夜の底

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「誰でもいいなら俺でもいいじゃないですか」  いきなり異国の言葉で喋り出したのかと思った。航の言っている意味が理解できない。  航は今なんて言った?  どうして航に抱き締められているんだ? それもまるで絶対に逃さないというような強い力で。  シャツ越しに胸元が触れ合っている。心臓は病的なまでに逸っている。航の鼓動も同じだ。 「だって、修一さん俺のこと好きでしょ?」  弾かれたように顔を上げる。  航は少し拗ねたような眼差しで修一を真っ直ぐに射貫いた。 「な、なに言って――」  気づかれていた。  いつから。  絶対に気づかれてはいけなかったのに。  血の気が音を立てて引いていく。 「修一さん、誤魔化さないで」 「誤魔化してなんか――」  いない、と言い切れなかった。航のあまりに真っ直ぐな視線が誤魔化しを許さなかった。 「俺の名前、呼んだじゃないですか」 「名前……?」 「俺が鞠花と一緒に寝ちゃった日。俺の名前を呼んだでしょ」  修一はあの日の出来事を思い出してハッとした。  あどけない寝顔を見つめていたら自然と名前が唇を滑り落ちていた。名前で呼んでとねだられても絶対に呼ばなかったのに。  だって、名前で呼んだら想いまで伝わってしまいそうで怖かった。 「俺に触って、俺の名前呼んだでしょう。それとも、あれ、夢だった? 俺が寝惚けてただけ?」  航は気づいていた。  航に触れたことに。名前で呼んだことに。修一の想いに。 (誰でもいいなら俺でもいいじゃないですか)  どうして?  修一の気持ちに気づきながらどうしてあんな科白を口にしたんだ。理解できない。冗談ならひどく残酷な冗談だ。  湧き上がりそうになる期待を無理矢理押しやる。あんなのはただの冗談、じゃなければその場の勢いで飛び出しただけだ。  航は修一を抱き締めながら顔をじっと見つめていたが、やがてほのかな苦笑を浮かべた。  駄々をこねる鞠花に向けるような笑み。いや、それよりも少し甘い。 「なんて顔してるの、修一さん」  航は修一の頭にそっと手を添えると、肩口へ引き寄せた。  上手い言い訳を考えなくては。航の名前を呼んだ言い訳。航に触れた言い訳。航がそれこそただの冗談だったんだと納得してくれるような:--  焦る気持ちを置き去りにして堰き止めようもなく期待が湧き上がっていく。
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