、なおかつ林のなかへ入ってしまったら、もう元の道へ戻ることは出来ない。運悪く道からはぐれてしまった者は山の中で凍死するしかないのだ。
「おかあさん、どこまであるくの?さむいよ」
一人の少女が呟く。その声色は不安に満ちていた。少女の顔は赤く腫れ上がり霜焼けを起こしている。少女の母親も同じような状態だったが、我が子のためを思って口元を覆っていたストールを外し、少女へ与えようとする。それを外すと首元が吹雪に晒されることになってしまうため、一人の青年が止めに入る。
「お母さん、待ってください。それでは貴女が先に倒れてしまいます」
母親の行動を止めたのは若い兵卒だった。その青年はグロリアスの制服も着こなせておらず、どちらかというと服に着られており、顔にはまだ少年の面影を残していた。この青年は支給されていた分厚い外套を羽織っていた。その外套の前を開けると、少女を抱えてその中へ入れる。
「どうだい?少しは温かいだろう?」
「うん」
青年は少女の頭を撫でる。
「でも兵隊さん、その子を抱えていたら貴方が先に……」
少女の母親は悲しげな顔をする。この猛吹雪の中、人を一人抱えて動くのは非常に体力を消耗する行為だ。しかも彼らは激しい戦闘の後だ。いくら軍人でもその体力には限度がある。力尽きてしまった者は民間人が多いが、中には軍属の者もいるのだ。彼もいつ倒れるか分からない。
「ちゃんと鍛えているから大丈夫です、これでも軍人ですから。それにこうしている方がこっちも暖かいんですよ」
「……ありがとうございます。娘をよろしくお願いします」
母親は青年に礼を言う。しかし青年にとってその言葉は、むしろ呪いのようなものであった。彼は自分が感謝されるような人間ではないと思っていた。
「感謝される筋合いはありません。元はと言えば……街を守れなかった私達のせいなんですから」
青年の顔が暗くなる。街を守れなかった、という事実はどう取り繕っても覆らない。彼はアルプス防衛軍の訓練兵だった。守りの薄くなった故郷を守るためにグロリアスの治安維持機構に志願したのに、あえなく敗北してしまった自分が不甲斐ないのだ。もっとも、ムルナウの戦いで正規軍もやられている相手なのだから、住民の避難に成功しているだけでも十分な働きをしていると言えるだろう。ただ、その事実を彼はまだ知らない。故に街を守れなかった自身を責めているのだ。
「兵隊さんのせいじゃないと……私は思いますよ。兵隊さんも見たでしょう?視界を覆い尽くすほどの魔獣の大群を。兵隊さん達がいなかったら……私達は街から逃げることすら出来なかったと……思います。だから貴方たちに感謝こそすれ、責めることなんてありませんよ」
「そんな……感謝なんて……僕は…………」
少女の母親は悲しげに笑う。逃げられたことに感謝しているのは本当だろう。しかしこの吹雪の中、彼女らが生き残れる可能性はゼロと言い切っても過言ではない。わずかな希望も見えない絶望の中、人々は歩みを進めているのだ。
このまま皆凍え死ぬのだろう。
青年も少女の母親もそれは分かっていた。分かっていたからこそ、少女の母親の言葉は青年の心に響く。青年は思わず肩を震わせた。
「おにいちゃん、ないてるの?」
青年の外套の中から声が聴こえる。問いかけに青年は答えなかったが、少女はモゾモゾと動く。そして外套の隙間から青年の顔の方へ細い腕を突き出す。その手のひらには一つの飴玉が握られていた。
「おにいちゃんにあげる。げんきだして」
外套の中にすっぽりと入っているため、少女の表情は分からないが彼のことを心配してくれているのだろう。普段なら、何気ない日常のワンシーンかもしれない。だがこの局面においてこの飴玉は彼にとって非常に重要な物資だった。わずかだが、命を繋ぐ希望を彼は見出す。
「飴玉……!?お母さん、これもらってもいいですか!?」
「え?ええ、その子がいいと言っているのなら構いませんが……」
青年が目の色を変えて言うのだ。少女の母親もさぞ驚いたことだろう。その声色には困惑の感情が現れていた。青年は少女に「ありがとう」と礼を言うと、すぐさま飴玉を口にする。そして彼は腰に下げていた水筒に雪を詰め始める。
「一体どうなされたのですか?雪なんか口にしたら、体温が奪われてしまいますよ?」
少女の母親は心配そうに声をかける。しかし青年は無心で雪を詰めた。そして雪がこれ以上入らなくなったところで、水筒に魔力を込め始める。先ほどまではすっからかんだった魔力が、飴玉でわずかに回復するはずなのだ。秘匿されているわけではないが、カロリーが魔力の源だということは広く知られているわけではない。何故なら、食べて寝れば魔力は回復するうえ、民間人が魔力を使い切るほどの魔法を行使することが少ないからだ。だから少女や少女の母親はこの飴玉がどれほど貴重か理解していないのかもしれない。ならば代わりに自分が活用しなければ、青年はそう考えた。
「カロリーっていうのは魔力の源なんです。この飴玉が一つあれば熱湯の一つや二つ、沸かせるかもしれません」
「そんなことが可能なの!?私には大雑把な魔法しか使えなくて……」
「任せて下さい!いつも訓練でやっていたんです!」
彼は水筒の中の雪に魔力を送り込んだ。イメージとしては雪の粒同士を振動させて、その摩擦熱で容器内の水の温度を上げるようなことを行っている。彼らはこれを水分の活性化と呼んでいる。この魔法は魔力消費が比較的少量で、極限状態でも使用可能な魔法の一つである。グロリアスの治安維持機構の人間以外でも、探検家や登山家などはこの魔法を習得している者が多い。
青年は訓練でこの魔法を何度か実行しており、その手順は完璧にマスターしていた。今回も同じように行うと、徐々に水筒が熱を持ち始め、その飲み口からは湯気が立ち昇る。
「まあすごい……!魔法でこんなことが出来るんですね」
「軍隊に入ったらみんな教えられるんです!しばらく煮沸するのでもう少し待っていてください!これを飲めば少しは身体が温まるはずです!」
二人はわずかな希望に顔を綻ばせた。もっと多くの人にこの白湯を分け与えたい。そう思って青年は周囲を見まわす。だがそこに他の人影はなかった。前にも後ろにも、誰もいないのだ。吹雪に視界を奪われ見えないだけなのか、それとも本当に誰もいないのか分からないが、とにかく視界に入る人影はなかった。
青年を真似て、少女の母親も周囲を見て愕然とする。今まで共に暮らしてきた近隣住民が誰もいないのだ。そのショックたるや、常人の想像に耐えるものではないだろう。少女の母親はハッと息を呑む。しかし娘を心配させまいと、ぐっと涙を堪えた。青年はそれに気が付かないフリをする。
「出来ましたよ。どうぞ飲んでください」
「ありがとうございます!なんてお礼したらいいのか……!ミーシャ、兵隊さんがお湯を沸かしてくれたわ。貴女もお礼を言いなさい」
そう母親が言うと、ミーシャと呼ばれた少女は外套から顔を覗かせ、青年へお礼を言う。
「ありがとう!おにいちゃん!」
「飴玉のお礼だよ。ほら、ちゃんと温まりなさい」
ミーシャはマフラーをずらして水筒を傾ける。そしてゴクゴクとその小さな喉を動かし、熱いお湯を飲みこんだ。少女は少しだけ白湯を飲むと、それを母親に渡す。
少女の母親も先ほど外そうとしていたストールをずらし、水筒から白湯を飲む。歩いている時には分からなかったが、少女の母親は編み込んだ金髪を右側へ流した髪型をしており、その横顔は非常に美しいものだった。その吸い込まれそうな水色の瞳を青年は思わず見つめてしまう。彼女は白湯を飲むとホッと一息つく。
「ありがとうございます。おかげで温まりました。もう少し頑張れそうです」
「それはよかった。もう半分は越えているんです。あと少しの辛抱ですよ!」
ガルミッシュ=バルテンキルヒェンからミッテンヴァルトまでの距離はおよそ11kmだ。吹雪の中、雪に足を取られていたとはいえ、陽が陰ってきているため、現在時刻は午後17時程度だろうか。既に街から脱出して8時間程度経過しているはずだ。雪中の歩行速度はせいぜい時速1km~500m前後だろう。これらのことから、順調に進んでいれば、吹雪さえ晴れてしまえばミッテンヴァルトが視界に入るはずだ。目的地さえ分かれば生還の可能性がグッと高まる。魔獣さえ追ってこなければ、の話だが。
ただここからが問題である。夜間の移動は困難が生じる可能性が高い。体力も消耗していく一方であるため移動速度はさらに落ちる。動かなければ体力は温存できるが、その分魔獣に追い付かれる可能性が高くなり、危険であることに変わりはない。彼らは選択の時を迎えていた。
「陽が陰ってきましたね」
少女の母親は不安そうに呟いた。白湯で暖が取れたとはいえ、まだ生還が約束されたわけではない。
「ええ、夜間の移動は危険かもしれません。魔獣に襲われる危険がありますが、どこかで休息を取るべきだと思います」
「でもどこで休息を…」
「実戦なら背嚢があったんですが……すいません」
本来ならば兵士は様々な道具の入った背嚢を与えられる。その中には折り畳みシャベルも入っているため、雪を掘って穴を作ることで吹雪をしのぐことが出来るのだ。しかしその青年は訓練中に魔獣と遭遇したため、背嚢を持たされていなかった。背嚢さえあればこんなに苦労することもなかったかもしれない。
「背嚢?よく分かりませんが、貴方は悪くないでしょう。でもそうなるとどうしたらいいんでしょう…」
その時だった。彼らの周囲に魔獣の鳴き声が木霊する。それも一匹や二匹ではない。大量の群れがこちらへ近づいてきているのだ。その鳴き声を聞くと、外套の中に包まっていたミーシャが青年の服をギュッと掴む。怯えているのだろう。服越しに震えているのが彼には分かった。鳴き声は周囲の山々から反響してきており、正確な位置までは分からない。だが、それは確実に近づいてきていた。何故なら地鳴りのような足音が聞こえるからだ。少女の母親も怯えているようで、一歩青年の方へ近づいた。
「このままじゃ……」
すがるような目で少女の母親は青年を見た。魔法はもうほとんど使えない。第一万全であっても魔獣の大群相手に勝てるはずがない。逃げるための魔法も使えない。歩いていればすぐに追いつかれる。隠れていても臭いで嗅ぎつけられる。
まさに八方塞がりであった。青年は音を立てて近づく死に混乱する。魔法さえ使えればなんとかなるかもしれない。そのためにはエネルギーが必要だ。
「ミーシャ!まだ飴玉もっているか!?というか何か食べるものをくれ!!」
青年は叫ぶ。この二人だけではない。自分にも危険が迫っているのだ。彼は必死の形相で二人に問いかける。だが二人とも残念そうに首を横に振った。エネルギー源となる食べ物はもうないのだ。どうすればいいのか。何か食べられるものがあれば……
「……食べられる物があればいいんですか?」
「あるのか!?」
思いつめた表情で少女の母親が口を開く。その言い回しに、青年は嫌な予感がした。彼女は震えていた。寒さからではない。これから自分がする提案に恐怖して、だ。
「ここに……」
彼女は震える唇で必死に言葉を繋ぐ。その目は涙を湛え、まるで溢れる感情を押さえつけようとギュッと拳を握りしめ、青年を見つめた。
「私を……私の身体を食べて……下さい…………。そして……娘を助けて下さい。……お願い…………します………………」
彼女は青年の手を握り、頭を下げた。青年は呆然とした。それと同時に、それが出来れば空を滑空するだけの魔力が確保出来るであろうということにも気が付く。彼女の提案は非常に合理的な結末を導くのだ。しかしそんなことは出来ない。したくない。
「な……なんてことを……。この子の前で出来るわけがないでしょう!?」
「この子が助かるためならなんでもします!うぅっ……、だからお願い!この子を助けて!」
彼女はボロボロと大粒の涙を零しながら懇願した。母親の様子を見て少女が外套から飛び出す。
「おかあさんどうしたの?かなしいの?」
「ミーシャ……。ミーシャ、貴女は元気に育ってね……」
ミーシャの母親は彼女を抱きしめ、その髪を愛おしく撫でつける。
青年は考えていた。確かに人肉を食らえば莫大な魔力を生成することが可能だ。食べたことがないため、どれほどの魔力が生成可能かは分からないが、他の動物の肉と大差ないはずだ。それならばステーキ一枚分もあればミッテンヴァルトまで飛べる。ステーキ一枚分の人肉となると彼女の負担も大きく、本当に死んでしまう可能性が高い。第一それを食べている時間がない。それに代わる栄養源はなんだろうか。内臓は栄養価が高いと聞いたことがある。もちろん内臓を食べたら間違いなく彼女は死ぬだろう。ダメだ、と青年はこの案を却下する。他に栄養価の高い物はと考えていた時、青年はひらめく。
「兵隊さん、お願いします。この子が助かりさえすれば私はどうなってもいいんです。だからどうかお願いします。どうか、この通りです」
「おかあさん?ミーシャはおかあさんとはなれたくないよお。どこかにいっちゃったりしないよね?ねえ!」
母親は必死に青年は頼み込む。ミーシャは自分の母親が何をしようとしているのか察したのか、嫌だ嫌だと駄々をこね始める。
青年は母親の目を見てひらめいた内容を口にすることにした。とても非人道的なお願いだ。この一件が終わった後で軍法会議にかけられても何も文句は言えない。青年は覚悟を決めて言葉を紡ぐ。
「いや、貴女は死ななくてもいいかもしれない。血だ。血を飲ませてくれ。血なら貴女の命まで奪わなくて済むかもしれない」
青年は懐からナイフを取り出す。そして恐る恐るそれを彼女へ差し出した。彼は彼女は迷うだろうと思った。しかし意外にも、彼女は即座にナイフをひったくり、一呼吸の間をおいてから、ザクッと自身の手首に刺した。ミーシャが「きゃっ!」と小さな悲鳴を上げた。
「さあ早く!」
彼女は鬼気迫る表情で青年の口元へ手首を突き出す。彼女の手首からは噴水のように血が溢れていた。そこから溢れる血が雪を赤く染める。青年は心の準備がまだ出来ていなかったが、彼女の勢いに押され、傷口に口を付けた。
苦い。酸っぱい。鉄臭い。血なまぐさい。何とも言えない血の味が口に広がる。あまりに酷い味に彼はむせ返りそうになるが、それをグッと堪え、彼女の血を飲み続けた。彼女が命を削って提供してくれているのだ。一滴も無駄にするわけにはいかない。彼女の顔からはどんどん血の気が引いていき、腕にも力が入らなくなっていくようだった。どうやら軽いショック症状を起こしているらしい。彼女の血を飲むたびに自分のうちから魔力が溢れていくのが分かった。十分だ、そう思った青年は彼女の手首の傷口を焼き、止血する。そして気休め程度の包帯を巻いた。
「大丈夫ですか」
彼の問いかけに対し、彼女は弱弱しく頷くことで返した。もう喋る気力もないということだ。早急に然るべき環境で治療する必要がある。彼はミーシャを呼ぶ。
「ミーシャ、これから空を飛んで移動する。僕はお母さんの身体を持っていなきゃいけないから、ミーシャはお母さんの身体にしっかり捕まっていてほしい。出来るね?」
「うん」
「よし、いい子だ。さ、捕まって」
ミーシャは泣きそうになりながらも、力強く返事をした。青年は両腕で彼女の母親を抱きかかえる。ミーシャはその小さな腕を母親の背中に回し、しっかりと捕まった。
「行くぞ!!」
青年は自分たちの身体を加速させ、一気に空中へ飛び出す。既に空は暗幕を下ろし始めており、眼下は一面の雪景色であった。目印となりそうなものは見当たらない。焦って周囲を見回すが、吹雪に閉ざされた視界は何の道標も示さない。そんな中、視界の右端の方でまばゆい光が打ち上がり、一瞬、吹雪をうち払った。それは明らかに人工の光だった。その光の上がった方角へ青年は一気に滑空する。
「頼む!!この二人だけでも助けてくれ!!神様!!」
青年は神に祈った。いや、既に神は救済の手を差し伸べていたのかもしれない。あの光は偶然にしては出来すぎだ。そう青年は思った。きっと大丈夫、きっと助かる、助けてみせる。青年は自分に言い聞かせながら滑空を続けるのだった。
彼の名はマルス・アイマール。ガルミッシュ=バルテンキルヒェンから帰還した唯一のアルプス防衛軍兵士であり、後にアルプスの英雄、ブラッディ・マルスと呼ばれる人物である。
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