一回だけ

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一回だけ

定期積金の騒動が終わってから10日くらいたったある日、俺は妻の紹介で、妻の習い事である、手芸教室の先生の家に、酒井とその地区の担当者の3人で向かっていた。 俺が南浦和支店の支店長に就任したことを、妻が先生に話したところ、他行の口座で受け取っている年金を、当金庫で受け取るように、変更してくれるということになったのだ。 年金というのは、偶数月の15日、それぞれ指定口座に振り込まれるものです。金融機関としては、確実に一定の金額がその日に振り込まれ、ある程度の金額は、残高として通帳に残るので、それを見越した資金運用ができ、重要視しています。 この埼玉県南信用金庫でも、年金受け取り口座の獲得に力を入れています。 妻の紹介とはいえ、俺が来たことにより、年金の受け取り口座が増えるのだ。俺は横に歩く二人に、(少しは感謝しろよ)と思いながら歩いているが、その二人はあまり喜んでいるようには見えなかった。 俺が不思議に思っているうちに、妻の先生の家に着いた。地区担当者がインターホンを鳴らすと、家の玄関のドアが開き、先生ご本人が出て来られたので、「南浦和支店長の左近です。いつも妻がお世話になっております。」 と挨拶すると、先生もにこやかに「こちらこそいつもお世話になっております。」と応じられ、我々は自宅に招き入れられた。 自宅の居間に通され、紅茶を出され、しばらく妻のことなど他愛のない話をした後、俺は切り出した。 「このたびは年金の受け取り口座を、当金庫にして頂けるとのことで、誠にありがとうございます。」と、まずはお礼を述べた。 そして年金の受け取りに関する、特典の説明を始めた。 「当金庫に年金の受け取りを変更されたあと、実際にお振り込みが確認できましたら、100万円までですが、定期預金の金利を1%上乗せさせて頂きます。1度だけではございますが、是非この特典をご利用してください。」 と、俺はその特典の申込書を渡そうした。 すると先生は、 「あら?また利用することができるの?」と聞き返してきた。 「えっ?」と戸惑い、俺は思わず隣に座る酒井を見た。 酒井は困ったような顔をして、先生を見つめている。 「私、前の担当者にね、どうしてもと頼まれて、年金の受け取り口座をそちらに変更したことがあるの。1回だけでもいいから、当金庫で受け取ってくれって。もうすごい頼み込んでくるものだから、私もだんだんかわいそうに思えてきちゃってね、それで、そちらで1回だけ受け取ったの。その後、すぐに戻したんだけど、その時、特典も利用してくれと言われたから、利用させて頂いたの。また利用できますの?」 と先生は聞き返してきた。 「えっ~あ~」と俺が戸惑っていると、酒井が後を引き継ぐように、 「申し訳ございません。こちらの特典は、1度しかご利用できません。 今回当金庫に移して頂いても、定期預金に金利は上乗せできません。それでも移して頂けますか?」と申し訳なさそうに問いかけた。 「もちろんよ!私の生徒で、支店長の奥様の頼みですもの。それに1回しか受け取ってないのに、1%も上乗せしてもらったから、私もなんだか悪い気がしてたのよね。でもね!これでスッキリするわ。」 と明るい声で、先生はありがたい返事をくれた。 俺と酒井と担当者は、その場で 「ありがとうございます。」と礼を言い、年金の受け取り口座変更のハガキに署名と捺印をもらい、手続きを終えた。 「知ってたのか?」 支店へと戻る道中で、俺は酒井に聞いた。 「はい。すいません。支店長にはこのことを、どうしても知って頂きたくて。」 酒井は、軽く頭を下げながら言った。そして、 「支店に戻られましたら、この件で、支店長に是非目を通して頂きたい資料がございます。」 と続けて言った。 俺は定期積金の資料を見た時のことを思い出し、嫌な予感しかしなかったが、「わかった」としか言えなかった。
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