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しかし、肩の手はすぐに払い落とされた。
壁のように立ちふさがったのはイチスケさんだった。
「人違いだったら、もう行ったほうがいいんじゃないすか?」
そう言いながら、そっとかばうように彼の背中側に押しやられる。
「お仕事中ですよね?」
怒りを押し殺した声でイチスケさんは言う。男もムッとして言い返した。
「いや、知り合いですよ。彼は覚えていないようだけど。無理もないかな、僕は大勢の中のひとりだったけど彼は有名だったし。急に消えたって噂になってて、もう一度会いたいと……」
ぺらぺらとしゃべりだす男に目の前が暗くなる。気がついたら僕は声を張り上げていた。
「もう黙れよ!」
これ以上喋らせたくなかった。どうしても男を止めたかった。しかし注目を集めただけで、僕の場違いな大声にシンと静まった周囲の雰囲気に、すぐに後悔する。
「あ……」
言葉が続かない。青くなって黙りこむ僕を、雄太が気づかわし気に見ている。――どうしよう。体が細かく震え出す。この場を穏便にすませる方法が何も思いつかなかった。
その時伸びてきたイチスケさんの手が、ぐっと僕の肩を掴んで自分に引き寄せる。
「お名刺ちょうだいできますか?」
は? と意表を突かれた様子の男にぞんざいに手を差し出して、イチスケさんは続けた。
「名刺くださいって言ってんの。あんた馬鹿か? どうしてこいつにからんで来るのかなんて、だいたい想像がつくんだよ。後ろ暗いのはお互い様だろ。会社にばれてもいいのかよってことだよ」
男は腕を組んでぐっとイチスケさんをにらみつける。ふたりは無言でにらみ合った。バチバチと見えない火花が散っているかのようだ。
しばらくして折れたのは男の方だった。降参と言わんばかりに両手を上げて、にやりと笑ってみせる。
「悪かったよ。珍しい場所で彼を見かけてちょっとはしゃいだだけ。おっしゃる通り俺だってつつかれたら困るし、悪気はなかった」
男は「ごめんな」と僕にも白々しい笑顔を向けると、心配そうに顔を曇らせていた雄太に声をかけた。
「君、若松さんのファンなの? 良かったら会わせてあげようか」
「へ? 嘘っ、え、何で! いいんですか!!」
「いいのいいの、若い子にちやほやされると若松さんテンションあがるから」
何者かもわからない男にほいほいとついて行く雄太を、あっけにとられて見送る。「あいつ……」イチスケさんもあきれたようにため息をついた。
男は去り際に、僕にだけ聞こえるように小声で言った。
――「もう行かないの?」
どこへなんて言わなくてもわかる。僕は固い顔で口を引き結び、なおも無視を決めこんだ。
決して僕が相手をしないと知ると、男は一瞬だけ寂しそうにも見える表情を浮かべて、それから何のやり取りも無かったように堂々と行ってしまった。
「凛久?」
心配そうにイチスケさんが僕の顔をのぞきこむ。僕は大丈夫だからと笑ってうなずいた。
「なんか変なのに捕まったな。ああいうの良くあるのか?」
僕は大きく首を横に振る。イチスケさんにこれ以上心配をかけたくない。
それでもじっとこちらを見つづける彼の気配を、そっと上目遣いで確認する。
イチスケさんはもっと何かを言いたそうにしていた。だがすっと目を逸らした僕を見て、切り替えるように伸びをした。
「んー、まぁ気にすんな。何かあったら俺に言えよ? 絶対だぞ」
「うん」
神妙にうなずくと、それきり話題は撮影の話に戻っていった。
――切り抜けた……。
まだ震えの残る手でおでこを拭う。そこは細かい汗でじっとりと濡れていた。
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