戦いの始まり

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インスブルックは周囲を山々に囲まれた大都市で、遥か昔から交通の要所として栄えていたらしい。今でも陸路でアドリアとゲルマニアを繋ぐ、グロリアスの重要拠点の一つである。山岳地帯にも関わらず、40万人ほどの人口が定住しており、アルプス地方最大の都市とされている。 グレース達アドリア遠征軍はインスブルックでの集合を完了し、ミッテンヴァルトへ向けて行軍を開始しようとしていた。セオドールとフゥラはインスブルックの街の出口からそれを見送る。頭上にはどんよりとした分厚い雲が立ち込め、天候の悪化を予言していた。 グレース達は吹雪になると地域住民に引き留められたが、ミッテンヴァルトの住民を救うために行軍を敢行することになった。彼女は兵の損耗を抑制するために、街を出た段階で一つ目の人工太陽を使用する。 人工太陽は旧人類文明の遺産で、遺産ナンバー41としてアドリア地方で保管されていたものだ。基本的には使い捨ての道具で、一度スイッチを入れると、自動である程度の高さまで浮き上がり、膨大な熱を発生する道具である。その熱は地表の雪を融かすほどであり、どんな環境でも真夏のような暑さに変える代物だ。当然現在の技術では再現不可能であり、魔法でも同様の環境変化を起こすためには非常に膨大な魔力の消費を求められる。故に貴重品として厳重に管理され続けてきた。 旧人類がこれをどのように使っていたのかは定かではないが、これを使用することで周囲の将兵が弱ることを避けられる。そのため、真冬の雪山でも行軍が可能となるのだ。その持続時間はおよそ半日とされているため、グレース達はこの道具を8つ持ち込んだ。 彼女はスポンジボールのように柔らかな灰色の球体である人工太陽を一つ掴むと、安全ピンを抜いた後、その球体に取り付けられたオレンジ色のボタンを押す。 すると人工太陽は、ブゥーンと低い音を発しながらゆらゆらと風船のように上空に昇っていく。そして雲よりも低い位置で止まり、パッと点火した。 その瞬間目もくらむような光が人工太陽から発せられる。その光は慈悲の雨を降らすように地表を満遍なく照らす。そしてそれはどんどん周辺の温度を上げ、足元の雪は水になっていった。吹雪の中を行軍すると聞かされ、士気の下がっていた兵士からも歓声が上がる。ここまでのサポートがあれば勝てる、遠征軍全体がそんな空気に包まれていた。グレースは浮遊と拡声の魔法を使って、静かに兵士達に話し始めた。 「既に目的地へ向けてゲルマニア討伐隊が進軍を開始した。だが同時に魔獣の群れもそこへ向かっている。ヴァイルハイム、ムルナウ、ガルミッシュ=バルテンキルヒェン。魔獣に襲撃された都市の生存者は極めて少ない。既に死者は10万人を越えようとしている。これは麓のフォルテッツァの人口より多い」 彼女は熱もこめず淡々と事実を並べていく。8万個の目がジッと彼女に向けられていた。その時を今か今かと待つように。 「諸君も考えてみて欲しい。我々がここで魔獣の群れを食い止められなかったらどうなる?それはここ、インスブルックへ向かうだろう。そして次はどこか?そうだ、我々が来た道を行き、アドリアへやってくる。諸君らの故郷だ。我々の故郷に魔獣の群れが土足で踏み入るなど、断じて容認することは出来ない」 彼女の声は拡声魔法で周囲の山々に木霊した。きっとインスブルックの住人にも聴こえているのだろう。ところどころ窓を開けて眺めている人が見える。 「我々はアドリアの玄関口で待ち構えていてもいい。わざわざアルプスまで遠征してくる必要はない。だがそれは我々グロリアスの兵士が掲げる正義だろうか?断じて否!我々は人々を守るためにある!ならばこの先へ進み、ミッテンヴァルトの住民を救ってこそグロリアスの兵士として認められるというもの。諸君も自分の子らに、ミッテンヴァルトの住民を見捨てて魔獣を討伐してきたんだ、すごいだろう、などと情けない報告をしたくはないはずだ」 グレースは未熟者を嘲笑うように例えた。兵士からもパラパラと嘲笑が沸き起こる。 「ならば我々が取るべき選択は一つだ!思い出せ!!魔獣に奪われた者達を!!その無残な亡骸を皆目に焼き付けたはずだ!!諸君はその時どう思った!!怒ったか?悲しんだか?言葉にも出来なかったはずだ!!今その惨劇をお前ではない別の誰かが味わおうとしている!!グロリアスの兵士として、これをみすみす見過ごすわけにはいかない!!我々は人々を守るためにあるのだ!!違うか!!!」 そうだ!!と口々に兵士は叫ぶ。それは爆発するように周囲に連鎖していき、感情の波となって軍全体を包む。セオドールは、人工太陽の熱だけでなく、人々が発する熱でさらに気温が上がっていくように感じた。彼も島では人々をまとめる役割を与えられていたが、ここまで多くの人間を突き動かすような檄を飛ばせる自信はない。気が付けば、彼は鳥肌が立っていた。グレースはなおも続ける。 「今この瞬間にも、ミッテンヴァルトへ魔獣が近づいている。我々が一分遅れれば、その分住人が食われる。そうだ!!今我々の双肩には住人8000人の命が掛かっている!!見よ!!頭上の太陽を!!この栄誉ある作戦に参加する諸君に対して、グロリアスは貴重な旧人類の遺産の使用を認めているのだ!!人類全体がこの作戦に味方している!!この作戦はそれほどまでに重要なのだ!!無事任務を完遂出来た暁には、諸君らは英雄として迎え入れられるであろう!!」 うおおお!!!と兵士から雄叫びが上がる。セオドールも思わず叫ぶ。フゥラは叫びこそしなかったが、その光景に胸を奮わせていた。彼女が求めていたものはやはりここにあった。 「ゆくぞ!!我々は凱歌をあげながら、英雄としてアドリアに凱旋するのだ!!総員!!進軍を開始せよ!!」 雄叫びをあげながら、兵士達が波打つように進み始める。4万人の行軍は圧巻としか言いようがなかった。インスブルックの住民もグロリアスの旗を窓から振り、兵士達を見送っている。今この瞬間、ここにいる全ての人間の思考が統一されていた。兵士達はインスブルックの住民たちに手を振り返す。そこに怯えや不安は見られなかった。 彼女達はこの後、山中にある小さな村、セーフェルトで一時休息をし、廃村である旧シャルニッツ村で野営する。そして明朝に出発し、ミッテンヴァルトへ到着する予定だ。夜間のうちに強行軍しない理由は、魔獣が到達するまでにミッテンヴァルトに到着するのが困難だと彼女が考えているからだ。夜間行軍を強行した後の戦闘など、惨敗を喫する可能性が高く、とても選択できるようなものではない。 「オルコット、サルヴァトーレ。俺達も準備を進めよう」 彼らに話しかけてきたのはエンリケ・シルバという士官だった。同じ第三近衛分隊の配属で、実は実戦はまだ二回目なのだそうだ。彼ら第三近衛分隊に下された指令はインスブルックの守護と予備兵力としていつでも出撃出来るようにしておくことだ。そのため周辺地理の把握や地域住民との連携が主な活動内容になる。グレース達も公文書に掲載されている情報の調査は行っているが、そうではなく地元住民しか知らない詳細な地形データや抜け道を調べることが目的だ。 「とりあえず市長からガイドの協力は取り付けてあるから、地図とコンパスを用意しておいてくれ。一〇分後にここに集合」 「「了解!」」 二人はシルバにビシっと敬礼する。シルバ少尉も敬礼を返す。シルバは当然だが、二人も軍人らしく振る舞えるようになってきていた。シルバはそのまま別の兵士へ指示を出しに行った。二人は歩き始める。 「地図とコンパスって言ってたけど、背嚢の中に入ってたっけ」 「違うよ、仮設本部にある作戦用のやつをもらってこいってことだよ。まあメモ出来れば何でもいいと思うけれど」 彼らはこれから地元ガイドに連れられて山の中を歩き回ることになる。各所の情報を地図上にメモしたいのだ。こういう時に複写系の魔法が使えたら楽なのになあ、とセオドールは思う。 「それじゃ、仮設本部で地図をもらってくるか。他に持って行った方がいいものはあるかな」 「シルバ少尉は特に言ってなかったし、荷物になるから少しにしておきなよ」 「違いないな」 二人は自分たちの後方に置いてあった背嚢を担ぎ、仮設本部へ向かった。
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