第一章 全ての始まり

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翌朝、クリスが朝食を取りに売店へ向かうとセオドールと鉢合わせた。避ける理由もないため、同じテーブルに座るが明るく談笑するという気分にはなれなかった。二人は軽く挨拶をして食事を摂ろうとする。するとホテルの中に重武装の兵隊とそれを先導する一人の女性が入ってくるのが見えた。周囲の人はその異様な光景を見て道を開ける。その一団はまっすぐこちらへ向かってきているように見えた。 「あれこっちを見ている気がするんだけど」 「さあ?あんな美人知り合いにいないね」 クリスはセオドールを見るが、彼も首を振って知らないという素振りをする。きっと別の誰かに用事があるのだろうと思ってパンを食べようとしたとき、クリスの真横で女性が立ち止まる。驚いたクリスが顔を上げるとそこには青空のように透き通った水色の髪と瞳を持った女性が立っていた。遠目に見ていた時は気にも留めていなかったが、その女性は非常に美しく、二人を見据えたその双眸に吸い込まれそうな錯覚に陥る。そう、何か他の人間とは違って見えるのだ。言うなればそれは神性に近い何かだ。恐らくこのときクリスは口を半開きにしたままだっただろう。向かいのセオドールも手に持ったサンドイッチからトマトが落ちるのを気にも留めていない。そんな滑稽な様子の二人を見て、女性はクスっと笑い彼らに問いかける。 「初めまして。私はグロリアスの治安維持機構レーヴァテイン所属、アドリア地方担当のグレースです。セオドール・オルコットさんとクリス・レイフィールドさんで間違いありませんか?」 彼女の口から風鈴のように雅な音が奏でられる。二人はそれが言語だと理解するまでに一瞬の間を要した。グロリアスの人間が一体何の用だろう。 「ええそうです。一体どんなご用件で?」 「昨日の事件に関してお話を聞きたいのです。ご同行願えますか?」 二人は顔を見合わせる。断る理由はない。むしろ今後このようなことが起こらないように情報を役立てて欲しいとすら思う。ただ―― 「もちろん構いません。ただ少しだけ出発までに時間をくれませんか?」 「構いませんが、理由をお聞きしても?」 二人は再びあの場所に来ていた。フゥラが死んだと思われる場所だ。昨日は既に陽も傾いていたため断念したが、今日は彼女の遺品を集めにきた。一時間ほど探したが、見つかったのは彼女の髪の毛と指輪、靴そして折れたナイフだけだった。遺品を探す間、二人は終始無言だった。だが集め終わった時、クリスが口を開く。 「昨日のシルポートの夜景は綺麗だった」 セオドールは何も言わずこちらを見る。 「でも何故かその景色を見ていたらとてもイライラしたんだ。なんでだと思う?」 「さあな。お前はどうしてだと思うんだ?」 セオドールは少しぶっきらぼうに返す。自分ではよく分からなかったとしか言えない。しかしそれ故に気になるのだ。 「分からない。一体何に怒っていたのか分からないんだ」 クリスは自分の胸中を正直に話す。 「フゥラがいなくなって悲しかった。もっと優しくしてやればよかったと思った。でもどうして怒りが沸くんだろうか」 「なんだよ答え出てんじゃねーか…」 セオドールは頭を掻く。彼は軽くため息をついて続ける。 「自分が許せないんだろ。何でなのかは分からないけどな」 「自分が許せない、か…」 そう言われると自分には至らない点が多かったように思える。だから後悔することも多い。もう一度チャンスがあるのなら今度は後悔のないように接したい。 「もう一度会えたら…」 「もう一度なんてない。やめてくれ」 クリスの言葉を遮ってセオドールが言う。辛いのは彼も同じだ。きっと昨晩嫌というほど後悔したのだろう。彼は少しも顔色を変えずに言ったが、それは仮面を被ったように表情に一切の変化を許さないようにしているからだろう。不気味なほど無表情な彼は地面の血痕を撫でる。 「フゥラはもういないんだ…」 消えそうな声で彼は呟いた。彼に振り回されることもあったが、彼はクリスをずっと引っ張ってきてくれた存在だ。そんな彼の打ちひしがれる姿は見たくなかった。 「クリス、俺も自分に怒りが沸いてくるんだ。無謀だと分かっていてあいつを一人で行かせた自分にな」 「でもそれは…」 「関係ないんだ!そんなことは!」 近くの草むらにいた小動物が驚いて逃げ出していった。クリスは彼が声を荒げるのを初めて見た。初めて見る彼の一面にクリスも驚く。その様子を見て彼は謝罪する。 「あ…すまない。らしくないな」 彼は肩を落とす。クリスにはその背中がとても小さく見えた。気を紛らわせるためにふと懐中時計を見ると、針はグレースとの約束の時間を差そうとしていた。クリスは彼の姿を見て自分が何に怒っていたのか理解した。そしてそれを彼にも伝えたいと思った。 「セオドール」 「なんだ」 「俺は自分の弱さに怒っていたみたいだ。肉体的にも、精神的にも弱い自分に」 セオドールは黙ってクリスの話を聴き続ける。まるで自分もそうだと言わんばかりに頷きながら。 「さっきもう一度はないって言ったな。確かに生きて会うことはもうないかもしれない。…だとしたら、死んだ時フゥラに見られても恥ずかしくないような人間になりたい。それがあいつの死に誠実に向き合うことになるんじゃないかって思う」 「はっ…言うじゃねえか」 セオドールは小さく笑う。彼は顔を拭い、クリスの方へ向き直る。その目が僅かに赤らんでいたことは触れないでおく。 「俺もそう思うぜ。強く…ならなきゃな。今度はあいつを守れるように」 「ああ!」 「帰ったらまずは葬式だな。ちゃんとケーキ買って来いよ」 彼は遺品の入った袋を肩にかけ、街の方へ歩いて行った。 戻ってきた二人を迎えるグレースの様子がおかしいことは誰の目にも明らかだった。美しい顔は常に困り眉になっており、なんだか二人に余計な気を使っているように見えた。それを聞いたところで何も教えてはくれないため、一行はフィレンツェにあるアドリア駐屯地へ向かっていた。クリスは空を飛ぶことが出来たが、セオドールは飛ぶのがヘタクソだったため、隊員に補助してもらって飛行していた。稀に海竜が海から顔を覗かせていたが、グレースが放つ魔法で一瞬のうちに黒焦げになっていた。流石は大佐といったところか。旅路は万時問題なく、フィレンツェまでは4時間ほどで到着した。時刻はすでに15時を回っており、そろそろ小腹が空いてきたなとクリスは思うのだった。アドリア駐屯地は実戦には向かない華美な装飾の施された建物が並び、中央には噴水まであった。心なしかすれ違う隊員も刺繍の入った豪華な制服を着ており、あまり戦いに縁のない場所なのでは?とクリスは感じた。その中でも一際目立つ建物へ一行は向かっていた。近づくとそれは白い化粧泥を塗られた壁で出来ており、光を反射して光り輝いているように見えた。宮殿のような屋根にはドラゴンを象った置物が置かれ、駐屯地を見下ろしていた。正面にある大きな白いドアを開けると、中には真っ赤な絨毯が敷かれ、天井にはシャンデリアが吊られていた。フロアの真ん中には大きな螺旋階段があり、それを上って二階へ行くことが出来る。奥にも廊下が続いており、いくつもの部署がそこに入っていることが見て取れた。グレースは螺旋階段を上り、二階の一室へ二人を案内した。 「どうぞこちらへお掛け下さい」 彼女に通された部屋は執務室のようだ。机の上には山のような書類が積み重なり、それを見たグレースがたじろぐのが見えた。恐らく彼女の執務室なのだろう。この部屋は彼女の雰囲気と同じ神秘的な空間に感じられた。天井から降り注ぐ暖かな色の光が部屋の物を暖色に染め上げている。来客用のエメラルド色の二対のソファの真ん中には黒い長机が置かれている。この机は透明なガラスの中に黒い液体を入れたもののようで、液体は何かに反応して対流しており常時異なる無数の模様を作り出していた。その模様は図鑑で見た木星の大赤斑に似ている。クリス達はそのソファに腰かけると部屋を見回す。この部屋にはあまりに未知の物が多すぎた。金色の煙を断続的に上げる加湿器のようなもの、この部屋の人の位置を表すミニチュア模型、キラキラと光る水の入った水晶玉、どれも見たことも聞いたこともないものだった。一時間くらいここで待たされても文句を言うどころかもっとゆっくり見せて欲しいとまで思うだろう。それを狙ってこの部屋は作られているのかもしれない。二人が座ったのを見て、グレースは何か魔法をかけたようだ。素振りでそれが分かったが、一体何を使ったのかは分からない。警戒する気はなかったが(したところで瞬殺されるのがオチだ)何をしたのかは気になった。不思議そうに彼女を見る視線を感じたのだろう。彼女が口を開く。 「少し防音の魔法を使わせていただきました。これから話す内容は他の人達には聞かれたくないので」 なるほどと二人は頷く。納得してもらえたようなので、グレースは話を続ける。 「まずは質問からになってしまうのですが、昨日の事件についての詳細をお聞きしたいのです。お話して頂けますか?」 「ええ、それでは私が説明致します」 そういってセオドールは一部始終を話した。アランと会ったこと、群れからはぐれた個体と戦ったこと、群れと戦った少女がいたこと、そしておそらくその子は食われてしまったということ。グレースはメモを取るわけでもなく黙って話を聴き続けた。クリスにはそれがまるで品定めしているように見えた。 「事の顛末は以上です。何か疑問があればお答えします」 「ふむふむ、貴方たちにはもう一人仲間がいたのですね。その方のお名前は?」 「フゥラという子です。フゥラ・サルヴァトーレ。私の父が経営する孤児院の出です」 フゥラの名前を聴いて、グレースの口元が緩んだのが分かった。その子は死んだと言った後にこの反応をされるのは正直不快だった。セオドールは顔色一つ変えていないため、彼がどう思っているのかは分からない。 「とても勇敢な人だったのですね。フゥラさんはどんな人でしたか?」 なんでそんなことを聴くのだろうとクリスは思った。セオドールも同じことを思ったらしく、ちらりとこちらを見た。別段それにこたえることに問題があるわけでもないため、セオドールが答える。 「彼女は人のために尽くせる人でした。今回の事件も敵が強いことは明らかでした。それでも彼女は市民を守るために行動しました。それは彼女が正義の心を持った人間だったという何よりの証明だと思います」 セオドールは私情を交えればいくらでも言えることはある。それは言わずにあくまでも第三者の評価を彼は話していた。それを聴いてグレースはうんうんと頷く。そしてクリスの方を見た。君は?と言いたげだ。クリスにはセオドールのような芸当は出来ないので、思ったことをそのまま話す。 「フゥラとは弄り弄られる関係だった。いや、俺が一方的に弄られていた気もするけど…。それは置いておいて、人のために尽くせるっていうのもそうだけど、フゥラがやることはどんなことにも根底には優しさがあったと思う。最後に俺の尻を叩いてくれた時も…あえて嫌味な言い方をしたんだ。俺がそういう言い方に弱いって知っていたんだ。おかげで俺は生きている。いなくなってから初めて気づいたよ。いや、薄々感じてたから今まで付き合ってこれたのかもな」 グレースは満面の笑みで二人の言葉を聴く。なんなんだこいつは。自分に力さえあれば殴り飛ばしているところだとクリスは思った。こちらの顔色など関係なさそうに、彼女はとても上機嫌そうに見えた。 「お二人はフゥラさんに会えるとしたら会いたいですか?」 「もちろんです」 セオドールは静かに答えた。一体何がしたいのか、会いたいなんて当たり前だろう。そんな感情が思わず口をついて出てしまう。 「会いたいに決まってるだろう。なんでそんな当たり前のこと聴くんだ?何がしたい?ニヤニヤ笑ってんじゃねーぞ」 クリスの言葉で場の空気が一気に冷え込むように感じた。だがグレースは笑みを崩さずこちらを見ている。いや、よく見たらこちらを見ているわけではない。二人の後ろにいる何かを見ている。それに気づくか気づかないかのうちに急に視界が何かで塞がれる。それは柔らかくて暖かいものだった。クリスはそれが人間の手だと感じた。そしてその手は二人の頭をソファの中心に引き寄せる。そして 「二人ともありがとう。…私はそんな二人のことが大好きだよ」 と耳元で声が聴こえた。よく聞き慣れた声だ。何故だろう、その声を聴くと胸の奥からこみ上げてくるものがある。隣ではセオドールが長く息を吐く音が聞こえた。 「さて、私はお茶を淹れてきますね」 視界を塞がれているので分からないが、どうやらグレースが席を外したらしい。あの人のことを誤解していたかもしれない。後で謝ろうとクリスは思った。二人の視界を塞ぐ手はそのまま二人を抱き寄せる。 「私、もう二人に会えないかもって思った。本当に会えてよかった」 「フゥラ…なのか?」 セオドールが声の主に問いかける。声の主はそうだよ、と答えた。よかった、と力なく呟く彼の声が聴こえる。 「はぁ…全部聴いていたのか…てっきり死んだものだと…油断した」 「クリスもこんな時くらい素直になってよ。会いたいって言ってくれて嬉しかったよ?」 妙に優しい彼女の声にクリスは胸の奥がムズムズするのを感じた。こんな雰囲気にされてしまってはいつも通り振る舞えないではないか。 「ああ…。また会えて嬉しい」 「うん、私も。その…今度からはもうちょっと優しくするね」 フゥラの声は後半はちょっと上ずった声になっていた。考えることは同じだったようだ。それなら返す言葉も決まっている。 「あっ…俺もその…ちょっとは」 あと少しのところでプライドが邪魔をして、クリスの言葉はボソボソと呟く形になった。そんな彼の反応を見てフゥラがクスっと笑う声が聴こえる。セオドールは相変わらず深呼吸を続けている。どうやら感情の波が言葉を紡ぐことを妨げているようだ。フゥラが視界を塞いでいた手を退ける。しばらくぶりの光が視界に入り、眩しくてクリスは目を細める。そしてすぐに後ろを振り返る。そこには髪を下し、微笑みを浮かべたフゥラがいた。水色の検査衣を着ており、裾から除く足には包帯が巻かれているのが分かる。顔にも何か所かガーゼが貼ってあり、それが少し痛々しく思えた。彼女の目元は仄かに赤らんでいる。彼女はちらりとこちらを見て苦笑いする。そして視線をセオドールに向けた。彼は腕を目に押し付けて天を仰いでいる。 「そんなに泣かないでよ。私のために強くなってくれるんでしょ?」 「「えっ!?」」 その言葉は二人の口からほぼ同時に出た。一体いつから彼らを見ていたというのか。 「実は今日の昼頃に目が覚めたんだけど、私はすぐに二人の無事を確認したいってグレースさんにお願いしたんだ。そしたら魔法で二人の様子を見せてくれたんだけど、その時に余分なことまで聞いちゃった」 フゥラはペロっと舌を出して意地悪そうに笑う。だからここへ出発する前の様子がおかしかったのか。前言撤回、グレースは性悪女だ。クリスは彼女の評価を1ランク下げた。 「なんでこんな回りくどいことを…」 ため息にも似た呟きがセオドールの口から漏れる。その言葉に応えるように部屋のドアが開き、グレースが戻ってくる。彼女が持つお盆の上にはアツアツの紅茶が淹れられたカップが4つ。それは湯気と共に甘い果実の香りを部屋に漂わせていた。 「女の子を一人で戦いに向かわせるなんてロクな人間じゃありません。だから貴方たちを試しました。いいですか?無謀な作戦は英雄的行動でも何でもありません。ただのヤケクソというのです。一人でやるのは勝手ですが、それに他人を巻き込むなど言語道断です」 「それに関しては返す言葉もございません…」 「はい…本当に…」 彼女は当人たちも気にしていることをズバっと言い放った。その言葉の一つ一つが鋭いナイフのように彼らの心に刺さる。そんな彼らをよそに、彼女は淡々とカップを机に並べる。 「もし貴方たちが私の想像通りの人間だったらこの場で消し炭にしていました」 何故だろうか、あまりの罪の意識に自然と正しい姿勢になってしまう。痛いところを突いてきはするものの、グレースは別段怒っているわけではなさそうに見える。相変わらずニコニコと笑っているのだ。そんな二人が責められる様子にフゥラは戸惑っているようだ。そしてこの不穏当な発言を聴き、二人を庇うようにフゥラが口を開く。 「あ、あの!二人は弱いから…私がみんなを守りたいって思ったんです!あれは私が望んだことで…」 「や…やめてくれ」 彼女の言葉を思わずセオドールが止める。「二人は弱い」とフゥラにハッキリ言われたことが更に心の傷口を広げているのだ。彼女としては精一杯のフォローのつもりなのだろうが、その言葉の全てが事実であることが最も心に響く。クリスは先ほどとは別の感情で涙が出そうだった。 「大丈夫ですよ。状況が状況でしたから、あれが適切な判断だったと思います。事件の仔細を聴いて、やむを得ない選択だったと私も理解しています。それに…貴方たちが現場でうなだれている様子は見てしまいましたからね」 恐らく知覚投影の魔法でも使ったのだろう。この魔法は自分の見ている世界を別の誰かにも見せる魔法だ。そうだとすればグレースがあの光景を見ていることにも納得がいく。 「ただし!」 今までの穏やかの雰囲気とは打って変わって強い口調でグレースがぴしゃりと言う。 「貴方たちが弱いことは事実です。彼女を守るなんて夢のまた夢でしょう。そこで貴方たちに提案があります。この提案はお互いにメリットのあるもののはずです」 そう言って彼女は書類の山から一つのファイルを取り出し、3人の前に提示する。クリスは何だか彼女に上手く話を運ばれてしまった気分になる。 「ああは言いましたが、貴方たちは市民を守るために命を賭けて戦った勇敢な人間です。それは簡単なことではありませんし、称賛に値します。ですから私たちは貴方たちを高く評価しています。例え弱かったとしても!」 途中まで褒められているように感じたが、どうもこの人の言葉には棘が混じる。ここまで弱いと言われてしまうと明日から胸を張って歩けそうにない、とクリスは思うのだった。 「実はお恥ずかしい話なのですが、私達は貴方たちが戦った人語を解する獣との戦闘経験が非常に浅く、他地方では甚大な被害を被っています。あれは突然私達の前に現れました。どこに棲息しているのか、どれくらいの数がいるのか、何も分かっていません」 ここまで話した時、既に彼女の顔から笑みは消えていた。代わりに彼女の顔に浮かぶのは強い意思の眼差し。先ほどまでのふわふわとした雰囲気は完全に失せ、上に立つものとしての威厳に溢れていた。更に彼女は続ける。 「私達には貴方たちのようなあの獣との戦闘経験のある人材が必要です。どうか私達と共に戦ってほしい」 彼女はそう言ってファイルの中から契約書を取り出し、それぞれの前に置く。そこには治安維持機構の一員となって人に害を為すモノと戦うことを誓う、といった旨の内容が書かれていた。それはこの場でサインするには重すぎる内容だった。フゥラはセオドールの顔を見る。彼女はセオドールの使用人として雇われている身だ。勝手に別の労働契約を結ぶことは許されないだろう。セオドールもそれを察したようで 「お前は今日で解雇だ」 と彼女の頭を撫でながら言った。それを聞いてフゥラは「ありがとう」と微笑む。彼女は二人の真ん中に座り、そしてペンを取って契約書に自分の名前を書き加えた。彼女は思いっきりが良いというかなんというか…その決断力の強さには脱帽せざるを得ない。 「フゥラ…お前…」 「いいの。私は死にかけた時、もうみんなに会えないのはとても悲しいことだと思った。それは二人も同じだったよね。私は、私の力でそんな気持ちを味わう人が一人でも減るのなら、協力したいと思う」 フゥラはこの世の地獄を一度味わったはずだ。もう一度それを味わうことになるのかもしれないのに、あまりに軽率だとクリスは思った。グレースもフゥラの言葉を聞いて一切笑うことはなかった。ただ何も言わず、その澄んだ瞳で彼女を見つめているだけだ。 「お前のこと、今度こそ守るって言ったの聞かれちまったしな。お前ならきっとサインすると思ったよ」 ふっと鼻をならしてセオドールがペンを走らす。その軌跡が彼の名前を形づくる。クリスは迷っていた。二人についていきたい、置いて行かれたくないという気持ちが彼の心を徐々に支配していくのが自分でも分かった。だがその反面、もうあんな光景を見るのは嫌だという気持ちがサインする手を止めようとする。そんな気持ちを握り潰して、動け、動け俺の腕、と彼は自分に念じてペンを取った。だがその手をグレースが掴んで止める。 「そんな気持ちで自分の道を決めてはダメよ、クリス君。自分がどうしたいのかよく考えてからにしなさい。これにサインしたら貴方はもう今までの日常には戻れないのよ」 水色の瞳が心配そうにクリスを覗き込む。その瞳はまるで彼の何もかもを見透かしているようだった。実際にクリスは勢いにまかせてサインしようとしていたのだから、彼女はまさに彼の心を見透かしていたわけなのだが。 「俺は…」 自分は一体どうしたいのか、自分でもサッパリ分からなかった。隣に座る二人をちらりと横目で見るが、二人とも瞑目したままで何も語ろうとはしない。フゥラも背中を押してくれる気はないようだ。もしかすると先ほどの「他人を巻き込むな」という言葉はフゥラにも向けられていたのかもしれない。グレースはそっと手を放したが、その眼は心配そうにこちらをずっと見ていた。クリスが悶々とした気持ちで考え続けていると、何者かがドアをノックした。グレースが「どうぞ」と答えると、ドアを開けて制服を着た中年の男性が入ってくる。 「失礼します。ローゼンスタインです。ただいま帰還しました。っと来客中でしたか。これは失礼」 中年男性は踵を返して退室しようとするが、それをグレースが引き留める。 「ご苦労様でしたレオナルド。例のスカウトの件ですよ」 「おお、して結果は…」 そういうと彼はこちらへ近づいてきてまだサインのされていない契約書を見る。そして 「ははは!振られてしまいましたか!」 と笑った。彼としてはサインしない方が普通なのだろう。だがクリスはサインしたくないわけではない。自分がどうすべきか分からないのだ。 「まだ断ったわけじゃない。ただ…」 「ただ?」 言葉に詰まるクリスをレオナルドと呼ばれた男性が見つめる。ここで、いっそのこと聞いてしまっても良いのではないか、とクリスは考えた。 「ただ、自分がどうしたいのかサッパリ分からない。俺は弱いからサインしたところで何が出来るわけでもない。でも二人とは離れたくない。でももうあんな目には遭いたくない。あんな光景ももう見たくない。でも誰かが同じような目に遭うのも嫌だ。考えれば考えるほど、たくさんの“でも”が出てきて、自分が何をしたいのか分からなくなるんだ…」 ふむ、と彼はクリスの言葉を聴き続けた。そしてグレースをちらりと見る。彼女はわずかに頷いた。彼女のその目元が僅かに笑っていたのをクリスは見逃さなかった。 「申し遅れました、私はアドリア駐屯地参謀長、レオナルド・ローゼンスタインです。私は格闘戦も魔法戦もからっきしの…まぁ…君の言うところの弱い人間だ。今は参謀長という立場に付かせてもらっているが、君たちと同じ年の頃は前線に駆り出される一兵卒だった」 彼は少し懐かし気に話し始めた。 「私は当時何をしてもダメな落ちこぼれだった。無能扱いする同僚も少なくなかった。でも私にいつもこう言ってくれる友がいた。その友は決まって私にいつも言うんだ。“戦場で最も大切なのは力でも技術でもなく勇気だ”と。私は誰かを守りたいという気持ちだけは誰にも負けないという気持ちで入隊した。その気持ちを認めてくれた友がいたんだ。そしてその友の言葉はお世辞でもなんでもなく真実だった。ある日私の所属していた部隊は死地の探索中に未知のドラゴン種に襲われた。部隊は潰走したが、その最中に友がドラゴンに捕まってしまった。私の力ではどうにもならない敵だったが、友の言葉を思い出して勇気を振り絞って立ち向かった。いろいろな策を考えたが、どれも危険なものばかりで確実なものは一つもなかった。その中から最も成功率の高いものを選んだが、結局それを実行出来たのは勇気があったからだ。」 彼は一呼吸の間を置いてクリスを見る。 「もし君が今、誰かを守りたいと思っていて、それが十分に強い気持ちならば、能力の高い低いは些末な問題だと私は考えるよ。何せ土壇場で人を動かすのは強い意思だからね。能力があったって意思がなければ人は動けないよ。そして戦場じゃ動けないやつは死ぬ」 そこまで話すとレオナルドは「おっとつい長話をしてしまった!これは失敬!」といいそそくさと部屋を後にした。クリスはまだ聞きたいことがあったため、彼が去ってしまうのは残念だった。彼は「十分に強い気持ち」と言ったが、果たして自分にそれがあるのだろうか。グレースが言ったように、仲間を一人で死地へ向かわせるなんてロクな人間じゃない。そんな選択をした人間に「誰かを守りたい」なんて言う資格があるのだろうか。 「貴方はどうしてエースと呼ばれる人間が戦場で生き残れるのか分かりますか?」 レオナルドの言葉を聞いてもまだ心の整理が付かない彼を見て、唐突にグレースが問いかける。エースといえばパイロットや戦車乗りのことだろう。今日の地球では人間同士の戦争がないため資料でしか読んだことがないが、エースとは部隊を先導する英雄的な人物のことだ。魔獣への対応でもそういった人物がいて当然だ。彼らが何故生き残れるかなど、彼らに会ったことがないのだから分からない。ただ一つ彼らに共通する点があるとすれば、それは強いことだろう。 「強いからじゃないか?エースは例外なく道具をうまく使えたり、戦いが上手く出来たりすると思う」 「ええ、彼らは強い。でもその推論には間違いがあります。強いからエースになれるのではありません」 それでは一体何なのだろうか。まさか「誰かを守りたいと強く思うこと」なんていう根性論でエースが出来上がるというのだろうか。 「元々才能を持って生まれた人もいるかもしれません。しかしほとんどの人は生まれつきの才能など持っていません。ほとんどのエースと呼ばれる人たちは後天的に強くなったのです」 ここで彼女はカップを取り、紅茶を一口啜る。 「彼らを強くしたのは意思の力です。何かを為さなければならないという強い思いが彼らを強くするのです。そしてそれは人の行動を駆動させる原動力でもあります。いくら強くても、動かなければならない場面で動けなければその力は存在しないも同然です。だから強い意思を持つ者はエースと呼ばれる存在になれるのです」 彼女はカップを置いた。セオドールとフゥラの二人は瞑目したまま話を聴き続ける。 「私達と共に進むと選択してくれるのは嬉しいことですが、強い意思の力がない者は初陣を越えることが出来ません。私はわざわざ貴方を死なせるために誘ったのではないのです」 グレースは凛とした瞳でクリスを見つめる。自分を守り支持してくれる肉壁は多ければ多いほど良いだろうに。彼女はそれを望んでいないというのだ。これも彼女の言う「強い意思」が為せることなのだろう。なにせクリスなら利用出来るものは全て利用するからだ。そう考える自分に気が付くと、自分には何事にも阻むことの出来ぬ強い意思などないのではないかと思えてしまい、悲観的な感情が氷水のようにクリスの胸を満たしていく。 「俺にはそんな意思はない…」 「そんなことはありませんよ。それを自覚していないだけです。だからここでその意思を自覚させたいのです」 ぶっきらぼうに言い放つクリスに対して、再びグレースは笑顔を見せる。先ほどまで自分を否定されていたはずなのに、急に肯定されるとわけが分からなくなってしまう。それに自分の意思なのに自分で自覚していないというのか。だとしたら一体どんな意思を自分が持っているのだろう。 「…出来なかったら?」 クリスは気になっていたことを恐る恐る聞いた。答えは分かり切っていることではあるのだが。 「元の場所へお返しします。自分が何を為すべきなのか、理解した時にまた来てもらえればそれで構わないからです。機密保持のために国民を閉じ込めたり殺したりすることはありません」 ま、実際この部屋とかも機密の塊なので、あまり喋られるのは困りますけどね、と彼女は小さく続けた。彼女がどんな人間かまだ確信を持っているわけではないが、確かに彼女ならそういったことはしないだろうな、とクリスは思った。彼の隣では部屋の雰囲気にすっかり慣れたのか、フゥラがガブガブと紅茶を飲み始めた。横目でそれを見ていると彼女と目が合った。 「まあ悩んでても答えなんか出ないし、紅茶飲んでリラックスしてみたら?」 「おう、これ美味いぞ」 セオドールも非常に短い紅茶の感想を述べる。仮にもお屋敷の人間なのだからもう少し気の利いた感想はないのだろうか。フゥラはリラックスしてみれば、と言ったが、確かに今自分に必要なのはそれかもしれない。クリスはまだ湯気の立つカップを口に近づける。紅茶を口に含むと、口内に甘いマンゴーのような香りが広がる。その様子をグレースはただニコニコと見ているのだが、何かを思いついたように急に眼を見開く。 「そうだ。もしよかったら考えがまとまるまでここに滞在しませんか?訓練には参加出来ませんけど。私の部屋の清掃係として、どうです?」 グレースはなんて名案なんだろう!と目をキラキラさせて言った。確かに考えをまとめるにはいい機会かもしれない。だがクリスには村での仕事がある。 「あっ!私は一度村に戻りたいのですが…」 セオドールが思い出したように立ち上がる。当然彼にも村での仕事があったはずだ。それにしてはやけに焦っているように見えるが。 「もちろんです。本入隊は一週間後とします。それまでに今までの生活にピリオドを打つように」 「はい!」 彼は頭をかいてぶつぶつと何か呟いている。クリスのところまでは何を言っているのか聴こえないが。 「えっ、大丈夫?何かあったの?」 「いや!何でもないんだ!気にしないでくれ!」 心配そうにフゥラが尋ねるが、セオドールは上ずった声で答える。彼は何か隠している。何故かグレースも頭を抱えているように見える。 「それじゃ、お二人はもう村にお帰りなさい。お二人のために特別特急を用意しましたよ」 クリス君はもう少しここにいなさい、とこちらを見て彼女は続ける。特別特急とは一体何のことなのだろうか。何か豪華な特急券でも用意しているのかとクリスは思った。しかしその予想を裏切る声がグレースのすぐ近くから聴こえる。 「は~い。愛するカップルを送り届ける特別特急ですよ~。定員は二名!」 そこにはグレースと同じくらいの歳の女性が立っていた。部屋に入る音も魔法陣が光って転移する様子もなかった。一体いつからそこにいたのだろう。長い鮮緑色の髪に豊満な身体付きをしたその女性はグレースと同じ制服を着ている。グレースは神秘的な雰囲気の女性だが、こちらの女性はほんわかとした雰囲気を纏っている。セオドール達を手招く姿はまるで母親のようだ。 「彼女はローラ。私の同期です。さ、二人は彼女の手を取って」 グレースは立ち上がって手短に彼女を紹介する。そして二人は言われた通りに彼女の手を取る。その際にグレースが小声で「二人に変なことしないでね」とローラに言うのが聴こえた。それを言った直後にローラは二人の手を引き抱き寄せる。そしてそのまま、 「それじゃ!そこの貴方も帰りたかったらいつでも私に言って頂戴」 と言って彼女達の姿は跡形もなく消え去る。まるで最初からそこには何もいなかったかのように綺麗に消えてなくなった。瞬時にどこかへ転移するような魔法があるなんておとぎ話の中だけだと思っていたが、今それを現実に見てしまったように思えた。あれは一体なんという魔法なのだろうか。あっけに取られているクリスを見て、グレースが口を開く。 「珍しいでしょう?テレポートなんて、私もローラ以外に使える人を見たことはありません」 彼女は書類が山ほど詰まれた作業机に腰かける。そしてそのままこちらを見下ろして彼女は言う。 「それで貴方はどうする?もう少し考えるか、このまま帰るか」 彼女の問いに対して一瞬の間が空いた。仕事があるから帰りたいというのが本音だが、これは自分の人生を変えるターニングポイントの一つなのだと思う。そう考えるとこの機会を逃すことは賢い選択ではないようにクリスは思った。 「もう少し考えるべきだと思う」 クリスの出した答えにグレースは満足そうだった。結局結論は出ていないが、それを出そうと取り組む意思を見せたことに対する満足だろう。 「うんうん。考えることはいいことよぉ~」 グレースの代わりに答える声がする。いつの間にか先ほどいた場所にローラが立っていた。腕組みをしながらうんうんと頷いている。あまりの帰りの早さにグレースは怪訝そうに尋ねる。 「早すぎじゃない…?ちゃんと期日になったら迎えに行くって言った…?」 「え?そうなの?そんなの後で電報打っておけばいいじゃない。この子も村に連絡いれたいでしょうしね」 クリスの意思を察してくれたのか、ローラは最後に付け足してくれる。一体この人はしっかりしているのかしていないのか。グレースは着いた瞬間に放り出される二人を想像したのだろう、困ったように額を抑える。 「そ・れ・よ・りー」 ローラがグレースに視線を流す。彼女の視線を浴びて、グレースは「うげっ!」と小さく声を上げる。心なしかローラの眼光は獲物を狙う肉食獣のそれのように見えた。そして彼女はグレースの真ん前にテレポートする。その弾みで二人の胸が軽くぶつかる。そして目にも止まらぬ速さで彼女の腰と背中へ手を回し、がっちりと拘束した。同時に彼女の腕の自由も完全に塞いだため、グレースは抵抗することが出来ない。 「私を小間使いなんかに使うんだから、当然お礼は期待していいわよねぇ?」 「えっ!?ま…まぁそう…ね。でも時と場所をわきまえて欲しいというかなんというか…!」 部屋の空気が一気に淫靡なものへと変貌した。一体ここでこれから何が始まるというのだろうか。まさか二人とも同性愛者なのだろうか。ローラはグレースの頬に鼻を寄せ、舐めるように彼女の香りを堪能する。 「あの…俺は席を外した方がいいですか…?」 「あっ!待って待って!行かないで!」 何かを察し、部屋を出ようとするクリスをグレースが止める。彼がいればローラも変なことはしないだろうとでも思っているのだろうか。それとも行為を見せつけたいのだろうか。とにかく部屋に残ってほしいと彼女は涙目で訴えてきた。 「ほらクリス君も見ているから…」 「私は見られていても何も問題ないのよぉ?」 そう言いながらローラは彼女の耳を齧る。驚いたのか、ひゃっ!とグレースが小さな悲鳴をあげる。傍から見ていると、彼女の反応はまるで全身の毛が逆立つようにブルっと震えたように見えた。クリス達に接する時の彼女はまさに英知に富んだ淑女と称するべきだが、今の彼女は肉食獣に捉えられた小動物と呼ぶのがふさわしい。 「クリス君!貴方もオバサン同士の絡みなんか見たくないでしょ!?早く助けなさい!!」 グレースが焦ったように叫ぶ。彼女は自分のことをオバサンと言うが、そんなことはないとクリスは思った。そうこうしているうちにもローラは彼女を好き放題に弄りまわしている。クリスはその様子を見て、ああ、これは愛犬を溺愛する飼い主と猛烈な勢いで嫌がる犬の構図だと理解した。村にもそんな人獣ペアがいた気がする。それに気づくと二人が目の前で絡んでいることはどうでもよくなり、もう放っておいてもよいのではないかと思えた。 「あ、別に俺お二人のことはオバサンとは思ってないので安心してください」 「ちょ…ちょっと!見捨てないで!貴方の心は私を助けたいと叫んでいるわー!!」 グレースの悲痛な叫びが駐屯地へ響き渡った。
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