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きっかけ
「いったん休憩はいりまーす」
その声を合図に撮影が止まった。がやがやとスタッフが四方に散っていく。
「今行けるかな? 若ちゃんに声かけられるかな」
そわそわし出す雄太の袖をぐっと引いて止める。
「馬鹿、駄目に決まってんじゃん。終わってからにしろよ」
「終わったらすぐ帰っちゃうって。ほら、なんか行けそうじゃん。俺行く!」
「やめろって!」
「離せっ、若ちゃん行っちゃうだろぉ」
そうして騒いでいた声が大きかったのか、若松愛花を取り巻いていた背広の偉そうな男たちがこちらを見た。やば、怒られるかなと身構えたとき、その中のひとりと目が合った。
あれ? あいつ、なんか知っている……?
そんな気がしたが、まさかあんな高そうなスーツに知り合いはいないはずだ。しかしその男は軽く周りに頭を下げると、僕を目掛けて真っ直ぐに歩いて来た。
きょとんと男の姿を目に映しながら、次の瞬間血の気が引いた。
――もしかしたら、『シャングリ=ラ』で……。
あの場所で相手をした人間かもしれない、そう思って背筋が凍った。外で声をかけるのはルール違反だ。こんな真昼間に声をかけてくるはずがない。だけど……暗がりで交わった男の顔なんていちいち覚えていない。違うとは言い切れなかった。
イチスケさんや雄太、向こうには母ちゃんもいるのに冗談じゃない。こっちに来ないでくれ。僕に話しかけるな……。そう必死に祈りながら、そっぽを向いて無視を決めこむ。掌はじわりと冷たい汗で湿った。
だけど、僕の人生は、大切な時にいつもうまくいかない。
僕の前でぴたりと足を止めた男は、ちょっとかがんで僕の顔をまじまじと観察したあと、親し気に目を細めて言った。
「やっぱり『姫』だ」
動揺して思わず体が揺れる。
緊張で体中が火照りだし、心臓の音がどんどんはやくなっていった。
「いや、『リク』だっけ? ひっさしぶりだなー。あれから見ないけど元気にしてた?」
「…………」
男は三つ揃えのスーツをビシッと着こなし、隙のない優良そうな顔で微笑んでいる。だけど僕だけを映すその目は笑っていない。
ごまかす言葉も出てこない。話しかけられても反応しない僕に、雄太が不思議そうに聞く。
「凛久? 知ってる人?」
「……ひ、人違いじゃ、ないですか」
男のほうを見もしないで小さな声で否定する僕と男を、雄太はいぶかしげに見比べた。
「え? でもめっちゃ名前呼ばれてるし……」
男は苦笑いすると、雄太に向けて「いいのいいの」と気さくな大人風に手を振ってみせた。そしてわざわざ僕の顔をのぞきこんで言う。
「知り合いだったら、ちょっとからかってやろうかなって思っただけなんだ。でもちがうかなー、こんなに大人しい感じの子じゃなかったから」
「ね」と僕に向ける男の表情は、明らかに何かを揶揄したいやらしい含み笑いだった。体をこわばらせていた僕の肩に、男がぽんと手を置く。衝撃と嫌悪感でぞわりと鳥肌が立った。
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