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ドアをノックし、理事長室に入ると、理事長は応接セットの椅子に座っており、何も言わず、手で俺も座るように促した。
俺が理事長の対面の椅子に座ると、少しの沈黙の後、意を決したように、
「私は、理事長を退こうと思う。」と言った。
「えっ?」俺は驚き、
「どうしたんですか突然?」と聞いた。
すると理事長は、
「左近君、君が支店に行かせてくれと言ってきた時のことを、憶えているかい?」
聞かれた俺は、その場面を思い返してみる。あの時はまだ、この過去の世界に来たばかりで、酒井のことを放逐することしか頭になかった。
俺が何も言えないでいると、理事長は言った。
「気を使わなくてもいいんだよ左近君。君は私に言ったじゃないですか。
現場の状況を知らない人間が、トップに立つことほど、組織にとって不幸なことはないと。」
その言葉で俺の記憶は甦った。確かに言った。それもこの場所で。
あの時は、自分が支店に行くための、用意されたセリフだけでしかなかった。しかし今その言葉は、自分の胸にも突き刺さった。
「まさにそれは私のことだったんだね。」
理事長は深いため息をつきながら、話を続ける。
「定期積金の契約額のノルマに追われた職員が、顧客の意向にそぐわない積み立てを作成する。」
「年金のノルマに追われた職員が、いつ振り込まれるか分からない年金の登録を追いかける。」
「出資金のノルマに追われた職員が、実在しない人間の出資金をお客様に作らせてしまう。」
「これらのことを全部、私は知りませんでした。」
(それは俺も同じなんです!)
理事長の話を聞きながら、俺も心の中で叫んでいた。
「こんなことをしなければならない程、追い詰められた職員も不幸です。
そして何よりも、それに付き合わされるお客様が一番不幸です。全ては現場を知らない私が招いた責任です。」
理事長は声を震わせながら言うが、俺もその一言一言が、自分が責められているように感じる。
「だから私は責任を取って、理事長職を辞任します。
左近君。後のことはよろしく頼みます。」
と、理事長は俺に向かって深々と頭を下げた。
「ま、待ってください!井川理事長!私だって・・・」
が、俺はその先の言葉が出てこない、
「左近君。今日の役員会議で君も思うだろ?君以外、誰一人として責任を取ると言う人間がいなかった。皆、好きなように意見は言うが、いざ自分に責任が降りかかりそうになると逃げるんだ。」
理事長は悲しそうに言う。
「だから、君しかいないんだ。」
最後は呟くように言った。
(確かに今日の役員会議でも、理事長の言うように、自分が責任を取るという言葉を口にしたのは、俺しかいない。しかし、俺に理事長になる資格が果たしてあるのか?俺だって知らなかったのだから・・・)
「少し時間をください。この出資金の手続きが一段落するまでは。」
俺は理事長に、考える猶予をお願いした。
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