第1章 円を描く小指

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 曽根崎さんは、車を持っていない。だから、こういう時に困る。  事務所の外に出た僕らは、さてどこへ逃げようか途方に暮れてしまっていた。 「タクシー使います?」 「いや、もっと早く逃げたい」 「どうするんですか」  曽根崎さんは、スマホを取り出した。そして、慣れた手つきで電話をかけ始める。 「……あ、忠助? うん、助けてくれ。ヤバイことになった。……うん、事務所」  忠助?誰だ?  電話の向こうから、怒鳴るような声が聞こえる。 「ウーウー鳴らして来てくれていいぞ。ある意味正しいから」  曽根崎さんは、ちゃっかりスマホから耳を離している。こういう所、不誠実だよな。 「よし、ちょうど近くにいるらしい。心配して巡回してくれてたっぽいな」  電話を切り、なんだかにこやかにしている。なんだなんだ。警察の人か?  疑問をぶつける前に、道路の向こうからパトランプを鳴らしたパトカーが、ものすごい勢いで走ってくるのが見えた。 「景清君。私達は、今からあれで逃げる」  唖然とする僕に、曽根崎さんは機嫌よくパトカーを指差す。 「中に乗っているのが、今回の依頼主だ」  言う間に、僕らの目の前で止まったパトカーから男の人が出てきて、曽根崎さんを張り倒した。状況が全く飲み込めない僕に彼は一礼すると、車に乗るよう手招きする。  そして、あれよあれよという間に、僕らは事務所から逃げることに成功したのであった。 「パトカーを私的に使うなって、こないだあれほど言っただろ!」  運転席に座る男の人が、険しい顔で前を睨んだまま曽根崎さんを説教する。がっしりとした人で、警察帽の下から覗く目は恐ろしく鋭い。街中で出くわしたら、この人が何も言わなくても僕は財布ごと置いて逃げ去るだろう。推測するに、この人が忠助さんだ。  対する曽根崎さんは、そんな怒りなどどこ吹く風である。 「でも君だって、私の為に一人でパトカー待機させといてくれてたじゃないか」 「俺一人に任されたんだよ! これは曽根崎案件だから、目ぇつけとけって上司に!」 「話のわかる上司を持ったな」 「うるせぇほんとウゼェ」  口の悪い警察官である。でも、正論しか言ってない。素行は乱暴だけど、中身は結構常識的な人なんじゃないかと僕は思った。  それにしても、この声どこかで……。 「あ」  思い当たった。 「あなた、僕の家が荒らされた時に連絡くれた人ですよね」  僕の言葉に、おう、と警察官は男らしく答えた。 「こいつの世話ついでに部屋荒らされて、災難だったな」 「はい、まあ」 「無理してついてかなくてもいいんだぜ。何ならやめちまえばいい」 「金払いがいいもんだから、つい」 「金拾う手を怪我したくなけりゃ、引っ込めるのも大事だ。人生長ぇんだから」  言葉尻は荒いが、その声色には心配するような気遣いが見て取れる。多分、この人は世話焼きだ。 「えーと……」 「阿蘇忠助(あそただすけ)」 「阿蘇さんは、曽根崎さんのお友達か何かですか?」  僕の質問に、阿蘇さんは苦々しい顔をした。 「なおタチの悪いやつだ」 「タチの悪い?」 「うん」  信号で車が停まる。阿蘇さんは、僕を振り返って言った。 「これ、俺の、兄」  ん?  んんんんん? 「とはいっても、腹違いのな」 「そうそう、母親が違う」 「でも、なんやかんやあって一緒に暮らしてた時期もあって、その縁で時々飯を届けに行ってたんだ」 「一週間に四回くらいな」 「目を離すとすぐ死にそうになる兄さんの世話を焼いてたら、いつの間にか職場で“ キレ気味ナイチンゲール ”ってあだ名がついてた」 「仕方ないだろ。人間食べないと死ぬんだから」 「だから食べろっつってんだろ!頭おかしいのか!」  車の運転さえしていなければ、頭を抱えていそうな嘆きっぷりである。苦労されたんだろうな。仲良くなれそうだ。  それでもさっきよりはだいぶ落ち着いた阿蘇さんは、僕に声をかけてくれた。 「景清君の話は聞いてたよ。やっと金で解決してくれて、俺も安心したもんだ。今後もよろしく……と言いたいとこだけど、こんな状況じゃあな。無理すんなよ。困ったら俺を頼ってくれてもいいから」  まさに、今である。こういう所が多分、曽根崎さんに付け込まれてるんだろうな、と感じずにはいられなかった。 「ありがとうございます」  とはいえ、その優しさは嬉しかった。ここ最近、心が荒むような出来事が続いたからだ。いい人だなあ、阿蘇さん。 「早速頼りたいことがあるんだが」  そんでこの人はどうしようもねぇな。 「兄さんには言ってねぇぞ。俺は景清君に言ってる」 「いいだろ。散々株を上げたんだから兄さんの言うこと聞いてくれたって」 「上げてねぇしその理屈もわからん」 「ちょっと買いたいものがあるんだ。ホームセンターに寄ってくれ」 「聞けよ」  わかります、その人ほんと話聞かないんですよね。  あ、でもそれなら……。 「すいません、阿蘇さん。僕も行きたい所があります」 「おう、どこでも連れてってやるよ」 「ちょっと待て景清君。別行動は危険だぞ」 「事情はわからねぇけど、俺もついといてやるから安心しろ、兄さん」 「頼もしいです」 「いや、私一人になるんだけど……」 「今までも一人だっただろ。乗り越えろ」 「曽根崎さん、後で迎えに来ますから、ちゃんとホームセンターで待っててくださいね」  二対一で圧倒的に不利な曽根崎さんは、不満そうに口を尖らせて後部座席に沈んだ。 「……まあいい。ただし、決戦は今夜十時だ。それまで、しっかり準備をするんだぞ」 「聞いてませんが」 「今言ったからな」 「……つまり、その時間に、小指氏は現れると」 「そうだ」  ――タイムリミットだ。僕は、この時そう感じた。――その時間に、僕か、曽根崎さんか、小指氏の命にタイムリミットが訪れる。  大袈裟なのかもしれない。だけど、そう思ってしまったのだ。  急に黙ってしまった僕に、曽根崎さんはこちらを見ることなく言う。 「……何なら、君は来なくていいんだぞ。これは私の仕事だ」 「……」 「むしろ、ここまでよく一緒にいてくれた。感謝してる」 「……」  なぜ、僕がその選択をするのか、僕自身にすらわからない。  もしかすると、曽根崎さんの言うところの、身を滅ぼすお人好しに所以するのかもしれない。  だけど、知ってしまったなら、見て見ぬ振りなどできないではないか。 「行きますよ」  佐谷田と、資料で見たホームレスと、小指氏と、老夫婦の姿が、脳裏を駆けていく。そして曽根崎さんの言う、“ 結界 ”。最後のオマケに、感情表現がぶっ壊れている曽根崎さんが、こちらに顔を向けない理由。それら全てが、ここで引いてしまえば、僕の中で澱みとなって残るだろう。  僕は、曽根崎さんを真っ直ぐ見つめて、言った。 「だから、頑張って生き残りましょう」  僕の一言に、曽根崎さんは振り返り、頷く。少し微笑んだようだ。そして、手を差し出した。  その手を力一杯叩き、前を向いて阿蘇さんに行き先を告げる。  三人が乗るパトカーは、二人分の思惑を乗せて制限速度ぴったりに走っていった。
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