9人が本棚に入れています
本棚に追加
日傘の下で、歪む顔は
「出掛けてくる」
「わかった、何時頃、」
返事も待たず、母は出掛けていく。酒を飲めば俺を通して別人の面影を見る母だが、そうでなければ俺など、存在自体も邪魔だが、放っておくと体裁が悪い……本当に邪魔な同居人だ。
そんなのもう慣れてはいるが、夜とあまりにかけ離れた姿を見ていると、やはり母をこんな風にした夏が憎くなる。
もし、母が俺を宿した夏に行けるなら……そんな妄想をしながら、俺は母が食べないかもしれない夕食を作り始めた。
料理の盛られた皿がテーブルに並ぶ。この中のどれだけ、苛立ち紛れに捨てられるのだろう? ふと虚しい気分になったが、用意しておかないと母は食事をとらないし、空腹が続くと精神的によくない影響が出ると聞いたことがある。
もっとも、俺がそんな心配をしても母の心を動かすとは思えなかったし、むしろ俺がそうやって行動するから、母は外で男と会うようになったのだ。でなければ、俺のことなど気にかけずに家で見知らぬ男と抱き合っていたに違いない。
……なぁ、母さん。
ありえないのに、俺の作った食事に、母がなんとも旨そうに口をつけている姿が浮かんだ気がした。そんな母を見つめながら、声にならない声で問い掛ける。
いつまでこんなこと続けるんだ?
もう30代も半ばだろう? そういうアプリ使ってもほとんど一夜限りで終わってるし、終わらなくても勝手に尽くして、生活も、金だって差し出して、ボロボロになるまで相手を付け上がらせるじゃないか……。老後の貯金がどうとかブツブツ呟いてたのは、何だったんだよ?
……もちろん、母はいない。
きっと今頃どこかのホテルで、初めてなのか何度目かになるんだかわからない男と汗を流し合っているに違いない。俺もよく知る、“あの顔”をしながら。
「――――――、」
思い出してしまう。アルコールの臭いにまみれた、汗やら吐息やら、笑い声やらがぐたゃぐちゃに混ざり合った夜を。
あの顔を、あの声を、あの重さを、あの感触を、他のやつも知っているのかと思うと、自分が小さな存在になったみたいで嫌になる。苦しくて、気持ち悪くて、怖くて、心細くて、目眩すら。
お前なんていくらでも代わりが利くんだと、事実がのし掛かってくる。
夏はこの先、何度でも来る。
だけどきっと、その度に胸を掻き毟られてしまうに違いなかった。俺が俺である限り、母が母である限り。
その苦しさに耐えきれなくて、俺は今日も、冷蔵庫の目につくところに缶ビールを用意した。
最初のコメントを投稿しよう!