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嘘をつく
「それよりもイってないでしょ? 僕、口でしてあげるね」
雰囲気を変えたくて、何でもないふうを装って、彼の前をくつろげようと手を差し出す。
前はこんなセリフ何も考えないで口にしていたっけ。彼が相手だと、本当はいつでも恥ずかしい。でもかまわない。だって気持ちよくしてあげたいんだ。本当に大好きだから。
だけど、僕の手は彼に触れることはできなかった。
「いいよ、やめてくれ」
また一歩距離をとったイチスケさんがうつむいて唇をかむ。何かを言おうとしてためらって、また口をつぐむ。それから思い切ったように口を開いた。
「ごめん。本当にそんなつもりじゃないんだ。ただ、何しても眠れなくて……」
「……え?」
「気になってしょうがなくって、ぜんぜん眠れないんだよ。……っ、我ながらこんなに器の小さい男だったのかって、自分で殴りたくなるくらいなんだけどさ、でもっ!」
顔を上げたイチスケさんの瞳は、見たことが無い暗い色をしていた。光を宿さない鈍いそれを見つけた時、背筋がすっと冷えた。
「凛久……あの男と、したのか?」
びくりと体がすくむ。
否定しなくちゃいけない。でも言葉が出てこなくて、僕はただ全力で首を横に振った。
イチスケさんの両手が僕の肩をとらえて、目をあわせるように強引に引き寄せられる。
「凛久、本当か? 俺に嘘をついてないか?」
ぎりっと食いこむイチスケさんの手は容赦が無かった。僕を揺すぶり、まるで罪を告白させるかのように締めあげる。
「して……してない……」
小さな声で絞り出すのが精いっぱいだった。
本当はわかっていた。イチスケさんは僕の言葉を信じない。だって――僕が本当のことなんて言えないと知っているから。茶番劇だ。だが始めたら、最後だ。それなのに、ふたりとも止められなかった。
あの男としたかどうかなんて覚えていないからわからない。でも同じことだ。僕は誰とでも寝てきた。後悔してももう遅い。その事実は決して消えない。
「凛久……本当に? 俺、信じていいんだよな」
うつむいてつぶやくイチスケさんは、ひどく傷ついているように見えた。
――僕となんかつきあうからだよ。
――僕なんかといるから、そんなことで悲しむんだ。
胸の奥がキュッと痛んで泣きそうになった。
だけど泣くのをこらえた。僕にそんな資格は無い。
「してないと思ったけど、わかんない」
僕の言葉に驚いて、イチスケさんが顔を上げた。
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