戦いの始まり

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戦いの始まり

雑用兼清掃係の朝は早い。朝一番に彼を待ち受けるのは、就寝中のグレースを起こしに行くことだ。 寝ている女性の部屋に入り込むなど常識外れもいいところだが、両者に圧倒的な力量の差が――特に女性が圧倒的強者の場合は別だ。変な気を起こしたら殺す、と既にクリスは釘を刺されているのだが、そんなことを言うくらいなら、それを仕事に組み込まないでほしいと彼は思う。 今日も彼は彼女を起こしに、彼女の着替えを片手に、執務室の奥にある彼女の寝室へと向かう。誰もいない執務室の空気はひんやりとしていた。ここに来て既に二週間が過ぎたが、この瞬間だけは思わず神に祈りを捧げてしまう。 「今日は大丈夫……今日はちゃんと服を着て寝ている……絶対に今日は大丈夫……」 ブツブツと祈りを捧げながら、震える手でドアをノックする。当然のように反応は返ってこない。 時刻は午前5時。まだ空は薄暗く、まるで彼の心境と連動しているように思えた。ドアを開けたくない。それが彼の正直な心境だ。 グレースは美人だ。そんな彼女の寝顔を拝めると聞いたら、駐屯地の男性は彼を羨むだろう。クリスだって逆の立場なら羨ましいと思うだろう。が、それも彼女が気分次第で彼をこの世から消し去れる存在でなければの話だ。 もし彼女の機嫌を損ねれば、彼の命は蝋燭の火を消すように容易く奪われてしまうだろう。ラッキースケベなどもってのほかだ。認識された瞬間に身体の末端から徐々に炭に変えられてしまうだろう。 だがそのラッキースケベを容易に量産してしまう原因があった。それは彼女が気分次第で寝間着を着ないことにある。寝間着ではなく作業着でそのまま寝てしまう、というのは許容範囲だ。しかしそれはそういう意味ではない。彼女は気分次第で下着姿で寝ていたり、そもそも何も身につけていなかったりするのだ。 更に悪質なことに、彼女の寝相が古代人の遺した壁画レベルで悪く、頻繁にベッドから転げ落ちている場面に遭遇するのだ。ここで問題となるのは、衣服を着用していなく、かつ寝相が悪かった場合である。つまり全裸のグレースが地べたに転がっているパターンだ。クリスは、この状態の彼女を起こすことなく布団の中へ戻し、最初から見ていない体で彼女を起こす必要があった。世の男性は羨むかもしれないが、当の本人にとってはそれどころではない。 そう、ドアを開けた瞬間にスケベが発生し、更に運悪くそれを彼女に認識されてしまった場合、即座に彼の運命は定められてしまう。 これまではグレースが熟睡していたおかげで難を逃れていたが、今日もそうである保証はない。故に頭の中は、どうか全裸の彼女が床に転がっていませんようにと祈ることで一杯だった。 意を決して彼はドアを開ける。もちろん彼女を起こさないように、そっとだ。静かに開いたドアの隙間からラベンダーの香りが漂ってくる。そしてちらりと中を見て、それが地面に転がっていないことを確認すると、彼はほっと胸をなで下ろす。 だが安心するのはまだ早かった。彼が寝室へ入った瞬間、彼女が寝返りを打ったのだ。そのせいで布団から彼女の白い肩が露わになる。どうやら今日も衣類は身に着けていないらしい。 放っておくと更に動き、終いには布団をどこかへ蹴り飛ばすため、クリスは迅速に彼女の起床を促す。 「グレース、起きてくれ。朝だ」 クリスは彼女の肩をゆする。彼女の肩は自分のよりも一回り小さい。女性としては平均的な成長具合だが、男性と比べると華奢と言えるだろう。 「ん……。朝?」 彼女はうっすらと目を開ける。朝日が差し込み、彼女の目が透き通るような水色に輝く。そして周囲を確認するように目を回した。彼女はパッチリと目を開けると、乱れていた髪を直し、上半身を起こして大きく伸びをする。伸びをすると彼女の身体からポキポキと音が鳴った。しかしそのせいで布団がめくれ上がりそうになる。クリスは慌てて布団がめくれないように支える。 「あら、ありがとう。気が利くのね」 「気を利かせなくて済むように、服を着て寝てくれるとありがたいんだが」 「だって毛布が肌を撫でる感触が堪らないんだもの」 彼女は毛布に包まりながらふふっと笑う。毛布の肌触りが気持ちいいということには同意出来るが、それは男性の前であられもない姿を晒すことと天秤に掛けられることなのだろうか。もしや男と見做されていないのかもしれない。それに気が付き、軽くショックを受ける彼をよそに、彼女は毛布の中で芋虫のように蠢いている。 「はぁ……そうだな。とりあえず服を着替えて――いや、着てくれ。持ってきたから」 そう言って彼は持ってきていた彼女の着替えを差し出す。本来なら制服を渡すところだが、彼女は執務室では制服を着ない。外に出る時だけ着るようにしているのだ。その理由は定かではないが、ここで最も階級が高いのは彼女であるため、それに関して誰も口出しすることはない。 「え~、今日も地味な支給品のパンツじゃない。ちゃんと私物のあるって言ったでしょう?地味なパンツ履いたまま死ぬかもしれない人の気持ち考えて?」 「あんなきわどいパンツ持って歩くハメになる俺のことも考えてくれよ。他の兵士からお前専属の下着ソムリエって呼ばれてるんだぞ」 「いいじゃない。死ぬわけでもないんだし。他の服で隠せば問題ないでしょう?」 「俺の気持ちは考える気もないんだな」 服で隠せばいいというグレースの言い分はもっともなのだが、いかんせん彼女の下着は派手すぎた。洗濯場は男女共用なのだが、干す場所は男女別だ。男性は宿舎の南側にスペースが設けられているが、女性は宿舎の屋上だ。彼は屋上で彼女の衣類を干すということをしなければならない。当然だがそこにいる女性兵士からの視線は冷たいものだ。 初めてそこに入った時は色黒の気の強い女性に掴みかかられた。その女性はミケーラという名前だったのだが、これがまた良く口の回る人で、彼の噂は瞬く間に駐屯地内に広がってしまった。 彼は最初はグレースの情夫のように思われていたが、いつの間にかグレースの下着を選んで着せている超絶変態野郎という噂にすり替わっていた。一部の人間は事情を知っているが、そうではない大多数にとってはその噂が真実なのである。故に派手な下着を干しているところを見られたくないのだ。 「いや、お前だって男に自分の下着触られるとか嫌だろ?」 「え?別に?」 何でそんなことを気にするの?とでも言いたげに彼女は目を丸くする。出会った時から薄々感じていたが、どうも彼女は一般的な女性とは認識がかけ離れているように思う。彼の前ではガニ股で座るフゥラですら、自分たちのものと一緒に下着をまとめて洗われると怒っていた。あの時は二日くらい一切口を利いてくれなかった。グレースにはそう言った類の恥じらいは感じられない。 そのような決定的な認識の齟齬は、説得することが非常に難しいということを示している。クリスは彼女の説得を諦める。 「それじゃ、八時からお偉いさん方と定例会議だから、それまでにこの資料を読んでおいてくれよ。机の上に置いておくから」 そう言って彼はグレースの寝室を後にする。背後で「はーい」、と彼女は生返事をするのが聴こえた。 時刻は午前八時、グレースは定例会議へ赴く。赴くと言っても、通信機を使った会議のため、会議室へ向かうだけである。広い会議室に一人、ちょこんと彼女は座っていた。定刻になると、会議室のモニターに他の地方を担当する上級士官やグロリアスの統括部長など、様々な役職が顔を揃える。 その中で一人だけ大きく表示されているのは、今日の司会進行を務めるベルマン元帥だ。ゲルマニア地方及びその周辺地方9つからなる領域を統括する人物だ。今年で五十三歳になる。冷酷な人間と言われ、その鋭い眼光で睨まれるとグレースも少し緊張してしまう。 今日の議題は、先日アルプスからアドリアに渡って確認された、人語を解する魔獣についてだ。基本的にはアルプス地方の担当士官と、アドリア地方の担当士官であるグレースの報告を聴くだけの場である。 定例会議では、話すべき内容は既に書面で通達済みであり、合意すべき内容も既に根回し済みであることを前提に話が進められるため、合意の最終確認が主目的となる。今日もそれだけ消化試合のはずだった。 「――アルプス駐屯地からの報告は以上です」 「それでは、次の報告へ参りましょう。アドリア地方より件の魔獣討伐について。グレース大佐」 ベルマンの口から彼女の名前が呼ばれる。彼女は短く返事をし、立ち上がる。 「アルプス地方より侵入した魔獣の数は計18体。先日の戦闘以降捜索を続けさせておりますが、その存在は確認されておらず、全て討伐された可能性が考えられます。民間人による戦闘が2件発生したことはご承知の通りですが、この際に高出力の魔法が行使されたため、死体ごと消滅してしまった可能性があり、残存個体数が不明確化してしまいました。この民間人は既に我々の保護下にあり、一人を除いて軍属として編入しております。今回のような民間人による魔獣討伐のケースについてですが、彼らは我々軍属と比較しても非常に戦闘能力に優れており、イレギュラーなケースとして捉えるべきだと結論付けました。特に、第四階級までの魔法を扱うことの可能な人物の活躍によって複数の魔獣が討伐されており、これは通常のケースとは考えられません。現実問題として、我々の戦力の一部は件の魔獣によって撃滅されており、戦闘に不慣れな民間人の犠牲が増大する危険があります。従って、このケースのような事態にならないよう、襲撃に備えた都市計画の必要性、及び新たな戦闘計画の策定、高度な魔法を扱える人材の確保が急務だと考えます。アドリア駐屯地からの報告は以上です」 報告を終えると彼女は席に着く。それを見届けるとベルマンが再び口を開く。 「今グレース大佐から提案された3点のうち、都市計画と人材確保に関しては我々の管轄ではないため、都市計画省と魔法省に協力を打診してあります。人材確保に関しては皆さんもご存じの通り、徴兵令として施行されました。しかし戦闘計画の策定に関しては我々の管轄であります。早急に新規戦闘要綱をまとめ上げる必要があります。そこでリュー・シャンラン(劉 香蘭)女史を中心としたチームを結成します。女史、自己紹介を」 ベルマンが席をはずし、代わりにリュー・シャンランと呼ばれた女性が現れる。グレースはこの女性のことをよく知らなかった。彼女は軍の制服ではなく、普通のビジネススーツを着ており、黒緑の髪にはほんの少しショッキングピンクのメッシュを入れていた。彼女が頭の角度を変える度、メッシュがキラキラと光る。グレースはその美しい髪を羨ましく思う。映像から匂いが伝わることはありえないが、彼女からは甘い花の香りがしそうだと感じた。 「初めまして、私はリュー・シャンランと申します。中華地方のフーナンというところにある大学で、古戦術学の教授をしております。古戦術学は、古いの古に戦術をくっつけて、古戦術と呼んでいます」 グレースは古戦術学という分野を初めて耳にした。文字通り考えるなら、旧人類文明が駆使した戦術を研究する学問なのかもしれない、と彼女は考える。 「古戦術学は文字通り古い戦術について研究する学問です。今日において、戦いにおける戦術の重要性は皆無と言っても過言ではありません。重要なものであったら、今頃この会議は開かれていませんからね!」 彼女のちょっとしたジョークに一同は笑う。グレースも少し笑ってしまった。しかし同時に、単なる自虐ネタではなさそうだとも感じた。 「そのため今日において、戦術は戦争ではないところで応用を続けられています。特に組織運用等の平和的利用がいい例なのですが、今日は割愛させていただきます。貴方たち軍人ですら、戦術は基礎中の基礎しか教えられていないと思います。それほどまでに戦闘における戦術の必要性はありませんでした。しかし、先日の事件によって魔獣が相互に連携した動きを見せるようになりました。これに対抗して、私達人類も効率よく集団戦闘を行う必要性に駆られていると思います。そこで私達に白羽の矢が立ったわけですが、私達は貴方たち軍隊の実情を知りません。それ故に実情を知る人物を提供して頂きたいと考えています。私は私達と貴方達の双方から人材を拠出することで、より実現性の高い戦術を生み出せるのではないかと思います」 ここまでの内容は事前に通告されていなかったため、グレースは少し驚いていた。軍隊側からも人材を拠出した方が、実現性が高い戦術が生まれる、ということには同意だが、そんなことが得意な人材がいただろうか、と彼女は頭をひねる。 「リュー・シャンラン女史、ありがとうございました。今回は公募という形を取らせて頂きますが、皆様におかれましては、積極的な参加を呼び掛けて頂けると幸いです。それでは本日報告については以上になります。以後は内容についての質疑応答の時間とします」 そうベルマンが締めくくると、やはり何人かの士官の手が挙がる。順番にベルマンが指名していく。 「ペルシャ地方を統括しているナーセル・ジブリール・イブラヒムです。リュー・シャンラン女史のチームは参謀級の人材を求めているのでしょうか。もしそうでないのなら、どのような人材を求めているのか具体的に教えていただけませんか?」 「参謀の方に来ていただけるのなら、それは非常に喜ばしいことです。しかし欲を言うならば、参謀級の人材と前線指揮官級の人材の両方が集まってくれることが望ましいと考えています。これは日ごろから大域的な戦場を見ている人材と、局地的な戦場を見ている人材が必要だからです」 この後も何度か戦術に関する質問が飛び交うが、グレースの頭にはあまり入ってこなかった。誰が適任か考えていたのだ。非常に惜しい人材だが、ローゼンスタインはこのプロジェクトに参加してもらうことになるだろう。あとは前線指揮官だが、候補に上がりそうな人物が多すぎて絞り切れない。 あれこれ考えているうちに定例会議は終了する。この会議は反対意見がなければ基本的に全て承認されたことになる。従ってリュー・シャンランの提案も承認されたということだ。それ自体に問題はないのだが、人選は苦労しそうだと彼女は思うのだった。
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