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雨が屋根を叩く音で男は浅く覚醒した。未だ微睡みの中にいる男は気だるげにベッドの上に置かれた時計を見やる。時計の針は午前六時半を回ったところだった。時刻を確認した男は次に今日の予定はなんだったか思い出そうとする。意識レベルの低い頭はなかなか答えを呼び出してくれないが、少しの間を置いて今日その男には大切な用事があったことを思い出す。男は睡魔を払うとベッドから起き上がり、手を振って壁に掛かっていた服を呼び寄せた。何のことはない、魔法の行使によるものだ。男は当たり前のようにそれを行使し服を着替える。柄のない灰色の生地のTシャツにベージュのチノパンを履き、さらに上から青いシャツを羽織る。口を開けて寝ていたからなのか、口の中は乾いてカラカラになっていた。着替えを済ませたところでそれに気が付き、男は洗面台へ向かう。途中で窓から外の様子が見えた。ザーッと雨音がしているのだから当然だが、激しい雨が降り地面には水たまりが出来ていた。遠くでは雲の切れ間から青空が顔を覗かせているためじきに雨は止むだろう。村の中心にある孤児院の周辺では既に子供たちが遊んでいる。クリスは彼らを見て、自分にもあの活力があればと寝不足で痛む頭をさする。
男の名前はクリス・レイフィールド。今年で二十歳になる。薄い金の髪は短くまとめ、目は海のように深い青色をしている。それ以外は中肉中背で外見的に目立った特徴はない。
交友関係もそれなりにあり、ごく普通の一般人という肩書が似合う、というのが周囲の人間からの彼の評価だ。やんわりと凡人呼ばわりされている気がするので、本人はこの評価に不満がある。
クリスは今日の予定を考えて頭を抱えた。
彼は今日、友人と共に二時間の道のりを歩いてシルポートという街まで買い出しに行かなければならないのだ。クリスの住む村では生活に必要な物資が足りていない。従って定期的に街へ買いに行く必要がある。もし彼が大魔法使いなら、雲の上の高高度の空を飛んだり重い荷物を宙に浮かべて運んだりすることが出来るかもしれない。だが現実は彼をそんな高度な魔法を使える人間と定めていない。せいぜい数mの高さをノロノロと飛ぶのが限度だ。つまり運命は彼が濡れ鼠になることを求めている。人は理不尽な現実を突きつけられると無気力になるというが、今のクリスがまさにその状態だった。
「めーんどくせえなぁ…」
溜息交じりにクリスは独り言を呟いた。ふと壁に掛けた時計を見ると六時四十五分くらいを指していた。友人との待ち合わせは七時のためまだ十五分ほど余裕がある。待ち合わせ場所は歩いて三十秒のところだ。急ぐ必要はない。陰鬱な気分を紛らわすようにクリスは朝食を用意し始めた。
今から作るということは歩きながら食べるつもりだ。サンドイッチにでもしようか。そんな呑気なことを考えながら、クリスは戸棚にしまってあったパンとハムを取り出し、護身用のナイフでそれらを切っていく。切れ味を確かめることも兼ねてナイフをハムにあてがうと、まるでパンケーキを切るようにスッと刃が通る。クリスが住んでいる地域は魔獣と呼ばれる化け物が出るため、こういったナイフや銃のような護身用具が一家に必ず一つは置かれている。もっともクリスは魔法が使えるため、魔獣はそこまで脅威ではないのだが。
そんな調子でちょうど八枚目のパンを切った時だった。ザクッザクッとパンが立てる乾いた音の他に、入り口の方で物音がすることに彼は気が付いた。彼は物音の主に心当たりがあった。時刻は六時五十五分。まだ時間ではない。それでもドアは軋んだ音を立てて来訪者を招く道を作る。
「雨ヤバイってマジで!雨!」
その声の主は当たり前のように人の家に上がり込んできた。この人物をクリスはよく知っている。彼の予想通りなら不法侵入の容疑者はもう一人いるはずだ。
「待ち合わせの時間まであとちょっとなんだし、待っていればよかったのに」
もう一つの声の主は先ほどの人物のとは別のものだった。それは先に入ってきた人物の影からひょこっと顔を覗かせる。こちらもクリスの良く知る人物だ。二人はたった五分足らずの時間を待つことができなかったようだ。
「わざわざ来たのか…」
面倒くさそうなクリスの視線を無視してずぶ濡れの二人は部屋にヅカヅカと入ってきた。
堂々と入ってきた片方は真紅の髪に緑の瞳、質のいい服を着ている。クリスよりやや筋肉質で長身の好青年だ。名前はセオドール・オルコット。この島を治める領主、オルコット家の息子だ。次期当主とも言われ領民からの信頼も厚い。
セオドールとは対照的に一抹の申し訳なさがその背中から滲み出るもう一人は、若葉のような淡い緑の髪をした小柄な女で、ほとんど素肌を晒さない使用人の服を着ていた。名前はフゥラ・サルヴァトーレ。セオドールの恋人で使用人である。非常に可憐な十八歳…と言いたいところだが、クリスからしてみれば憎たらしい小娘である。彼女はクリスのことを隙あらば弄り倒してくる。彼女の前で居眠りなどすれば、起きた時には顔に落書きがされ、髪型は巻きグソヘアーにされるのがオチだ。根は優しい子ではあるのだが、何故か彼に対しては悪戯心が働いてしまうようだ。
二人がこうしてクリスを待てなかった理由を彼は知っている。セオドールは筋金入りのマイペースな人間なのだ。彼の行動には大抵理由がない。
「だって雨ヤバイし。…あ、パンもらいっ」
悪いとは微塵も思っていない顔でセオドールが言った。そして当たり前のようにサンドイッチになる前のパンを食べる。セオドールはクリスより一つ年上のはずだがその仕草は無邪気な子供そのものだ。と、言っても公の場でそれを見せることはないため、場を弁える程度の能力は有していると考えられる。付け加えると、クリスとフゥラ以外にはマイペースな一面は見せないため他の人にそういう人間だと言ったところで信じてもらえない。裏を返せばそれだけ気張らずに付き合える人間だと認めてもらっているということでもある。
「ごめんねクリス。でも止めても無駄って知ってるでしょ?」
そう言いながらフゥラもパンをつまみ始めた。口では謝っても本心では微塵も思っていない響きだ。申し訳なさそうな顔はするが、媚びるような目つきで許しを求めてくるからある意味セオドールよりもタチが悪い。彼女も普段は清楚で気品に溢れた少女を演じている。模範的なメイドとして他所に紹介されるほどだ。しかし今のように三人以外の人がいなければ、この態度のデカさを前面に押し出してくる。今は座る姿勢もガニ股であり、気品の欠片も感じられない。
面倒な友人とはいえ、仮にも領主様の息子とその使用人だ。無下に追い出すわけにもいかないため申し訳程度のハムを切り出す。オルコット領は比較的裕福な土地で領民も満たされた生活を送っている。
クリスも生活には困っておらず、恋人がいないという点を除けば満たされた生活を送っていた。そのため客人に出す食料くらいは常備してあり、二人が来たところで困ることはなかった。
そう、この態度のデカさに付き合わなければならないという点を無視すれば。
「ねえクリス、私目玉焼きが食べたい」
「クリス、水」
「あ、私にもちょうだい」
二人は肉親にお願いする子供のように要求を投げかけてくる。他人の家に押しかけてきておいてこれである。二人の態度には十年ほど付き合わされている。故に今更気に悩むことはない。だが…
「セオドールはいいんだよ。でもフゥラ、お前は使用人だろ。自分でやれ」
そう、セオドールは年上でもあるし、立場を考えれば許容範囲だ。だがフゥラはどうだろうか。彼女は一介の使用人であり立場はクリスと対等のはずである。それにも関わらずこの態度なのである。
クリスのカーストは十年間、彼女の下だった。フゥラはクリスより四つも歳が下である。年上のクリスに少しくらい気を使ってくれてもいいはずなのだが。
「えー、レディーファーストだよクリス。女の子は大切にしなきゃダメなんだよ」
「だったら女の子らしい振る舞いをしろ。あとレディーファーストはこんな場面で使う言葉じゃない」
そんなんだから年齢=彼女いない歴なんだよー、などとフゥラから悪辣な評価を受けるがクリスの耳はそれをシャットアウト。
気にしていない体を装ってはいるが、クリス自身は地味にそれを気にしている。あまりに女の影が見えないことから、セオドールはクリスが同性愛に目覚めていると睨んでおり、近々相手を見繕って紹介してくれるつもりだとフゥラが言っていた。そんな親切なセオドールを嫌うことはないが、最早余計なお世話というレベルではない。
クリスにとってこの手の話題は忌避すべきものだ。だからか無意識に別の話題を切り出していた。
「しかし一体何なんだろうな」
「親しい友人と談笑しながら朝食をとる。素晴らしいことじゃないか」
ニヤニヤとセオドールが笑いかけてくるが、その発言は返答になっているのかなっていないのか適当なものだ。大方クリスの発言は三割も耳に入っていないと思われる。
こう言ってしまうと、あたかもセオドールが話の通じない異常者のように聞こえてしまうが、実際は普通に話すことも出来る。今のように適当なことを言い出すのは相手をおちょくっている時である。
「お前らが屋敷で飯を済ませてないことにも疑問はある。そっちじゃなくて、近々徴兵があるだろ?その理由だ」
話題が変わったことからかわずかにセオドールの目が真面目になった。それでも全身から溢れる緩慢なオーラは少しも揺らいでいない。フゥラは無言でこちらを見つめている。
その手にはパンとハムが握られ、口はそれらの咀嚼で忙しいようだ。彼女は全てを食べつくさんとする勢いでそれを口に運んでいた。あまりの勢いにセオドールが彼女にちゃんと食事を与えているのか心配になる。
「三十歳未満のブラックアーツの徴兵。この辺りの人間は五月二十四日にシルポートの中央広場へ。もう二ヶ月も前のことだな」
セオドールがポつりと呟く。シルポートはアドリア自治区最大の都市である。徴兵令は世界政府グロリアスからのもので、地球上の全ての自治区へ発布されている。
グロリアスはその名の通り世界を統治する政府であり、西暦二六七〇年代に誕生した。この仰々しい名前は、人類史に輝く初の世界政府となることを願ってつけられたらしい。事実西暦三七三九年の今日まで、この政府は千年以上の平和を人類にもたらしている。太古の昔は人類同士の争いが絶えなかったと言い伝えられているが、今のこの世界に生きる人からしてみればそれは本当に自分たちと同じ人類だったのか疑問だ。実際に考古学者の間では別の人種だと考える説が議論されることもあるそうだ。その太古の人類は世界大戦という地球規模の大戦争を四回行っている。その四回目の時に全ての物質を崩壊させる新兵器「反物質爆弾」が投入され、地球もろとも人類は消滅の危機に瀕した。その戦争は当時の人口を百分の一にまで減らし、地球の陸地の三十%消失させた。最終的には銀髪の魔女と呼ばれる人物によってその戦争は終結したらしいが、これは何らかの兵器の暗喩ではないかと言われている。そしてその戦争の結果、それぞれで単一の国家を構成することが難しくなった人類は一つの政府を形づくることを選択した。それがグロリアス誕生のいきさつである。こんな歴史を持っているからか、世界政府成立以来、この地球上で人類同士の争いが起こったことはない。故に「徴兵令」など最初に聞いた時はそれが一体何なのか分からなかった。軍隊は存在しているのだが、争いがないため規模を大きくする必要が全くなく、その主な業務は治安維持という名の魔獣討伐や災害救助などだ。
しかし政治面では職員の拡充が急務と言われている。それは中央政府を一つ作ったところで全ての民意を汲み取ることが困難だったからである。そこで生まれたのが自治区である。自治区はそれぞれに複数の領主が存在し、領主とその家系がその自治区を治めるという形になっている。ただしある家に統治を任せっきりという状態は腐敗の温床となりえる。
そのため領主は五十年ごとに交代される。さらに報酬も少し羽振りが良いという程度のため、中世の貴族のような暮らしが出来るわけではない。
オルコット家はもともと裕福な家柄だったため外観はまさに貴族そのものだが、名実ともに中世の貴族というわけではないのだ。任期はまだ四十年ほど残っているためセオドールが統治する日もいずれくる。そんな自治区だが、結局その自治区を運営するための人材が必要となるため、人手不足は解消されていないのだ。クリスはこの人手不足を強制的に埋めたいのか、それとも大規模な国家事業を始めるから招集するのではないかと考えている。
「何だろうな。大規模な干拓を始めるか失地を回復させるか。その辺りじゃないか」
「えーあそこに突っ込ませる気?」
失地という単語にフゥラが顔をしかめる。失地とは、約一六〇〇年前に旧人類文明を滅亡寸前にまで追い込んだ三回目の大戦争の影響で出来た土地である。今は存在しない大規模な破壊兵器を使った影響で、生物が住むのが困難になってしまった土地だ。
近づくだけで悪影響が出るとされているため、フゥラが露骨に嫌そうにするのも無理はない。事実、失地の周辺に住む人々の平均寿命は他の土地のそれよりも短い。
この地の影響で人間が住める土地は旧人類が作った地図の半分ほどしかないらしい。反物質爆弾の影響で消えた地表以外にも、土地としては存在するものの生物は一切立ち入ることの出来ない領域が存在するのだ。
また旧人類文明の技術はその大半が戦争と共に失われ、三回目の戦争でどんな兵器が使われてそうなったのか、何故失地は生物へ死をもたらすのかもよく分かっていない。
「わざわざブラックアーツを指定するってことは、あの土地って魔法で治るのか?」
失地が魔法で治るというのならこれまでに何らかの試みが行われていてもおかしくはない。だがクリスはそのような話は聞いたことがなかった。実は人の居住可能な地域は既に人で溢れており、そろそろ新しい土地が必要だと言われているのだ。この村も元々は山岳地帯で、それを開拓して村としているくらいだ。年々人口は増えており、村というより街と表現した方が良いかもしれない段階に来ている。もし失地が回復出来るのなら、それは国家を挙げて取り組むべき事業だと彼は考える。
「聞いたことないかな。治せる方法が見つかったから招集をかけた可能性はあるけどね」
興味なさそうにセオドールが呟いた。セオドールも彼と同じことを考えていたらしい。ただし彼はこのことにはあまり興味がなさそうだが。
「ま、そろそろ時間だし行こう」
そうだな、と相槌をうち、クリスは身支度を再開する。サンドイッチはまだ残っていたので山羊革のカバンに入れて持っていくことにした。当初の予定よりも少し数が少ないのを見てクリスはため息をついた。
クリスが身支度を終えると一同はクリスの家からシルポートへ出発した。玄関を開けるとほのかに土の香りがする。外には水たまりでバシャバシャと遊ぶ子どもの姿が見えた。
「雨、止んだね」
フゥラがポツリと呟いた。相変わらずどんよりとした鈍色の空だったが、雨はいつの間にか止んでいた。
クリスが住んでいる場所はアペニン島と呼ばれている。昔は本土と繋がっていたようだが、今は完全に切り離されて離島となっている。島の北部には失地が存在するが小規模なものである。シルポートはその反対、島の南部にある港湾都市で、本土との交易のため非常に活気のある街である。クリスもシルポートには何度か訪れたことがあるが、そのたびに商人達に珍妙な物を押し売りされるためあまり良いイメージはない。彼とは対照的にフゥラはショーケースに並ぶスイーツ目当てにシルポートへ行きたがる。そろそろ村にも洋菓子屋さんの一つや二つ出来てもいいと思うのだが、これがなかなか出来てくれない。
シルポートまではアペニン中央線と呼ばれる街道を通る。アペニン中央線は島の北部から南部を貫く大きな道で、ここを基準に街道はいくつか枝分かれしている。この枝分かれした街道を通って物資は各所に届けられている。
アペニン中央線は島の物流の要であり、これが使えなくなると多くの民が物資不足に悩むことになる。街道はコンクリートで出来ており、ところどころ街灯も設置されている。魔獣を撃退するための守衛も配備されており、人とすれ違うことも少なくない。この街道は自動移動機関の使用も可能なように作られているため、時折その姿を見ることが出来る。自動移動機関は旧人類文明の遺産で、当時はオートモービルと呼ばれていたようだ。四輪タイプと二輪タイプが存在し、高速な移動を実現する機械である。この機械の原理は既に解明されているが、部品を再現することが難しいため出回っている数は決して多いものではない。燃料も貴重なものを使っているため、多くの人は蒸気機関車を使って移動する。最も、クリス達が移動する区間に鉄道はないのだが。
クリス達一行は山道を抜け、平地に広がるこの街道を歩いていた。季節は初夏、まだまだ暑さは極限を迎えていないが、動いていればそれもまた些末な差でしかない。
アペニン島は比較的温暖な気候であり住みやすい土地と評されるが、他の土地を知らないクリスにとっては暑すぎる土地だった。加えて街道からの輻射熱が彼を襲う。日差しは時折雲の切れ間から覗く程度のものなのにどうしてこんなに暑いのだろうか。クリスは心の中で悪態をつきつつ額を流れる汗を拭う。すれ違う馬車の御者が手を挙げてこちらへ挨拶をした。それに対してセオドールが挨拶を返す。それを見てクリスはふと思う。
「セオドール、馬車とか用意出来なかったのか?このままじゃシルポートに着くころには汗だくで動けなくなっちまうぜ」
既に歩き始めてから三十分ほど、涼し気な顔をしている二人とは対照的にクリスは暑さで溶けてしまいそうな錯覚を覚えていた。
クリスも二人のように気候に合わせて薄着だが、仕事柄日の光に晒されることに慣れていなかった。
彼の仕事は錬金術師である。クリスの住んでいる村にある錬金術工房の主、ザジに弟子入りしている。今は見習いの身でザジにはいつもドヤされている。昨晩も鉄を土にしてしまったばかりだ。
「たまには外に出ろよ。昔はよく外で遊んだじゃないか」
いかにも昔を懐かしむような言動だが彼の口元は半笑いだった。セオドールがはぐらかす時は大体正当な理由はない。今回は自分が歩きたかったから、とかそんな理由だろう。
オルコット家はいくつかの馬車を所持しているため用意出来なかったはずがない。彼の娯楽に付き合わされているのだと思うと自然とため息が出てしまう。
「いいじゃない。クリスと一緒にどこかへ行くなんて本当に久しぶりなんだし。ザジさんの弟子になってからずーっと工房から出てこないんだから」
ヘトヘトのクリスを横目にフゥラはどこか楽しそうだった。彼を見つめる意地らしい目の脳裏には、いつの記憶が呼び起こされているのだろう。そんな彼女の横顔に、クリスはかつての彼女の面影を見るのだった。
彼女に会ったのはクリスが十歳の時。彼女はまだ六歳だった。孤児だった彼女をどこからかセオドールの父が拾ってきたのが始まりだ。セオドールの父は孤児院を経営しており、クリスとフゥラはそこの出身である。村の人間もその孤児院の出身が多い。
セオドールは同年代の子供も多かったことからよく孤児院に遊びに来た。身分の違いはハッキリとしていたため最初クリス達は萎縮してしまっていたが、セオドールの明るさは誰からも好かれるようになった。
その時から今日まで三人は仲が良い、というわけである。
「たまには可愛いこと言うんだな、オマエ」
「たまには~?いつもの間違いでしょ」
フンッと鼻を鳴らして彼女の目が小馬鹿にしたようなものへ変わる。今のような人を馬鹿にした態度さえなければいつも可愛いだろう、とは思う。
「ま、変わってなくて何よりだ。半年くらい見てなかったからな」
クリス達の話を聞いてセオドールはフフっと笑った。しばらく彼らと会っていなかったのはザジのところへ弟子入りする前に、錬金術の基礎を学ぶために本土へ渡っていたからだ。
島へ帰ってきてからも工房で修行の毎日だった。セオドール達にも仕事はあるため両者の予定が噛み合わなかった結果、しばらく会うことがなかった。逆にクリスの知っている二人もまた、前回会った時と変わらないように見えた。
「お前らはもうちょっと変わっていてもよかったと思うけどな」
とクリスは少し皮肉を言ってやる。するとセオドールは
「俺たちが変わっちまったらよお…クリスが帰ってくる場所がなくなっちまうじゃないか!」
などと天に両腕を広げた仰々しいポーズを取りながら冗談めいたことを言っている。クリスはあまりの滑稽さに周囲に哀愁が漂っていることは触れないことにした。だがそんな彼の配慮を尻目にフゥラまで
「私たちなんて優しいの!」
などと同じく天を仰ぐ珍妙なポーズを取りながら馬鹿なことを言い始めた。なるほど、寒いコントの技術は少し成長したらしい。そのポーズがなんなのか些か気になるところではあるが、彼らのコントは完全に見なかったことにして歩みを進める。
「そういえば覚えてる?前にシルポート行った時のこと」
フゥラはコントが受けなかったからか話題を変える。前回というともう半年以上前のことになる。クリスが本土へ行く時の見送りに二人が来てくれた時のことだ。
「あ!あの時お前ギャン泣きしてたよな!」
「え!?ちょっとそれは言わない約束で…!クリス違うからね?」
セオドールがニヤっとしながら言う。フゥラは顔を真っ赤にして否定するが、その様子から事実なのだろう。
「へぇ、お前可愛いところあるじゃん」
彼女の意外な一面を聞いてしまってクリスはニヤニヤが止まらない。いつもやられている分取り返さなくては。きっと寂しかったんだろう、そう考えたクリスは彼女の顔を覗き込み、赤ちゃん言葉で話しかける。
「よーちよち、寂しかったでちゅね~お兄さんに甘えていいんでちゅよ~」
「キモっ…」
その一言からは冗談抜きの純粋な嫌悪感が伝わってくる。地味に傷ついたクリスは頭の中で一連のやり取りをなかったことにして歩みを進める。
「こほん!冗談は置いておいて!あの時にした約束覚えてる?」
彼女は咳払いしながら言った。その頬はまだ少し赤らんでいる。そしてクリスに向けるその眼差しは何かを期待しているようだった。
「あ?何だっけな…」
言われてみれば何か約束をした気がする。覚えていないのだから大した約束ではなかったはずだ。フゥラは指を弄りながらクリスが答えを出すのを待っている。
「…覚えてない?シルポートの洋菓子店で…」
「洋菓子店」という単語を聞いた時、その言葉が稲妻のように脳内を走り、一つの記憶を呼び覚ます。
「ああ!アンティコのケーキを奢る約束だったな。しかしよく覚えてたな…」
アンティコとはシルポートにある有名な高級洋菓子店である。ブルーベリータルトが美味しいと評判で、お土産に買っていくと非常に喜ばれる。オレンジ色の灯りによって照らされる店内も綺麗であり、購入したケーキをそこで食べることも出来る。女の子にとって一度は行きたい憧れのお店というわけだ。クリスは本土へ出発する直前、帰って来たら三人でそこのケーキを食べに行こうとフゥラに約束していた。口約束だったがついに果たす時が来たようだ。
「うん!楽しみにしてたんだから!」
余程楽しみなのだろう、彼女はパッと顔を輝かせる。きっと今からどのケーキを食べるのか考えているのではないだろうか。その一方でクリスはサイフにそんなお金が入っていたか不安になるのだった。
そんな雑談の最中、フゥラが何か見つけたように急に足を止めた。それに合わせて二人も足を止める。気が付けば周囲に人影はなく、ただ街道を吹き抜ける風の音しか聴こえない。不気味なほどの静けさにただならぬ雰囲気をクリスも感じ取った。
「どうした?」
セオドールが周囲を見回しながら怪訝な顔で彼女に尋ねる。というのも周りは平地で非常に見晴らしが良い。そのため何か異常があれば彼らの視界に入ってもおかしくない。しかし周囲を警戒してみても異常は見当たらないのだ。
「………誰かに見られている気がしたけど…気のせい…かな」
「本当か?」
フゥラの歯切れの悪そうな返答に対し間髪入れずにクリスが返す。例え勘違いでも警戒するべきだと考えたからだ。魔獣が近くにいるなら襲われる可能性もある。周囲に人がいないのも、この周辺で魔獣出現に応じた侵入禁止令が出されたからかもしれない。そうなれば街道は閉鎖されてしまうため、必然的に人はいなくなる。
「この平原なら、流石に俺でも襲撃は事前に察知出来ると思うぜ」
周囲に異常がないことを確認してからセオドールが言った。立ち止まった時は懐に手を入れていたが今はその様子はない。警戒心はいくらか緩んでいるようだ。
「もう見られている感じもしないし、本当に気のせいだったのかも…」
自信なさ気にフゥラが呟く。周囲を見渡す限り生物の影はなく、時折吹く風の音がするだけだ。クリスは未だに気配の片鱗すら感じていなかった。その後もしばらく3人はその場に留まったが、特に異常は見られなかったため先に進むことにした。
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