16人が本棚に入れています
本棚に追加
豪華な装飾の施された執務室で女性がペンを取る。机には山のような書類が並び、彼女の繁忙振りを如実に表している。彼女の名前はグレース。澄んだ青空のような水色の髪と瞳。濃紺のドレスに身を包む様はまさに淑女そのものだ。彼女に姓はなく、家族もただ一人しかいない。その美貌と謎に包まれた出自が彼女のミステリアスさに拍車をかけている。心なしか彼女が執務を行う部屋そのものからもミステリアスな雰囲気を感じる。彼女の部屋を訪れる下士官は皆、部屋に入る前に身なりを整えるという。今日もまた、一人の伝令役の士官がグレースの執務室へやってくる。
「お忙しいところ失礼します。私はエンリケ少尉と申します。ベルマン元帥から言伝を預かって参りました」
トントントンとノックとして入ってきたのはまだ若い青年だった。きっと士官学校を出たばかりなのだろう。グレースに向ける眼差しも緊張の色を隠せていない。
「ふむふむ、ベルマンは一体どんな無理難題を私に押し付けてきたのでしょう?」
若い士官を少しからかってやろうと彼女は考え、足を組み彼に太ももを見せつける。エンリケは驚いたように一瞬そこに釘付けになる。だがすぐさま任務を思い出し、目を彼女の顔へ向け直した。彼の任務に忠実な様を見て彼女はニッコリと笑う。
「既に書面では通達済みですが、例の人語を解する魔獣がこの地方に向かっている、と本部は推測しておりまして――」
「あぁ…私に討伐を命じに来たわけですね」
この手の命令は珍しいことではない。グレースはグロリアスの治安維持機構の上級士官である。階級は大佐であり、グロリアスでは1地方の治安維持を任されることになる。つまり彼女の担当地域の問題であれば彼女の管轄となるわけだ。グロリアスは137の地方から成っているが、その広さや治安レベルはまちまちである。彼女の担当するアドリア地方はアペニン島とアドリア海を囲む沿岸が含まれている。陸地面積は他の地域と比べると狭いが、アドリア海は広い上に海竜という魔獣が現れることもあるため、治安レベルは中とされている。これは人間の居住区の安全は保障されているが、それ以外の地域は危険であることを表している。このレベルはグレース達治安維持機構の人間がいくら頑張っても滅多に向上することはない。これは都市計画に拠るところが大きいからである。
人の言葉を理解する魔獣は先日より隣のアルプス地方で観測されており、甚大な被害をもたらしているという情報はグレースの下へも届いている。
「ええ、その通りです。このままですと最初にシルポートという街に到達するのではないかと予想されています」
「え?ミラノやトリノではないのですか?」
予想外の情報に思わず素の声が出てしまった。彼女は周りの士官達が自分のことをどう見ているのか知っているため自分でもそういった雰囲気を作るようにしていたのだが、彼の一言でその化けの皮を剥がされてしまった。
「はい…こちらへ伺う直前にアペニン島へ上陸したことが確認されました」
実におかしな話だとグレースは思った。何故ならアルプス地方からアペニン島までの道中にはいくつかの大都市が存在しているからだ。件の獣は人の多い都市を狙って襲撃を繰り返す傾向があった。従ってアルプス地方から近く、人口も多い沿岸部の都市が狙われるのは必然だと思ったのだ。特にミラノは周辺都市の中でも格段に人口が多いため、あらかじめ防衛部隊を組織し送り込んでいた。
「どうなっているのです?既に沿岸部の都市は壊滅したと?」
「いいえ、全ての都市は健在です。サヴォイ方面を経由し、海を渡って島に向かったようです」
自分の管轄下にある国民が生命を脅かされたかもしれないという事実と、全ての対応が後手に回っている事実にグレースは顔をしかめる。しかしサヴォイ方面を経由したとなると、尚更トリノに被害がないことが疑問だ。件の獣には方針転換を図らなければならない理由でもあったのだろう。思い当たる節は一つある。
「まぁ何故あの島へ向かったのかは考えても仕方のないことでしょう。魔獣は何匹いるのですか?確か集団戦闘を仕掛けてくるから手を焼いたとか」
「ええ、上陸した敵は18体とのことです。あのアルプスのハイネ大佐が殉職した相手です。」
ハイネとはグレースと同じく地方を任された上級士官だった。山岳における機動戦を得意としており、そんな変態じみた芸当が出来るのは彼と彼の直属の部隊だけだった。グレースも戦闘技能はかなり高い評価を得ており、グロリアスの中でも指折りの強者と言われているが、仮に山岳地帯で彼らと戦うことがあれば逃げおおせることにさえ骨を折るだろう。彼らがいたからアルプスの平和は守られてきた。しかし2週間前、件の獣によって彼と彼の部隊は壊滅。一時的に防衛部隊を失ったアルプス地方へ周辺地方から討伐隊が送られたが、あと一歩のところで群れを逃がしてしまった。その群れが自分の管轄へ逃げてきたというわけだ。トリノを襲わなかったのも追撃を恐れてのことなのだろう。
「敵討ちという柄ではありませんが、彼のためにもキッチリ仕事をこなさなければならないようですね。ただちに第3近衛分隊に出立の準備を」
そこまで言ってふとエンリケを見ると、彼は緊張で震えていた。一体どうしたのだろう。そんなに緊張させるような態度を取ってしまっただろうか。訝し気に彼女は問いかける。
「…どうかされましたか?」
「あっ!いえ、私もその部隊に配属されたばかりで…」
「ああ、初陣なのですね」
グレースはこんな場面で不安な気持ちを和らげるほど気の利いた言葉を持っていなかった。だから自分の尻を軽く叩きながら冗談めかしてみる。
「安心しなさい。私が先導するので貴方は私のお尻だけを見ていればいいのです。見放題です」
「はっ!?」
そのままエンリケの脇を通り過ぎ、グレースは衣装ダンスから制服を取り出す。エンリケは一瞬何を言われたか分からずポカーンと口を開けていた。普段は下品な冗談は言わないようにしているため余程意外だったのだろう。
「口が開きっぱなしですよ」
「あ…ああ、すいません。大佐がそんな冗談を言われるとは」
「私は貴方より年上ですから。あまり夢を見るものではありませんよ」
彼は苦笑いする。いくらか緊張は解れたように見えた。
「ところでエンリケ少尉、いつまでここに?私はこれから制服に着替えるのですが。まさか見たいのですか?」
「え!?見せ…!?いえ!!失礼します!!」
彼は脱兎のごとく部屋から飛び出して行った。グレースは「はぁ」とため息をつく。やりすぎたかもしれない。部下の扱いは難しいものだ。ちゃんと招集に来るだろうか、と少し反省するのだった。
クリス達はシルポートまであと少しというところまでやってきていた。既に街の門は見えており普通なら足取りも軽くなるところだが、周囲の状況はそれを許してくれなかった。クリス達と門の間に、先ほど遭遇した獣と同種と思われる群れがいるのが見えるからだ。それらはこちらへは気が付いていないようだが門の方へ向かっており、それが街を襲おうとしているのは誰の目にも明らかであった。
「なんてことだ……早く何か対策を講じないと……」
立場上当然だが、セオドールはこの状況を見て見ぬふりなど出来ない。一体ですら苦戦を強いられた相手が群れで存在しているのだ。ここからでは数までは把握出来ないが、一体でも街へ侵入すれば惨事は免れないだろう。
「あんな数俺達だけでどうにか出来るのか?街へ知らせるにしても、別の入り口へ向かう間に奴らは門へ着くだろうな!」
「そうかもな。だが見逃すわけにもいかない。諦めるのは時期尚早だぞ、クリス。」
そうセオドールは言うが、どうしようもない状況にクリスは半ば絶望していた。これから起こる惨事をただ遠くから見ていることしか出来ないのではないかと。そんな彼とは対照的にセオドールとフゥラの二人は静かに互いの視線を交わす。そして、
「セオドール様、ご命令さえして頂ければ、フゥラはいつでも向かう準備が出来ております」
フゥラがセオドールに跪く。クリスからしてみれば柄にもないことをしているように見えるが、本来彼らはこういった主従の関係にある。事態の深刻さから考えて、この対応に何らおかしなことはない。これはフゥラも覚悟は出来ているという意思表示なのだろう。
「プライベートの時は……。いや、フゥラ・サルヴァトーレ、出来るのか?」
セオドールは無粋なことを言いかけたが、それを寸でのところで飲み込んだ。彼は不安げに彼女へ問う。
「確約はしかねます」
「ならダメだ。死にに行けと命令することは出来ない」
彼は即答する。無事に帰れる保証もないところに、無闇に彼女を送りこみたくないのだろう。しかしフゥラも引き下がらない。彼女は顔を上げて彼の目を見つめる。
「セオドール様、それでも、です。どうか次期当主としての務めを果たしてください。貴方は決断しなければなりません」
セオドールの目には迷いが見える。しかしフゥラは既に心を決めているようで、その目には迷いはない。その想いを伝えようと、彼女は一心に彼を見つめている。
「だからといってだな――」
「全員で向かえば全滅は免れないでしょう。しかし私一人でも時間稼ぎくらいは可能です。その間にセオドール様がお二人を連れて街へ向かえば、守備隊が防御を固める猶予を得ることは可能だと考えます」
彼女は自分で何を言っているのか分かっているのだろうか、とクリスは思った。これは自分を捨て駒に使えと言っているに等しい。そんな選択を彼女は彼に強いているのだ。彼が首を縦に振ることは容易ではないだろう。
「お前はどうなる?」
その問いに対して一瞬の間が空く。それを言えば彼はどう考えるのだろう。一人で行くことを許してくれるのだろうか。自分の考えを納得させるにはどんな一言が必要か、彼女は考えているようだった。そしてその重い口を開く。
「私は……生きて帰れないかもしれません。それでも私は、今が自分の命を懸ける時だと思っています。私の誇りにかけて、この場で最良の選択を逃すことはしたくありません。セオドール様が次期当主としての務めを果たさなければならないように、私も私の務めを果たさなければならないと思います」
彼女の務め、それは彼に仕えることだ。それはつまり彼の信条に従うということ。それはつまり彼の手駒となり、時には捨て石に使われることを受け入れるということでもあるのだ。次期当主としての務め、という言葉にセオドールは弱かったようだ。彼は下唇を噛む。そして一度深呼吸してから彼女に告げる。
「次期当主としての務めか。分かった。オルコット家次期当主として命ずる!街へ忍び寄る脅威を排除し市民を守れ!」
「承知しました。必ずや」
その言葉を聞くとフゥラはくるりと背を向ける。どうやら彼女は、本当に単身であの群れへ吶喊するつもりらしい。
「おいお前らそれ本気か?フゥラは……死ぬかもしれないんだぞ!?」
今にも飛び出していきそうなフゥラをクリスの言葉が引き留める。クリスにとって二人は幼い頃から共に暮らした仲だ。彼ならあの群れに立ち向かえと言われても、怖くて何も出来ないだろう。しかしあっさりと覚悟を決めた彼らに――同じ時を過ごしたはずの二人との覚悟の差に――クリスは溝を感じるのだった。
「上に立つものとして市民を守るのは当然の責務だ、クリス。まぁ俺が戦いに参加したところで足手まといにしかならないから……俺の仕事はこの子を街へ送り届け、市民を避難させることだ」
「そして私の仕事は敵を食い止めその時間を稼ぐこと。そうですね?」
クリスは彼らに何も言うことが出来なかった。かける言葉が浮かばなかったのだ。そんな彼を見てフゥラが彼の背中を叩きこう言う。
「クリス、これから私たちのやることに付き合えなんて言わないよ?けれどここで立ち向かう男の方が私はかっこいいと思うなぁ?」
フゥラはにっこりと笑顔を作る。とても可愛い。しかしそんな可愛い顔から発せられる言葉には、微塵も可愛さを感じられなかった。
「それ付き合えって言ってるよな…」
クリスは浮かない顔でセオドールの顔を見る。彼もフゥラの言葉には苦笑いを浮かべていた。
「クリスも俺たちが守るべき市民の一人だ。本来なら逃げろというところだが、今は一人でも多くの手が借りたい。どうか力を貸してほしい」
彼はクリスの目を見て言った。その真摯な眼差しがクリスの意識を捉えて離さない。ここまで言われて逃げたら、クリスは二度と彼らに合わす顔などないだろう。それ以上に、彼は少しでもフゥラが危険な目に遭わないで欲しいと思った。そうなれば必然的に答えは一つだ。
「やめろよセオドール。そんなことしなくても……。はぁ……、協力するさ。お前らを置いて逃げることだけは出来ない」
クリスの言葉に二人がほほ笑む。フゥラはそのままニコニコしていたが、セオドールの顔からはすぐにその表情は消える。それは次に語る内容のせいだ。
「それじゃクリス、俺と一緒に来てくれ。俺たちは迂回して正面の門を目指す」
そしてセオドールは少し言いよどんでから、
「その道中で万が一敵と遭遇したら……すまないが俺を逃がすために囮になってほしい」
と言った。クリスも少しは戦うことが出来るが、先ほどの戦績から考えて囮などなぶり殺しにされるのがオチだろう。それでもこの状況ではそう頼むしかない。二人の親友を死地へ送り出すセオドールの心境やいかなるものだったのだろうか。気が付けば彼は苦虫を噛み潰したような表情になっていた。
「分かってるからそんな嫌な言い方するなよ。誰もお前を恨んだりしねえよ」
彼も嫌なのだろう。だからあんな嫌な言い方をするのだ。そんなことはクリスにも分かっている。
「ふぅ、クリスも調子出てきたみたいだね。クリスだってやれば出来るんだから、しっかりね。それじゃ!私は先に行くね!」
「あ!おい!ちゃんと食べたいケーキ考えておけよ!」
そういうとフゥラは驚異的なスピードで飛び去った。そして放物線を描き、群れに近づいていく。クリスは「ないもの絞り出しているだけだ」と彼女に恨み節の一つくらい言いたかったが、そんな猶予すらない一瞬の出来事だった。だから咄嗟に出た一言を彼女へ投げかけた。彼女は右手を振って答えた。彼は彼女の遠くなる背中を見送る。
「俺達も行くぞ!」
フゥラの背中が小さくなったところでセオドールがクリスの肩を叩く。クリスもそれに応え、二人は走り出した。
グレースはアペニン島へ向かって飛んでいた。空を飛ぶ魔法は意外と難しいものではない。しかし今の彼女ほどのスピードで飛ぶことは難しいだろう。彼女が駐在するフィレンツェから南へ百キロ、そこにシルポートがある。一応彼女直属の親衛隊も向かっているのだが、あまりに遅いので置いてきてしまった。あと20分もすれば街へ着くだろう。既にシルポートの街並みは視界に入っており、幸いなことに街が焼かれているような形跡は見えない。それに少し安堵した彼女は深呼吸する。
(油断してはダメ、敵は既に街へ入り込んでいるかもしれない…一人でも犠牲は抑えないと…)
最悪の事態を想定しつつ彼女は飛行を続ける。そんな彼女の耳元で声がする。
「グレース大佐、そちらの様子は問題ありませんか?」
声の主は親衛隊の隊員だった。この時代では通信機は高価だが、政府機関には十分な数が回されている。しかし無駄に浪費することは出来ないため年季の入った代物だ。こちらからは何も問題が確認出来ないため、通信機越しにその旨を伝える。
「こちらからは何も見えません。どこかで特大のクソをひり出している最中かもしれませんね」
「そうですか。実は未確認情報ですが、既に市街近郊で戦闘が始まっているとのこと。自警団のものかもしれません」
「遅かった…!私は貴方たちの到着を待たずに戦闘区域へ向かいます。以後の判断はレオナルド隊長に一任します。いいですね?」
了解しました!と通信機の向こうから声が聞こえた。どうやら最悪の事態は既に目前に迫っているらしい。今も命の危機に瀕している同胞を思うと早く解放してあげたいと彼女は思うのだった。しかしここからではどこで戦闘が行われているかすら分からない。
(もっと接近しないと…)
グレースがそんなことを思ったその時だった。シルポート正面門付近で大きめの土煙が上がる様子が彼女の位置からでも見て取れた。
「そこね!今行くから!」
すぐに迎える嬉しさと早く行かねばという焦燥から自然と言葉が零れる。そんなことにも気が付かず、最高速度で地上を目指す彼女の身体は空気を断熱圧縮したことによって熱を帯びる。それを冷却するためのガスを魔法で展開すると彼女は蒼い光に包まれる。その姿は蒼い流星のように見えるのだった。
最初のコメントを投稿しよう!