いつもふたりで(番外編)

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「このビルの地下だよ」  修一はスナックやバーの看板がつらなる雑居ビルの前で立ち止まった。ビルの脇についている階段を下りていくと、手狭なスペースの向こうに木製の扉があった。扉にはFROSTと刻まれたプレートが填っている。  ここだよと告げてから、修一は扉を押し開けた。  航にとっては生まれて初めてのゲイバーだ。少し緊張しながら修一の後に続いたが、視界に映ったのはどこにでもありそうなバーだった。  磨かれたカウンターとその向こうにずらりとならんだウイスキーやリキュールの瓶。ロックグラスにカクテルグラス。  そしてそこに立っている黒いベストと蝶ネクタイ姿のバーテンダー。  想像していた光景とのギャップに拍子抜けする。男の客しかいないことと客同士の距離が近いこと以外は、一般的なバーとかわりない。 「修さん、いらっしゃいませ。今日はお連れ様もご一緒なんですね」  バーテンダーはグラスを磨いていた手を休めて、人好きのする笑みを浮かべた。この男がマスターだろうか。  白髪交じりの頭に皺の刻まれ始めた顔。五十代半ばといったところだろうか。 「久しぶり。カウンターいいかな」 「どうぞ、お好きなところへ」  航と修一は中央のスツールにならんで腰を下ろした。  しばらく待つと注文したビールとギムレットがそれぞれの前に差し出された。 「どう? 生まれて初めておとずれたゲイバーは」 「……なんていうか一般のバーと同じだね。まあ、客は男ばっかりだけどさ。ゲイバーってもっとこう店の人と客が友達感覚で会話するイメージだった」  航の言葉が聞こえたらしい。振り返ったマスターと視線があった。 「私はもともとホテルのバーで働いていたんです。自分の店を持つことになったときに、いわゆるゲイバーは私の柄ではないな、と。落ちついた店構えと旨いカクテルやウイスキー、それが私の理想の店だったので。でも、やっぱり一般のバーじゃなく同好の士が集まる店がいい。それで、自然とこういう店になりました」  航の頼んだのは生ビールだったが、そこいらの居酒屋で飲むものとはまるでちがう。泡からしてきめ細やかで口当たりがいい。 「美味しいですよ、このビール。同じビールでも注ぎかたひとつでこんなにちがうものなんですね」 「ありがとうございます」  マスターははにかんだ笑みを見せた。他の客から注文が入り、背中を向けてリキュールの瓶を取り出す。 「いい感じの店だね。俺、好きだよ」  航が率直な感想を口にすると、修一は嬉しそうに微笑んだ。 「気に入ってくれてよかった。俺のお気に入りの場所だからさ。そんなに足繁く通ってたわけじゃないけど、ときどきふらっとおとずれたくなるんだ」 「大学生のころから通ってたんだよね。可愛かったんだろうなあ……大学生の修一さん」  ゲイバーはゲイにとっての出会いの場だ。そんなことはこういった場所に縁のなかった航にも想像がつく。  この店で何人の男と出会ってきたんだろう。ふっと思い浮かんだ疑問は黒くよどんだもやとなって胸の中に広がった。 「いまだに大学生みたいな奴に言われたくないな」  返ってきた言葉は素っ気なかったが、航はその頬が赤くなっているのを見逃さなかった。 「あ、ごめん。修一さんは今でもじゅうぶん可愛いよ」  わざとにっこり微笑むと、修一は言葉を失ったようだった。 「……よくそういう科白をさらっと言えるな。ひょっとしてもう酔っぱらってるのか?」 「ゲイバーっていいね。人前でも気にせずに可愛いとか好きだとか言えるの」 「ゲイバーだからって誰でも言えるわけじゃないぞ」  修一は目を細めて睨んできたが、それが照れ隠しだということくらいわかっている。 「……ねえ、マスターって恋人はいるの?」  航は声を潜めて訊ねた。 「え? どうしてそんなことを訊くんだ」 「マスター、落ちついてて渋くて素敵だからさ。修一さんは誰から見たって可愛いし。長年通っていたんなら、そういう雰囲気になったことないの?」  ちょっとした不安から出た言葉は修一を大いに呆れさせたらしい。表情が『馬鹿な質問をするな』と言っている。 「マスターにはもうずっと昔から恋人がいるよ。週末はときどき手伝いにきてる。何度か会ったことがあるけど、マスターにお似合いの素敵な人だよ」  修一は苦笑を浮かべながら言った。 「そっか。ならひと安心」 「おまえって奴はもう……」 「せっかくプロのバーテンダーがいるんだから、次はカクテルを頼もうかな。修一さん、おすすめある?」 「俺はいつもギムレットばかりだからな……。カクテルに詳しいわけでもないし。マスターに訊いたほうがいいよ」  ドリンクのメニューを手にとってながめる。知っているカクテルもあれば、初めて目にする名前も多い。  航は修一のグラスに目を向けた。 「それ美味しいの?」 「ほら、飲んでみろよ。ジンとライムだけのシンプルなカクテルだけど、俺は好きだよ」  あの夜以来かもしれない。恋人としてふたりの時間をゆっくり過ごすのは。  家に帰れば鞠花がいるし、休みの日もばらばらだ。ふたりが同じ動物を担当しているかぎり、休みが重なることは絶対にない。  航は修一と鞠花の三人で過ごす時間を大切にしていた。幸福という言葉が自然と浮かんでくる温かな時間。  でも、こうして修一とふたりで過ごす時間も同じように大切だ。めったに持てない時間だけに。
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