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泡沫の夢
啄むように唇が触れて、すぐ離れる。瞬きすると、少し照れたような航の笑顔が瞳に映った。
砂漠の旅人がオアシスの幻影を見るように、幻覚を見ているのかもしれない。
恐る恐る航へ手を伸ばす。触れた瞬間、消えてしまうのではないか。キスした後だというのにそんな不安に襲われて、それが実在するのを確かめるために航の滑らかな頬に触れた。温かい。これが幻覚ならなんてよくできた幻覚だろう。
航は頬に添えられた手を包みこむようにそっと握った。
「修一さんって……」
航は熱っぽい溜息交じりに呟くと、甘やかすような微笑を浮かべた。
「なんでそんないちいち可愛いんですか」
その言葉に、修一は目線をきつくした。ピンク色に染まった頬ではあまり迫力があるとは言いがたかったが。
「おまえ、俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「してませんよ。可愛いは褒め言葉でしょ」
「子供や女の子ならな」
睨んでも返ってくるのは笑みを含んだ優しい視線で、修一は受け止めきれずにふいっと横を向いた。
「そういう反応が可愛いって言ってるんですけど」
揶揄うように言われて、もう一度睨みつける。と、顔がすっと近づいてきて唇を押しつけられた。
先ほどよりもはっきりとした口づけは、あっという間に深いものに変わった。
何度も何度もキスを重ねて、互いの唇を吸いながら、キスの合間に視線を見交わす。
唇が熱い。航に触れられた先から体が熱を帯びていく。焼け死んでしまいそうだ。
どうせ一過性の夢だ。
好きだと言ってくれたが、航はいずれ――それほど遠くない未来に後悔するだろう。
男とつきあうことがどういうことなのか、異性愛者のかれにわかるはずがない。わかったとき、夢は終わる。
(束の間の夢ならもう少し、もう少しだけ――)
「修一さん……」
唇を離すと、航は熱病にかかったような瞳で修一を見つめた。
「してもいい?」
訊かれただけなのに腰骨に甘い痛みが響いた。修一は反射的に首を横に振っていた。
「どうして?」
航は少し拗ねた表情になった。
「どうしてって……。押井は違うだろ……」
「また名字で呼ぶ」
「どうだっていいだろ。呼びかたなんか」
「どうでもいいなら、名前で呼んでよ」
そう切り返されて、口ごもる。
「ねえ、どうして駄目なの」
「……きっと後悔するから」
航は男としか寝ることのできない修一とは違う。衝動に流されたらいつか必ず後悔するときがくる。同性と寝たという過去をかれの人生に刻みたくない。
航の中で忘れたい記憶になってしまうくらいなら抱かれたくない。触れてもらえなくていい。
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