戦いの始まり

7/18
前へ
/28ページ
次へ
クリスはグレースの執務室で、彼女から貸してもらった本を読んでいた。タイトルは「上級魔法入門・上」だ。その名の通り、本にはテンプレート化された上級魔法とその発動原理について書き連ねてあった。クリスはそれをボーっと読み続けていた。既に半分は読み終えている。しかし内容があまり頭に入ってこない。 戦場へ向かった仲間が心配、ということも理由の一つだが、単純に本の内容が難しいのだ。一つくらい覚えてやろうと意気込んでいたが、理解出来そうな魔法がそもそも載っていなさそうなのだ。時計の針がカチカチと時を刻む音だけが部屋に鳴り響く。頭の中が煮詰まりそうになった頃、不意に執務室のドアが開く。 「おや、クリス君じゃないか。何を読んでいるんだい?」 部屋に入ってきたのはローゼンスタインだった。手には大量の書類が握られている。グレースの机の上にでも置いておくのだろう。彼女が頭を抱える様子が目に浮かぶ。 「あ!こんにちは!ローゼンスタイン中佐!これ大佐から借りたんです。魔法の教科書みたいなものなんですけど、一つくらい使えるようになりたいなあ……と思いまして」 応接用の椅子にふんぞり返っていたクリスはバネのように飛び上がり、敬礼する。イザベラに言われてから少し態度に気を付けるようになったのだ。いつもと様子の違うクリスを見て彼は目を見開いて驚く。 「えっ、どうしちゃったの?もっと緩いキャラじゃなかったっけ」 「リサルディ中佐から、言葉遣いには気を付けた方がいいと助言を頂いたので、今から実践している次第であります!」 「ああ、ベラに会ったのか。うむ、良い心がけだ!」 ローゼンスタインは満足そうな顔でクリスに敬礼し返す。もっとも、彼はまだ正式に入隊しているわけではないため、本来なら敬礼し返す必要はない。きっとクリスに合わせてくれたのだろう。 「それで?どんな魔法を使いたいんだい?」 「いやぁ、まだ特に。難しいもので」 クリスはポリポリと頭を掻く。それを聞くとローゼンスタインの顔に喜色が浮かぶ。 「はっはっは!魔法は難しいからねぇ!私はほとんど使えないよ!クリス君は魔法が得意だって聞いていたけれど、どんなものが使えるんだい?」 「例えば?うーん、小さい雷のようなものを起こすことは出来ますよ」 先の事件で魔獣を倒すのに使った魔法だ。上級魔法の類ではないため、特に呼び名があるわけではない。あれは帯電した状態の小さな水や氷を魔力で繋げて、相手にぶつけるということを行っている。そのため事前にそれらを自分の周りに集めておくことで、何度か使えるというものだ。魔法としては比較的小規模なものなので、上級魔法とは異なり扱いやすい。 「器用な事出来るんだね。じゃあそれの上位互換からやってみればいいんじゃない?」 「上位互換ですか」 上位互換と言ったら何だろうか。落雷が起こせたら大抵の魔獣は即死させられそうだと彼は思った。それに近い項目がないか探してみる。 「あった。落雷の魔法、ヒエラルキア属ケラヴノス」 ヒエラルキア属とは魔法の種類のことだ。ヒエラルキア属は主に自然現象の応用とされており、熟練のブラックアーツならテンプレートなしで扱うことも可能だ。フゥラもこの系統の魔法を使う。魔法の種類には他にも二つある。一つはティターン属といい、自然の法則を無視した現象を起こすための魔法である。ローラが扱うテレポートはこの部類だ。この系統の魔法は、魔法のイメージを現実の物に置き換えて伝えることが出来ないため、行使する本人以外にはどういったメカニズムで発動するのか分からない。もう一つはオリュンポス属と呼ばれ、神が使う魔法とだけ説明されることが多い。実際にそんな規模の魔法を扱える人間がいないため、想像上の産物とされている。 「へぇ、魔法ってちゃんと名前決められているんだね」 「まあ、この名前を叫ばないと発動しないっていう代物ではありませんけどね。あくまでも便宜上の名前ですよ」 魔法のテンプレートは「系統・階級・名称」の三項からなる。系統は先ほどのヒエラルキアなどが入り、名称はケラヴノスのようなその魔法を想像しやすい単語で、各自で勝手に決めても良いことになっている。階級というものは魔法の威力を表しており、最も強いものから、セラフ、ケルブ、ソロネ、キュリオテテス、デュナミス、エクスシアの6段階となっている。同じ魔法でも込める魔力の量が変われば、その威力も変わる。これも便宜上の区分であり、誰かにどの程度の魔力を込めればいいか伝える基準として扱われることが多い。この階級だが、エクスシアの階級は第二階級と呼ばれる。この下に区分されない初級魔法が仮定されているためだ。フゥラの使ったキュリオテテスは第四階級と言われており、そこらの一般人が扱えるものではない。クリスはせいぜい第二階級までしか使えない。 「練習するならみんなが出払っている今のうちかもね。グラウンドも訓練所も使い放題だからね」 「使っていいんですか?」 「むしろどんどん使ってくれて構わないよ。未来の人材には育ってもらわなきゃいけないからね」 ローゼンスタインはニヤッと笑う。そしてクリスの肩をポンと叩くと「それじゃ、お邪魔したね」と言って執務室から去って行った。時刻はまだ昼を回ったくらいだった。良い機会だから一度やってみようと、彼は本を片手に訓練所へ向かった。 どんよりとした雲、黒く生い茂る木々、真っ白な絨毯のような雪原、ところどころ顔を出す岩。そこは広大な自然の中だった。セオドール達はガイドのハンスと共にその大自然の中を歩いていた。視界にちらつく雪は白い花びらのようだった。今頃戦場はどうなっているのだろうか。既に戦端が開かれたのかもしれない、と彼は思う。 周囲にはただ風の音と木々が揺れる音しかせず、砲弾の飛び交う音や魔獣の咆哮は一切聴こえなかった。 「静かだな。不気味なくらいに」 セオドールはポツリと呟く。するとハンスが笑って答える。 「兵隊さん、雪山に来るのは始めてですかい?雪ってのは音を吸収するんですわ。だからこうやって雪が降っていると、とっても静かになるんです」 「へぇ~、知らなかった。島では山以外じゃあんまり雪降らないもんね」 フゥラが言うように、アペニン島では滅多に雪が降らない。ここのように雪が積もるということは非常に稀だ。 「大体なんでこの時期に雪なんか降ってるんだろうな。アルプスっていつもこんな感じなのか?」 セオドールが不思議そうな顔で尋ねる。アルプスは年がら年中雪に埋もれているわけではない。夏には雪が解け、欧州の河川の水源となるからだ。もちろん一年中雪に埋もれる地域もある。だがそれはごく一部で、大抵の地域は夏は半袖で過ごすことが可能だ。 「いんやぁ~この時期にこんなに積もるのは初めてだね!去年の今頃は半袖になりながらアイスを食べてたよ!」 「だよな~……」 ハンスは軽く笑いながら言う。セオドールはいつもと異なる空模様にうんざりする。アドリアも雨の多い土地柄なのだが、雨と雪ではわけが違う。 「それでハンスさん、今はどこに向かっているんだ?そこそこの高さまで登ってきたけれど」 彼らの眼下には先ほどまでいたインスブルックの街並みが見えた。遠くで光を放つ、グレース達が使う人工太陽が弱弱しく街を照らしていた。既にこの周辺は人工太陽の恩恵から外れ、徐々に寒さに覆われてきている。 「少尉さんがこの周辺の地理が教えて欲しいって言うからさ、ここいらを一望出来るところへ案内するのさ」 「お?これはきっとハンスさんの口説きスポットだな?万年彼女ナシのクリスにも、今度教えてあげなきゃね」 「どんな女でもそっと背中を押してやればコロっと落ちる場所さ」 フゥラが茶化すとハンスはジョークで返す。よく見るとハンスの左手の薬指には指輪がはめてあった。その絶景ポイントで今の奥さんに告白した可能性は無きにしもあらず、といったところか。 「それで?プロポーズはどっちがしたの?」 「おいおい、馴れ初めを話すように少尉さんからはお願いされてないですけど?」 参ったな、とハンスは鼻の頭を掻く。フゥラは目をキラキラさせながら答えを待ち詫びているようにも見えた。セオドールはため息をついて口を開く。 「いやー悪いね。こいつあんまり自由に女の子と恋バナとかしたことないんだわ。折角だからちょっと付き合ってくれないか」 「だからっていい年したおっさんの恋バナ聞くかい……」 「はいはい!聞きたい聞きたーい!」 頬を赤らめながらも、少し呆れた様子のハンスをよそに、フゥラは子どものようにはしゃぐ。もっとも、彼女は成人していないのだから子どもではあるのだが。彼女は今年で十八ということになっている。正確な年齢が分からないのは、彼女が魔獣に両親を奪われた孤児だったからだ。彼女が幼すぎたことから、誕生日も分からなかったため、誕生日と年齢はセオドールの父の孤児院へ来た時から数えて、ということになっている。そのため、本来なら一つか二つくらいは年齢が高いのかもしれない。 「そんな期待の目で見ないでくれよ。まぁ、少しくらいはいいよ」 そう言って彼は大きな岩を飛び越えた。 しばらくハンスの馴れ初めを聞きながら歩き続けると、開けた場所に出た。視界を遮るような岩はなく、インスブルック周辺が見渡すことが出来た。強い風が吹いており、バランスを崩したらそのまま身体を持って行かれてしまうかもしれない、とセオドールは感じた。 「着きましたぜ。ここならその辺りが良く見渡せるでしょう」 彼の言う通り、見たいところはどこでも見ることが出来る。フゥラが持ってきていた望遠鏡を差し出す。 「サンキュー。さてさて、グレース大佐はどこかな」 彼はそんなことを呟きながら望遠鏡を構える。グレースはすぐに見つかった。元々人工太陽が彼女がどの辺りにいるのか示しているのだから当然である。彼女は輸送車両の上で軍刀を立てて仁王立ちしていた。正面から吹く風が彼女の髪を靡かせ、まるで龍が翼を広げるような雄大さを醸し出していた。その姿に思わず彼の胸が高鳴る。 「いた?」 「ああ、バッチリ見えたぜ。滅茶苦茶格好良いことになってる」 セオドールはフゥラに望遠鏡を渡す。彼女も同じ方角を見る。 「あ~すごくカッコいい。私もああいうカッコいいポーズ取ってみたいなぁ」 彼女は羨ましそうにグレースを眺めていた。彼女が憧れる気持ちも分かる。グレースも、ある種パフォーマンスでやっているところもあるのかもしれない。だがその背中に将兵は着いていくのだ。彼女は将兵の希望でなくてはならない。 「やってみたいのなら、ちょっと真似してみたらどうだ。案外イケるかもしれないぞ」 「またそうやって無茶振りする!なんかセオドールに馬鹿にされそうだからやめとく」 ぷいっと彼女はそっぽを向く。二人の様子を見て、後ろでハンスが苦笑いしていた。そして彼は口を開く。 「そこの光がある辺りに小さな洞窟があるんですわ。物を隠しておくにはうってつけじゃないですかね」 「ほほーう、フゥラメモしておいてくれ。あとで見に行こう。他には何かないのか?」 「あとはあれですね。あそこの断崖絶壁、実は人ひとりが歩けるくらいの幅の足場があります。その奥には真下を覗ける場所もあるんでね、籠るにはいいかもしれないね」 ハンスは次々と場所を指定し、地元民ならではの穴場を教えてくれた。どうやらこの辺りの山道は獣道が多く、少数であれば通れる程度の物も多いらしい。フゥラはそれらを簡易的に地図に書き込む。 「さて、これを少尉に報告するか。そうだ、滑空して帰ろうぜ」 「滑空?」 セオドールの提案にハンスが首を傾げる。何だそれはと言いたげだ。 「ハンスさんもしかして空飛んだことない?」 「ああ、私はブラックアーツではないのでね。飛べないんだよ。一度飛んでみたいとは思うんだけどね」 ハンスは羨ましそうに大空を見上げた。快晴とは言えないが、白くどこまでも続く空は、その果てに何があるのか、好奇心を掻き立てる。ブラックアーツとは違い、魔法を使う事の出来ない人間はそれを確かめる術を持っていないのだ。飛べるものなら飛んでみたいはずだ。そう思った彼は提案する。 「それじゃ良い機会なんじゃないか?ほら、手。二人で運べば行けるだろ」 セオドールはハンスに手を伸べる。それを見たフゥラも、そうだねと笑い、ハンスに手を差し出す。彼は半信半疑で手を伸ばす。手を取るべきかそうではないのか。彼の手は宙で右往左往する。二人は迷う彼の手を握ると、崖へ走り出す。ハンスが引っ張られるように後に続く。そして三人は崖から飛び出した。 次の瞬間自由落下が始まる。内臓を吸い取られるような気持ち悪い感覚が三人を襲う。ハンスはジタバタすることも出来ず、全身の筋肉を硬直させる。きっと彼の顔は酷く引きつっていたことだろう。 それも束の間、セオドールとフゥラが服を利用した翼を展開すると気持ち悪い感覚も収まる。グロリアスの制服には魔法で展開可能な余分な布地が背中に収納されている。滑空時はこれを広げて飛ぶことが可能になっているのだ。彼らはゆっくりと高度を下げながら、街へと飛ぶのだった。ふとハンスが足元を見ると、いつもは見上げていた木々がその頂点を並べていた。木々は何メートルもある。もしここから落下することがあったら――そう思うと手に力が入る。気が付けば先ほどまでいた場所は遥か後方だった。これが魔法の力なのか、と彼は驚嘆する。 「どう?初めての空は?」 彼の頭上でフゥラの声が聴こえた。正直なところ、彼には喋るような余裕はなかった。初めての体験に頭がついていかないのだ。 「ああ!なんかすごいなこれは!すごい!」 聞かれているのだから何か答えなくては、と思考を拒否した頭から絞り出した解答がこれだ。なんと語彙に乏しい感想なのだろうか。ハンスは自嘲する。 ブラックアーツは世代を経ることでその数を増やしてきた。今でこそ総人口の八割がブラックアーツだが、ハンスが小さい頃はようやく五割に到達するかしないか、というレベルだったのだ。しかもブラックアーツは元々遺伝子操作で生み出された人類であるため、居住地は生産地である北アメリカから、運河で繋がっている南アメリカの都市部に集中していた。インスブルックでその姿を見るようになったのはハンスが成人してからで、今ではどの地方に行ってもその姿を見ることが出来る。 故に魔法の行使を目にすることは少なかった。空を飛ばせてもらうなど論外だ。気の利いた感想など出るはずもない。 雪や風が顔に当たるため、皮膚は痺れはじめる。欲を言えば快晴の時に飛ばせてもらいたかった、と彼は思うのだった。 快適、とは言えない空の旅は一瞬で終わってしまった。三人はあっという間に街の入口へ到着していた。腰が抜けてしまったのか、ハンスの足はしばらくぶりの大地を踏みしめることに失敗する。 「ありゃりゃ、大丈夫?」 「大丈夫、大丈夫。ちょっと足が滑っちまいまして」 フゥラは尻もちをついたハンスに手を差し伸べる。彼はその手を取って立ち上がる。今度はしっかりと地に足を付けることが出来た。ハンスの仕事はここまでだ。彼は手を振って二人に別れを告げる。 「今日はお話し聞かせてくれてありがとうね!空が飛びたかったらまた言ってよ!」 フゥラが元気な声で手を振る。彼らがそのまま軍のキャンプ地へ向かっていくのをハンスは見送った。 アドリアの訓練所は何もないだだっ広い敷地だ。空には雨雲が広がり、地面にはところどころ泥濘が出来ている。クリスは訓練場へ来ていた。見る限り、自分以外の人影はない。 彼は本の内容をメモした紙を広げた。メモには本に書かれていた通りの落雷の魔法の手順が書かれている。彼はそれを上から順番に実践してみようとする。 基本的な原理は雷撃の魔法と同じで、大気中に存在する帯電した物質を利用するが、この魔法の場合はその規模が大きく異なる。 「帯電した塵……すなわち雲を利用する……ねぇ」 この文章が言いたいことは理解出来る。だが実際にやれと言われて出来るものではない。クリスは空を見上げた。遥か彼方に広がる雲は、高速飛行の時に触れたっきりだ。地上からあそこまで魔力で繋げるのは簡単ではない。 しかしやらずに諦めるのは良くないことだ。今も戦場で戦っている友人の事を思えば、これくらいのことは挑戦してみせなければならないだろう。クリスはやれるところまでやってみよう、と考える。 彼は魔力で水蒸気を操って伸ばしてみる。しかし、伸ばせども伸ばせども終わりは見えない。彼は気張って続けるが、重りを付けられていくようにどんどん身体が重くなっていった。案の定、雲に届くより先にクリスがへばってしまう。彼が魔力供給を止めたことで水蒸気は大気の中に霧散する。 クリスは息を整えながら片膝をつく。ふと周りを見ると、遠くから一人の女性がこちらを見ていた。その女性はプラチナブロンドの髪を風に靡かせ、声をかけるわけでもなく、こちらを注視していた。クリスはこの人物を知っていた。 「ミケーラ!」 クリスが名前を呼ぶとその女性は右手を振る。ミケーラは浅黒い肌をした長身の女性だ。所謂姉御タイプの人間だ。非番の時はタンクトップにホットパンツで過ごしており、その引き締まった身体が美しいプロポーションを作り出している。クリスはグレースの洗濯物を干す際に、何度も彼女に絡まれている。ただ、面倒見がいいとは思うため、粗暴な部分はあるが悪い人間ではないと認識している。今日は非番のようで、いつものような露出の高い恰好をしていた。クリスは彼女が自分に用があるとは思えないため、一体何をしにきたのだろうかと考える。 彼女はその髪を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。そして目と鼻の先で立ち止まる。彼女からは爽やかなペパーミントのような香りがした。彼女は不思議そうに尋ねてくる。 「何やってるのさ。随分難しそうなことしようとしていたみたいだけど」 「魔法の練習だよ」 「それは見りゃ分かるよ。どうしてこんな時に?お前正式入隊すらしてないだろ」 暗に何故ここを使っているのか、と聞かれたようにも思えたが、彼女の口調は咎めるようなものではなかった。それよりも単純に理由が気になっているようだ。 「ほら、お前もフゥラのこと知ってるだろ?あいつ俺と同じ孤児院の出身でさ。あいつが戦場で命張ってる時に、俺だけ呑気に床掃除しているわけにはいかないだろ?」 「おお?何だお前、ただの大佐のパンツ係じゃなかったんだな」 「だから違うって言ってるだろ。何だよパンツ係って。大佐はどんな特殊性癖してるんだよ」 アンネの誤解は解いたつもりだが、未だに多くの人の誤解は解けていない。しかし彼女は最初から変な噂を信じていない人間の一人だ。元を正せば彼女の発したジョークが噂の原因になっているからである。最初に洗濯物を干しに屋上へ入った時彼女に絡まれたのだが、正直に理由を話したところ、「そっか。仕事なら仕方ないな。頑張れよ、パンツソムリエ君」と言って解放されたのだが、その時以来、彼女は会うたびにそう呼ぶようになった。そのせいでありもしない噂が生まれたのだ。 「気軽にパンツソムリエとか呼ぶのはやめてくれよ。みんな信じ込んでるじゃないか」 「親しみやすくて良い渾名だと思うんだがな。じゃあ何て呼んでほしいんだ?」 「はあ?普通にクリスって呼んでくれよ」 クリスが呆れ気味にそう言うと、ミケーラはニヤっと笑って、 「分かったよ。クリス君♪」 と小馬鹿にしたように彼の名を呼ぶ。彼女は自分の腰に手を当て、彼を品定めするように眺めると、再び口を開いて話を戻した。 「さっきやってた魔法上手くいかなかったのか。どうやってたのさ」 「うん?こう地面から魔力で固めた帯電粒子を雲に届くようにだな……」 クリスは棒で天を突くようなジェスチャーをしながら説明する。彼は、自分は一体何をしているのだろうか、という気分に包まれる。その様子をミケーラはうんうんと頷きながら聴いていた。彼女が魔法が得意という話は聞いたことはなかったが、やはり先輩兵士としてアドバイス出来るところがあったりするのだろうか。 「というわけなんだが、なんかうまくやれるアイデアはないか?」 「え、知らね。そんなもん自分で何とかしな」 ミケーラは何も考えていなさそうな顔で、分からないと即答した。クリスは胸に淡い期待を抱いていたのだが、その期待はあっさり裏切られてしまった。彼は空しくなって地面に座り込む。泥が彼の尻をひんやりと冷やした。 「なんだよ。もしかしてミケーラは魔法使えないのか?」 彼はぶっきらぼうに言う。相変わらず空はどんよりと曇っていた。遠くでは雷鳴が鳴り始める。クリスの言葉が癪だったのか、ミケーラは横目で彼を見ていた。 「ははーん?クリス、お前私が脳筋女だと思ってやがるな?落雷の魔法だったな。いいぜ、よーく見てな」 彼女は勢いを付けて空へ飛びあがる。そしてそのままぐんぐん高度を上げていった。彼女はある程度の高さに達すると上昇をやめる。彼女の姿は小さな点のようになっていた。 そして一呼吸の間をおいた次の瞬間、空が激しい光に包まれる。そうなったかと思うと、さらに彼の近傍でバーン!と大音響が鳴る。音と共に地面が爆ぜ、土煙が舞っていた。彼は巻き上げられた土を身体中に浴びながら、空を見上げる。その時彼は見た、大量の稲光が空に走り、彼女の姿が照らし出されるのを。それらは雲の表面を走ったり、地面目掛けて放たれたりした。地面に雷が落ちる度に土埃が舞い上がり、息をする度にクリスの口の中に土の味が広がっていく。 空はそのまま荒れ模様となり、大量の雨が降り出した。ザーッという音と共に、それは地面を濡らしていく。豪雨のなかミケーラは地上へ戻ってきた。服が透けているわけではないが、ずぶ濡れになり、長い髪が顔に貼り付いた彼女の姿は妙に煽情的だった。目を合わせられないクリスは地面を見る。 「おいおい、ちゃんと上見とけよ。それともビビっちまったか!?」 「おめーの恰好が目に毒なだけだ。ほら、上着ろよ」 クリスは自分の着ていた上着を彼女に差し出す。すると彼女は破顔一笑する。 「ハッ!私を女扱いしてくれる奴はお前くらいだよ」 実際彼女が他の男性から女性らしい扱いをされていないのは知っている。というより彼女自身も男らしく振る舞っており、制服もズボンタイプを選んで着用している。食堂では男性相手によく腕相撲をやっており、男勝りと表現する方が正しいのかもしれない。それ故に女性兵士からはもちろんだが、一部の男性兵士からも姉御と呼ばれている。 「んで?どうだったよ、クリス」 ミケーラはクリスから上着を受け取り、それを着ながら尋ねる。どうだった、と聞かれれば、すごかった、という感想しか思い浮かばないのだが。 「どうだったと聞かれてもな……。とりあえず、お前が役立たずだから置いて行かれたわけじゃないことは分かったよ」 「言ってくれるねえ。本部の守りを手薄にするわけにはいかねーからな。私みたいな優秀な兵士が残らなきゃならんのよ」 彼女は自信満々に言い放つ。確かに、あれだけの魔法を使えるのなら立派な主戦力のはずだ。アドリア遠征軍にはアドリア地方の兵士のほとんどが編入されている。故に駐屯地には最低限の人員しか残されておらず、敷地内は閑散としたものだ。 彼女は遠征軍に編入されなかった数少ない兵士の一人で、クリスはてっきり無能だから置いていかれたのかと思っていた。 「ま、何て言うんだ。クリスのやり方で落雷を起こすことは出来ないけど、それ以外の方法で起こすことは出来るんだわ。やり方次第ってことよ」 「どうやってやったんだ?教えてくれないか?」 クリスが頼み込むと、ミケーラは勿体ぶるように腕を組む。 「詳しく説明してやってもいいけれど、このまま雨に濡れ続けるのは遠慮しておくよ。食堂にでも行かないかい?お前もあんな効率の悪いことしたら腹が減るだろう」 彼女は親指を立てて食堂の方向を差す。勿論かなり遠いため、その指の先に建物の影はない。彼女に言われてクリスは胃の中が空っぽなことに気が付いた。彼女の言う通り、きっと大きな魔法を使おうとしたからなのだろう。 アドリア駐屯地の食堂ではバイキングスタイルを採用している。これは魔力不足を避けるための措置で、人に合った量の食事を摂ることが出来るようになっている。 「そうだな。そろそろ夕食の時間だし、行こう」
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加