六枚札

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 あたしはぽつーんと一人でベンチに座った。すると、美幸が音もなくあたしの横に座ってくる。 「長いトイレだったね」 美幸はそれに返事をせずにあたしの両頬をぐいーっと引っ張る。その手は氷のように極めて冷たい。 「ぼ・く・ね・ん・じ・ん」 あたしの何が朴念仁なのだろうか。それに、朴念仁は女性に対して使う言葉ではない。 「いき(ひ)にゃ(な)りなひ(なに)すんのよ」 「何でOKしなかったのよ! この鈍感!」 とりあえずほっぺ痛いから手放してくれないかな? あたしは美幸の手首を掴んで頬を掴む手を外す。あれ? もしかしてさっきまでのやり取り見られてた?  「鈍感って…… あたしあいつのことなんて何とも思ってないし」 あたしがそう言うと、美幸はスッと立ち上がり厳しく冷たい口調で言い放った。 「恋すてふ 我名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ おもいそめしか」 「え? これ最後にあいつの元に残った歌?」 「美子の心にも残ってる」 「どういうこと?」 「知ってるけど、教えない」 「意地悪ね」 「羽冠くんも可哀想…… 『難波江の 蘆のかりねの 一夜ゆゑ 身をつくしてや 恋わたるべき』相手が悪かった」 そう言って美幸は夕暮れの闇へと消えていった。たった一回の出会いでその人を想い続ける恋の歌なんて言って何のつもりだろうか。あたしは疑問に思いつつも帰宅の途に就くのであった。
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