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航はカウンターの上の手をぎゅっと握りしめた。私利私欲抜きで動くような男にはとても思えない。
やっぱり瀬良にとって修一は特別な存在なのだ。
「瀬良さんはそれでよかったんですか。修一さんをむざむざ手放して」
「言っておくけど、俺は修に恋愛感情を抱いたことは一瞬だってないよ」
「あなたみたいな人が、どうでもいい相手のためにあそこまでするとは思えない」
瀬良の目を見つめてみても、その真意がどこにあるのかまるでわからない。まるで深い井戸をのぞいているみたいだ。暗がりの向こうになにがあるのか、いくら目をこらしても見えやしない。
「修は似てるんだよ。俺がジュラ紀に好きだった人に」
「だったら尚更――」
「押井さんがやむを得ない理由で修と別れたとして、もしも修によく似た人と出会ったらその人に恋をする?」
「それは……」
航は言葉につまった。修一と瓜二つだったとしてもその人は修一ではない。よく似ているだけの見知らぬ他人だ。
「ね? 人間ってそこまで単純な生き物じゃないんだよ」
瀬良はにっこりと微笑んだ。
「ただいま」
ふいに修一の声が聞こえてハッとして顔を上げる。
「あ、おかえりなさい」
「修ももどってきたし、そろそろ俺は帰るよ」
瀬良は修一と入れ替わるようにスツールから立ち上がった。
「え、もう帰るんですか?」
まだドライマティーニを一杯飲んだだけなのに。
ひょっとして航に気遣っているんだろうか。いや、気遣うくらいなら最初から隣に座ったりしないか、と思い直す。
「今日はもともと軽く飲みにきただけなんだ。修が押井さんと上手くやっているのもわかったし、いい夜だよ。いい夜のまま終わらせたい」
瀬良は会計を済ませると、朗らかに笑って扉へ向かった。
「修、幸せに」
笑顔と共にそんな言葉を残して、瀬良は『FROST』を出ていった。
航はかすかな音を立てて扉が閉まるのをじっと見つめた。
「瀬良さんと何を話してたんだ? ずいぶんと熱心に話してたみたいだけど」
「え? 修一さん見てたの?」
「邪魔しちゃ悪いかと思って、手洗いから出てももどらずに少し離れたところからながめてたんだよ」
会話の内容が内容だけに気まずいものがある。嫉妬剥き出しで瀬良を問いただしたと知ったら、修一は呆れるだろうか。
「……いや、瀬良さんが昔好きだった人の話とか」
「ああ」
「修一さん、知ってるの?」
「好きだった人がいる、っていうことだけだよ。まあ、誰だってそうだろうけど」
修一とその人が似ていることは知っているんだろうか。浮かんだ疑問を確かめるつもりはない。
「瀬良さんはきっと今でもその人が好きなんだろうな……」
氷の溶けかかったグラスに修一の言葉がぽつりと落ちる。
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