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正門から少し離れた街道上には凄惨な戦いの跡が残されていた。均一に舗装されていたはずの道は地面からバラバラに引き裂かれ、どこからどこまでが道だったのか判別することは不可能だった。さらにその残骸のなかに点在する見たこともないような無数の怪物の死体。セルバンデスはこのような獣に遭遇したことがなかった。その光景を見れば誰でも驚くだろうが、今はそんな空気ではなかった。惨状の隅の方、抉れた地面が壁のようになっているところに尋常ではない量の血痕が残されていたのだ。セルバンデスはそれがてっきり怪物のものだと思っていたが、そうではないらしい。それを見たクリスとセオドールの顔から血の気が引いていくのが分かったからだ。セオドールは馬から降りるとそこへ走っていく。そして何かを拾い上げ、がっくりと両膝を付く。
「セオドール…それは…」
セオドールはクリスの問いかけに答えない。いや、それが答えだった。それでもクリスはまだ信じていなかった。彼もおぼつかない足取りでトボトボとその現場へ近づく。
「違うと言ってくれ…セオドール……なぁ」
セオドールは俯いたまま、無言で手にしていたものをクリスに突き出す。それは血で汚れた黒いローヒールのパンプスだった。二人はそれが誰の物か知っている。そう、二人のために敵を引き付けたフゥラの物だ。無理な動きをしたのか、その踵がおかしな角度で削れていた。
「俺のせいだ…無謀だと知っていて送り出した…俺の……せいだ……」
セオドールは地面に向かって呟く。彼女がそこにいるわけではないが、まるで彼女に謝罪するかのようだった。
「すまない…こんな…。苦しかっただろうに…」
「フゥラ…」
お互いにかける言葉などなかった。二人の男は深い悲しみにただうなだれるしかなかった。ここには血だまりだけで遺体があったわけではない。肉片が飛び散っているわけでもなかったため、生存している可能性はゼロではない。しかしそんな考えは気休めに過ぎないと二人は思った。クリスは分かれる直前の彼女の顔を思い出していた。いつもと変わらぬ屈託のない笑顔。思えば彼女はよく笑う子だった。セオドールと別れ、二体の化け物と戦うことが出来たのは彼女が冗談めかして元気づけてくれたからだ。もしあそこで何も言ってくれなかったら、自分は死んでいただろうと彼は思った。そう、彼女は自分のことをよく知っていてくれていた。自分をよく知る友を失った悲しみは、まずその事実を受け入れることに時間が掛かった。
「セオドール、まだいるんじゃないのか」
クリスはふと思った。フゥラが殺されたのなら、殺した奴が生き残っているはずだと。自分たちだって害獣を殺すのだから殺されることもあるとは思う。それは理解している。だがそんな理屈で片づけられるほど三人の過ごした時間は短くなかった。クリスの胸には静かな怒りの炎が灯り始めていた。それをフゥラが望まないことも分かっているつもりだ。だがそれもまた理屈でしかない。彼を支配する感情を抑えるには至らない。
「俺達でケリを付けよう」
「ああ…」
セオドールはそれ以上何も言わなかった。だがその短い言葉の裏に隠された激情は誰の目にも明らかだった。彼の言葉の端々からもそれが汲み取れた。
「セルバンデス、周囲の状況確認は終わったか?」
帰還したグレースは机の上に積まれた報告書の山を見てため息をつく。これらは全て今回の襲撃に関する報告書だ。敵の分析からこちらの被害へ至るまで、事細かに記述されている。本来なら前線へ出張ることよりも、こういったお役所仕事が彼女の主要業務なのだ。だが彼女は見た目に反してそういったことが苦手だった。故にお役所仕事は部下のレオナルドに丸投げしていたのだが、現在そのレオナルドは統括本部に報告へ向かっているため不在である。そうなると必然的に彼女の下へ全ての報告書が回ってくるわけである。
「ねえこれ全部私の仕事なの?」
彼女は自分より先に執務室に来ていた人物へ訪ねる。そこには鮮緑色の美しい髪の女性が来客用の椅子に腰かけていた。髪は腰の高さまで伸びており、見た目に合った若草のような爽やかな香りを放っている。この女性はローラ・ベレッタという。彼女は治安維持機構のトップ、4人の元帥のうちの一人だ。実はグレースとは士官学校からの同期である。
「あれはグレースちゃんの席だからねぇ」
ローラは困ったような顔をして答える。彼女は勝手に机の上の資料を見ていたようだ。来客用の机の方にいくつか散らばっているのが分かる。そのどれもが件の獣に関するものだった。
「それで今日はどうしたの?私に何か用事でもあった?」
グレースはローラとは仲がいい。視察にかこつけて遊びに来ることも少なくない。でも今日は疲れたからやめてほしいとグレースは考えていた。そう考えながらも邪険にあしらう気はないため、彼女の正面に座る。
「安心して。今日はちゃんと仕事で来たんだから」
ローラはニコっと笑って答える。彼女は若くして元帥の座に登りつめた天才、それに既に2児の母というステータスまで持っている。出来ることなら精神だけ入れ替えたいと彼女は常々思っている。性格も至って穏やかで、一部では人類の母とか言われているのだとか。
「いつも仕事じゃないのに来るのが問題なんだけどね…」
グレースはボソっと呟く。別に彼女と会うのが嫌なわけではない。むしろ会いに来てくれるのは嬉しいのだが、何事にも限度があるということだ。
「そう邪険にしないでよぉ。今日はこれを届けに来たのよ」
そういって彼女は黒いカバンから一枚の茶封筒を差し出す。グレースが封を切ると、中には何枚かの紙が入っていた。どれも治安機構の判が押された指令書だ。
「指令書?部下にでも届けさせればいいのに…」
「そんなのグレースちゃんに会いたかったからに決まってるじゃない!」
グレースの言葉を途中で遮りローラが叫ぶ。と、同時に彼女の姿が一瞬消え、間発を入れずグレースにダイブしてくる彼女が目の前に現れる。彼女は世界でも珍しいテレポートの使い手だ。彼女は北米全地方の統括のため、いつもはニューヨークに滞在している。しかしこの能力のおかげで世界のどこへでも一瞬のうちに行けてしまう。グレースの執務室へも一瞬のため、実は部下に任せるより彼女が直接届けた方が遥かに早い。
「ちょっ…」
驚くグレースをよそ眼に、ローラは彼女に倒れ込む。そして身体を強く抱きしめ、顔に頬ずりをしてくる。グレースは腕力で抵抗しようとするが、一体その華奢な腕のどこにそんな力があるのか、ローラの拘束には一寸の綻びも見られなかった。
「あ~!グレースちゃん温かい!独り占めしたい!」
「うわぁ!?ちょっとやめてよ!!私達もう30越えてるのよ!?こんな学生みたいなこと…!!」
学園では女学生同士で抱き着いているのは珍しいことではない。だが彼女達はどちらも女学生の倍近い年齢だ。そろそろ落ち着いた振る舞いを覚えても良いころだ。グレースはそういう事を言いたいのだが、ローラはお構いなしに今度はグレースの髪の匂いを嗅ぎ始める。
「年齢なんて関係ないよ。私がやりたいと思ったらやるの。あ、シャンプー変えた?」
「ええ変えたわよ!!そういうことは息子にしてあげなさい!」
ローラには二人の子供がいるが、片方は今年で7歳のはずだ。そろそろ私の代わりになってほしいものだ、とグレースは思う。というかシャンプーの匂いを覚えるほど絡まれていることに気付き、背筋が寒くなる。
「だって嫌がるんだもん~」
「私だって嫌がっているのよ!?」
彼女の息子は自分の母が友人にこんなことをしていると知ったら一体どう思うかグレースは心配になった。ローラのスキンシップは彼女の気が済むまで続いた。ローラはひとしきりグレースの身体を弄ぶと、気が済んだのか彼女を解放した。疲れたグレースは生命力を吸い取られたかのようにぐったりとソファに寝転がった。彼女とは対照的にローラはツヤツヤとした顔で指令書を広げはじめる。そしてその中から一枚の紙をグレースに差し出す。
「この指令書の内容を読んで?」
グレースは乱れた髪を直すこともなく、乱暴にその紙をひったくる。
「捕縛命令…」
「人聞きの悪い言い方ねぇ。重要参考人の保護よ」
そこには今回の事件に関係した人物の捕縛命令が書かれていた。名目はローラの言った通り重要参考人の保護である。獣の動向など彼らが知る由もないため、尋問をするわけではないとグレースは思った。ただ事の仔細を聞きたい、そんなところだろう。
「既に一人は保護下にあると聞いたけど、どうなのその子?」
「ん…。あの子はまだ寝ている。怪我していたし」
実は先ほどの出撃でグレースは一人の被害者を保護した。かなりの重傷だったが、彼女の魔法でなんとか一命は取りとめた。ついでにその被害者を食べようとしていた件の獣も殺しておいた。見たところ相当悪趣味な魔獣らしく、被害者の命を弄んでいたように見えた。被害者は、足は潰れ内臓もいくつか破裂していたし背骨も砕けている部分があったため、グレースもいっそのこと慈悲をかけてやるべきかと考えた。だがうわ言のように誰かの名前を呼んでいたのをとても哀れに思い、手を尽くすことにしたのだ。なんて名前だったか…セントールとか言ってたっけ、とグレースはその名前を思い出そうとするが答えには辿り着かない。そんなグレースをよそに、ローラはカバンを持って立ち上がる。
「そっか。ここに参考人のリストがあるから漏れなく保護しておいてね。それじゃまたくるから!」
もうしばらく来なくていい、とでも言おうとしたが、そんな隙も与えず彼女の姿が消えた。嵐のようにやってきて、嵐のように去る。一体どこが「人類の母」なのか教えてもらいたいとグレースはため息をつく。時刻は20時を回ったところだった。もう来客はないだろうと思い、彼女は制服をはだけさせる。そして何気なくリストの名前を目にした。そして聞き覚えのある名前を目にする。
「セオドール…そうかこの子の名前を呼んでいたのか」
なら早く会わせてあげないとね、とグレースは思った。彼女もローラのようにテレポート出来れば今すぐ連れてくるところだが、残念ながらその魔法は使えないため、正規の手段を用いて連絡を取るより他ない。明朝にでも出発しようかと彼女は考える。そのための準備をするために彼女は通信機で部下を呼び出すのだった。
クリス達はシルポートに宿泊していた。シルポートは美しい街だ。昼の景色も去ることながら、夜は街の灯りが幻想的な夜景を作り出す。クリスはホテルのベランダから眼下に広がる街並みを見る。今の彼にはそれがフゥラへ手向けられた花束のように見えた。色とりどりの灯りが悲しく煌めき、それはまるで脆く儚い人の命の輝きに似ているとクリスは思った。セオドールは別の部屋に泊まっている。何事もなければフゥラも一緒にここまで来ていただろう。しかし現実はそうならなかった。誰しもいつかは死ぬ。それは世界の真理だ。しかしこうも早く彼女にそれが訪れるとはつゆほども思っていなかった。
(もっと優しくしてやればよかったなぁ…)
結局彼はフゥラにはお礼すら言えていない。たまには放っておいて欲しいと思ったこともあった。だがいざいなくなってしまうと、自分を繋ぎ留めておく何か大事な物が心から零れ落ちたようになり、ふわふわと感情が宙に浮かぶような感覚に襲われる。怒りたいのだろうか、悲しみたいのだろうか、感情がどちらにも落ち着かないため分からないのだ。結果としてホテルに着いてからクリスはフゥラのことをぼんやり考えているだけであった。
(前にシルポートに来た時もいろいろ買い物しに来たんだよな)
この街には様々な工芸品や珍しい食物が集まる。前に来た時はドラゴンフルーツという奇妙な形をした果物を食べたり、日本刀という美しい武器を見たりした。初めて見るものを前にして彼女はキラキラと目を輝かせていたのをよく覚えている。今回もそうなるはずだった。彼女はクリス達を守ってくれた。守ったところで自分には何の見返りももたらさないのに。
(何のケーキ食べたかったんだろうなぁ)
アンティコのケーキを食べに行くという約束もついぞ果たせなかった。この後悔は一生ついて回るのだろう。あそこでこうしておけば、ああしておけばと数多の“もしも”を考えてしまう。
(いつも守られてばっかりだったなぁ…。何かしてやれるわけでもないのに、本当に優しい子だった…)
彼女があんな死に方をするような罪を何か犯しただろうか。少なくともクリスはそんな話を聞いたことがない。常に他人を思いやり、困っている人間を見捨てることが出来ない人間だった。それなのに何故あんな目に合わなければならなかったのか。今回も街の住民を見捨てられなかったからあんな選択をしたのだろう。彼女がこの街を守ったと言っても過言ではない。結局あの後付近に獣は見つからず、どこか遠くに逃げおおせたと見られている。もしあそこでフゥラが行動しなければ、今頃この街は炎に包まれていることだろう。今この夜景が見られるのも彼女のおかげなのだ。眼下で人々が行き交うことも、温かい我が家へ帰ることも、全ては彼女が行動したおかげだ。彼らには今日の暮らしが彼女に守られたことなど知る由もないだろう。当然彼女も知ってほしくて実行したわけではないだろう。
クリスの心の中にふつふつと湧き上がってくるものがある。ぼんやりとしていた彼には、初めはそれがどんな感情なのか分からなかった。それはどんどん胸の内を満たしていく。気がつけば無意識のうちに手すりを強く握りしめていた。彼は驚いて手を離す。強い力で握ったからか、彼の手には赤く手すりの跡が付いていた。
「何に怒りたいんだ、俺は」
その感情は怒りだった。一体何に、何のために。ぼんやりとしたクリスにはハッキリと分からなかった。あの時のようにフゥラの声が聴こえることもなかった。それはこの先永遠に訪れないのだ。
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