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「井川理事長?…」
俺は久しぶりに、その名を呼んだ。
(何故?俺が強引に引退させた、元理事長がここにいる?)
何が起こっているのか、混乱している俺に、
井川理事長は、話しかけてくる。
「大丈夫かね?左近君。いや~しかし、今回は本当に大変だったね。でも君のお陰で、大蔵省の認可も取れた。きっとお客様も喜ぶと思うぞ!この宝くじ付き定期預金は!」
(宝くじ付き定期預金…認可?いったい何年前の話をしているんだ…)
俺は混乱しているが、視線を上げると、井川理事長の後ろに、当金庫のカレンダーが貼ってあった。
その年度を見て、俺は目を見開いた!《1997年》
(確かにこの年は、俺が宝くじ付き定期預金を商品化し、護送船断方式と揶揄されるほど、横並び意識が強かった、大蔵省の反対を押しきって販売した年だ。
そうか…この場面は確かに記憶がある。井川理事長からねぎらいを受け、これを機に俺は、筆頭専務へと昇格したんだ。)
「左近君!これで君は、私の後継者だ!今後は私とともに、この埼玉県南信用金庫を大きくしていきましょう!」
喜ぶ元理事長に、適当な相槌をして、俺は理事長室を退出した。
俺はこの時代の自分の役員室の前を通りすぎ、お手洗いに向かった。
そして鏡の前に立ち、自分の顔を確認する。
(確かに若返っている…いや、違うな、当時の顔に戻っているだけだ。)
自分の役員室に戻り、気分が優れないという理由で、早々に帰宅する用意をした。
しかし、役員車を運転する運転手も、流れる街並みも、知ってはいるが、今までいた時代のものではなく、過去のものだった。
それは自宅に戻っても、同じだった。心配そうに迎えに出てきた妻の顔も、そしてかわいい孫もまだ小学生だった。
俺は自室に籠り、思い返してみた。
(あの時、何物かに背中を押され、道路に出てしまい、迫ってきたトラックに・・・跳ねられたのか。)
そのあとの光景も覚えいる。ゆっくりとスローモーションのように、景色が流れ、最後に消えかけていく手のようなものを見たこと。
(俺は死んだのか?それともまだどこかの病院で、意識不明の重体になっていて、ただ夢を見ているだけなのか?)
そのようなことを考えているうちに、夜になり、義理の息子の剛も帰ってきた。この当時は確か人事部にいたはずだか、聞いてみると、やはりその通りだった。何故そんなことを聞くのか?具合が悪いのではないか?と聞いてくるので、気にするなと言い、また俺は自室に戻った。
(考えられることは、俺が覚めない夢を見ていること、もしくは本当に過去に戻ったこと。しかし、タイムスリップなどありえるのか?
タイムスリップなど、映画の世界の話でしかないと思っていたが。)
夢なのか、現実なのか、分からないまま考えているうちに、いつのまにか俺は、眠りの世界に落ちていった…
翌朝、眠りからは覚めたが、夢から覚めた様子はなく、相変わらず過去に戻った世界に俺はいる。役員車に揺られながら、俺はこの過去に戻ったことが現実であるということを、受け入れるしかないと思った。
自室の役員室に入り、俺は人事部にいる義理の息子の剛に電話を掛けた。朝イチから電話が掛かってきたことに慌てていた剛に、俺は要件を伝えた。
《酒井浩の所属を教えろ》と。
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