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夏の亡霊
夏になると、母はいつも俺を見る目付きが変わる。ずっとそうなのではなく、一瞬だけいつもと違う――何かを期待するような目で俺を見て、そのあと裏切られたみたいな、傷付いた顔をしていつも通りに戻る。
そんな光景にももう慣れて、俺はまたベッドに戻っていった下着姿の母を見送って、朝食に用意したサンドウィッチを口に運ぶ。また後で作っておかないとな、なんて考えながらトマトやレタスとごちゃ混ぜになったパンを嚥下して、窓の外から聞こえてくる蝉の声を掻き消すようにテレビの音量を少し上げる。
今年の夏休みは短いが、その間でも家にいる時間は長くなる。そうすると必然的にテレビを見る機会も増えるのだが、海の特集はいただけない。電源を切って、スマホに視線を戻す。
夏の海は我が家では――いや、俺にとっては、タブーのようなものだった。俺の存在理由を、嫌でも認識させられてしまう。
『子どもデキてから全然会ってくれなかったじゃん!』
深酒して俺を別の誰かと勘違いした母が、俺に迫りながら口走った言葉。あのときに触れさせられた柔らかく湿った、温かい感触は、俺の心に刻み付けられて離れてくれない――あぁ、なんだよ、くそっ。
夏の熱気が、まとわりつく。
口から漏れる熱い息が、気持ち悪い。
あぁ、夏なんてなければよかった。
俺が母に宿った季節――酔った母から語られた、俺の“父親”の話。聞くだけでイラつくくらい、遊びでしかなかったようなその恋に、いつまでも囚われ続ける母。
いつまでも、俺の知らない夏が、俺の背後から離れない。
昼に近づく青空と暢気な陽射しが、痛いくらいに俺の胸を焼いた。
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