「俺は」から「私は」へ

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翌日から、出資金の念書の文言をどうするか、加入時の申込書が全て揃っているかなどの確認作業に追われた。また営業課員には、全てのノルマを 廃止すると伝えた。当然、営業課員からは驚きの声が上がった。 しかしながら、その作業に日々追われながらも、俺の頭の中に浮かぶのは、俺が理事長に言った言葉だった。 「現場の状況を知らない人間が、トップに立つことほど、組織にとって不幸なことはない。」 そしていつも思い返してしまうのは、過去に戻る前の世界のことだ。 (俺だって理事長と同じなんだ。お客様に迷惑を掛けている現場の状況も知らずに、この信用金庫を大きくしたのは俺だとふんぞり返り、義理の息子と孫を役員にすることしか考えていなかった。 そんな人間がトップとして、経営をしていたんだ。 働いている職員も、お客様も不幸だったはずだ・・・ だから、だから俺は解任されたんだ。 そんな俺にまた、理事長になる資格なんてあるのだろうか・・・) 「支店長!失礼します!」 その声に、俺は我に返った。顔をあげると、目の前に酒井が立っていた。 「増田様の出資金の手続きが終わりましたので、これから通帳と、計算書の返却に行ってまいります。」 と、通帳と計算書を確認するよう、俺の机に置いた。 「待て酒井。これは私が行く。」 と、俺は酒井に言った。今回の出資金の名義の件は、このお客様から知らされたんだ。クレームではないとはいえ、俺には手続きが終わったことを報告する義務がある。 「分かりました。ではお願いします。」 と、酒井は頭を下げ、席に戻って行った。 俺は手続きがきちんと済んでいることを確認し、増田氏の自宅へと出掛けた。 ご自宅にお伺いしインターホンを押すと、増田氏が家の中から出てきて、「支店長がわざわざ来て頂くなんて、すいません。」と言って 家の中へと案内された。 お茶を出して頂いた増田氏が座るの見て、俺は謝罪の言葉を口にした。 「増田様。この度は大変なご迷惑をお掛けしました。全て処理の手続きが終わりましたので、ご確認ください。」 と言い、持ってきた通帳と計算書を渡した。 増田氏はそれらを一通り確認すると、笑顔になり 「いや~これでスッキリしました。ありがとうございます。」 と言った。 「いえ。こちらこそご迷惑をお掛けして、すみませんでした。」 俺が言うと、増田氏は目を細めて、 「もうしばらくすると、私はここを引き払って、老人ホームへ行きます。長い間お付き合いをさせてもらいました。最後もね、こうやって面倒をみてもらって・・・。」 「私はね支店長、埼玉県南信用金庫さんと取引出来て、本当に良かったと思っているんです。長い間お世話になり、ありがとうございました。」 と、増田氏は少し寂しそうな声で、深々と頭を下げて言った。 「いえ・・・そんな・・・」 俺は不覚にも、その言葉に胸が詰まってしまい、何も言うことができなくなってしまった。 (ありがとうございました。) 俺は支店に戻り、増田氏から言われた言葉を思い返していた。 (いつ以来だろうか。直接、お客様からありがとうと言われたのは。 思えば、この信用金庫に入ったのも、お客様の役に立ちたいから。 宝くじ付き定期預金を作ったのだって、お客様に喜んでもらいたいから。 俺はその気持ちを忘れていたんだろうか。) 俺は机の受話器を取り、本店の秘書課に電話を掛け、理事長に繋いでもらうよう言った。 (もう1度やり直そう。お客様からもっともっと「ありがとう」という言葉を聞けるように。) 「左近です。理事長就任の件、お引き受けいたします。」 そして、『私は』2度目の埼玉県南信用金庫の理事長に就任した。
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