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陽炎が胸を焦がす
母が起きてくるのは大体昼ちょっと過ぎ、仕事がない日にはほぼ夕方と言っても差し支えない時間に起きてきて、ただスマホで何かをしている――そういう姿をよく見る。スマホで何をしているのかはわからない。大方、何らかのマッチングアプリでも使っているのだろうが、俺にそれを止める権利があるとも思えなかった。
『あんたがいなかったら今頃もっと……』
不自由だという愚痴に次いで、幼い頃によく言われていたことを思い返す。幼いながらも俺を否定的に見ているのがわかる言葉に萎縮して過ごした幼少期。そんなのは理不尽な言い分だってわかってるのに、どうしてもその言葉が俺の喉を締め付けて、母を止める声を発させてくれない。
そもそもこの年齢になって母親の行動についてあれこれ口にするなんてどうかしているのかも知れないとか、また母の疎ましげな視線をぶつけられるのが嫌だとか、いろいろな理由が俺を縛り付ける。
だから、俺にできるのは母が食べるかどうかわからない食事を用意することくらいだった。虫の居所が悪ければ食べずに出ていくし、機嫌がよければ無言で食べていく。外で手酷い目に遭ったりしたときには食器ごと床に散らかして、テーブルに突っ伏して泣いていることもある。
……今日は、どうやら酷い男に会ってきたらしかった。割れた皿と床に散らばったパスタを片付けながら、肩を震わせて泣いている母を見下ろす。何もかもから目を背けたいとでもいうようにテーブルに突っ伏した母が、なんだかとても哀れにも、滑稽にも思えた。
あんたを泣かせたのは、今日初めて会ったやつなのか? それとも、もう軽々しく将来の話でもしたようなやつなのか? どちらにしても、もう何度目だろうか……相手は全然その気じゃないのに、心底のめり込んで傷ついて帰ってくるの。はじめは俺もそんな姿を見て胸を痛めていた。だけど、今は……。
「……母さん、早めに寝ないと身体壊すよ」
どうせ返事なんてない。そう思いながらかける声が、自分でも驚いてしまうほど無機質で、それをすんなり受け入れている自分がどこか歪に思えて。むしろ俺の言葉でより意固地になったように突っ伏したままの母を見ながら、どうして届かないところばかり見ているのだろう、とどこか冷めた頭で思ってしまう。
母は、まだだいぶ若い。そのことで同級生の母親たちから陰口を叩かれてしまうくらい――高校生の息子がいるような年齢ではない、何か若い頃に軽はずみなことをしたに違いない、と嗤われてしまうくらいには、若い。
もちろん、母のいないところでだ。それを耳にするたびに俺はずっと苦しい思いをしてきたし、返す言葉を思い付くようになってからは反論だってするようになった。
あの頃は、俺にとっては母が世界の全てみたいなものだったから。母が俺を見てくれることが、きっと俺にとって最大の夢だったから。
だけど成長すると、嫌でも“外”を知ってしまう。母のことも、俺たちのしてることも、客観的に見る目が、拒みようもなく身に付いてきてしまう。
母さん、俺は…………。
眠る母から少し漂うアルコールの匂いに、条件反射的な昂りを覚えながらも、なんとか居間を後にした。
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