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曽根崎さんは、車を持っていない。だから、こういう時に困る。
事務所の外に出た僕らは、さてどこへ逃げようか途方に暮れてしまっていた。
「タクシー使います?」
「いや、もっと早く逃げたい」
「どうするんですか」
曽根崎さんは、スマホを取り出した。そして、慣れた手つきで電話をかけ始める。
「……あ、忠助? うん、助けてくれ。ヤバイことになった。……うん、事務所」
忠助?誰だ?
電話の向こうから、怒鳴るような声が聞こえる。
「ウーウー鳴らして来てくれていいぞ。ある意味正しいから」
曽根崎さんは、ちゃっかりスマホから耳を離している。こういう所、不誠実だよな。
「よし、ちょうど近くにいるらしい。心配して巡回してくれてたっぽいな」
電話を切り、なんだかにこやかにしている。なんだなんだ。警察の人か?
疑問をぶつける前に、道路の向こうからパトランプを鳴らしたパトカーが、ものすごい勢いで走ってくるのが見えた。
「景清君。私達は、今からあれで逃げる」
唖然とする僕に、曽根崎さんは機嫌よくパトカーを指差す。
「中に乗っているのが、今回の依頼主だ」
言う間に、僕らの目の前で止まったパトカーから男の人が出てきて、曽根崎さんを張り倒した。状況が全く飲み込めない僕に彼は一礼すると、車に乗るよう手招きする。
そして、あれよあれよという間に、僕らは事務所から逃げることに成功したのであった。
「パトカーを私的に使うなって、こないだあれほど言っただろ!」
運転席に座る男の人が、険しい顔で前を睨んだまま曽根崎さんを説教する。がっしりとした人で、警察帽の下から覗く目は恐ろしく鋭い。街中で出くわしたら、この人が何も言わなくても僕は財布ごと置いて逃げ去るだろう。推測するに、この人が忠助さんだ。
対する曽根崎さんは、そんな怒りなどどこ吹く風である。
「でも君だって、私の為に一人でパトカー待機させといてくれてたじゃないか」
「俺一人に任されたんだよ! これは曽根崎案件だから、目ぇつけとけって上司に!」
「話のわかる上司を持ったな」
「うるせぇほんとウゼェ」
口の悪い警察官である。でも、正論しか言ってない。素行は乱暴だけど、中身は結構常識的な人なんじゃないかと僕は思った。
それにしても、この声どこかで……。
「あ」
思い当たった。
「あなた、僕の家が荒らされた時に連絡くれた人ですよね」
僕の言葉に、おう、と警察官は男らしく答えた。
「こいつの世話ついでに部屋荒らされて、災難だったな」
「はい、まあ」
「無理してついてかなくてもいいんだぜ。何ならやめちまえばいい」
「金払いがいいもんだから、つい」
「金拾う手を怪我したくなけりゃ、引っ込めるのも大事だ。人生長ぇんだから」
言葉尻は荒いが、その声色には心配するような気遣いが見て取れる。多分、この人は世話焼きだ。
「えーと……」
「阿蘇忠助(あそただすけ)」
「阿蘇さんは、曽根崎さんのお友達か何かですか?」
僕の質問に、阿蘇さんは苦々しい顔をした。
「なおタチの悪いやつだ」
「タチの悪い?」
「うん」
信号で車が停まる。阿蘇さんは、僕を振り返って言った。
「これ、俺の、兄」
ん?
んんんんん?
「とはいっても、腹違いのな」
「そうそう、母親が違う」
「でも、なんやかんやあって一緒に暮らしてた時期もあって、その縁で時々飯を届けに行ってたんだ」
「一週間に四回くらいな」
「目を離すとすぐ死にそうになる兄さんの世話を焼いてたら、いつの間にか職場で“ キレ気味ナイチンゲール ”ってあだ名がついてた」
「仕方ないだろ。人間食べないと死ぬんだから」
「だから食べろっつってんだろ!頭おかしいのか!」
車の運転さえしていなければ、頭を抱えていそうな嘆きっぷりである。苦労されたんだろうな。仲良くなれそうだ。
それでもさっきよりはだいぶ落ち着いた阿蘇さんは、僕に声をかけてくれた。
「景清君の話は聞いてたよ。やっと金で解決してくれて、俺も安心したもんだ。今後もよろしく……と言いたいとこだけど、こんな状況じゃあな。無理すんなよ。困ったら俺を頼ってくれてもいいから」
まさに、今である。こういう所が多分、曽根崎さんに付け込まれてるんだろうな、と感じずにはいられなかった。
「ありがとうございます」
とはいえ、その優しさは嬉しかった。ここ最近、心が荒むような出来事が続いたからだ。いい人だなあ、阿蘇さん。
「早速頼りたいことがあるんだが」
そんでこの人はどうしようもねぇな。
「兄さんには言ってねぇぞ。俺は景清君に言ってる」
「いいだろ。散々株を上げたんだから兄さんの言うこと聞いてくれたって」
「上げてねぇしその理屈もわからん」
「ちょっと買いたいものがあるんだ。ホームセンターに寄ってくれ」
「聞けよ」
わかります、その人ほんと話聞かないんですよね。
あ、でもそれなら……。
「すいません、阿蘇さん。僕も行きたい所があります」
「おう、どこでも連れてってやるよ」
「ちょっと待て景清君。別行動は危険だぞ」
「事情はわからねぇけど、俺もついといてやるから安心しろ、兄さん」
「頼もしいです」
「いや、私一人になるんだけど……」
「今までも一人だっただろ。乗り越えろ」
「曽根崎さん、後で迎えに来ますから、ちゃんとホームセンターで待っててくださいね」
二対一で圧倒的に不利な曽根崎さんは、不満そうに口を尖らせて後部座席に沈んだ。
「……まあいい。ただし、決戦は今夜十時だ。それまで、しっかり準備をするんだぞ」
「聞いてませんが」
「今言ったからな」
「……つまり、その時間に、小指氏は現れると」
「そうだ」
――タイムリミットだ。僕は、この時そう感じた。――その時間に、僕か、曽根崎さんか、小指氏の命にタイムリミットが訪れる。
大袈裟なのかもしれない。だけど、そう思ってしまったのだ。
急に黙ってしまった僕に、曽根崎さんはこちらを見ることなく言う。
「……何なら、君は来なくていいんだぞ。これは私の仕事だ」
「……」
「むしろ、ここまでよく一緒にいてくれた。感謝してる」
「……」
なぜ、僕がその選択をするのか、僕自身にすらわからない。
もしかすると、曽根崎さんの言うところの、身を滅ぼすお人好しに所以するのかもしれない。
だけど、知ってしまったなら、見て見ぬ振りなどできないではないか。
「行きますよ」
佐谷田と、資料で見たホームレスと、小指氏と、老夫婦の姿が、脳裏を駆けていく。そして曽根崎さんの言う、“ 結界 ”。最後のオマケに、感情表現がぶっ壊れている曽根崎さんが、こちらに顔を向けない理由。それら全てが、ここで引いてしまえば、僕の中で澱みとなって残るだろう。
僕は、曽根崎さんを真っ直ぐ見つめて、言った。
「だから、頑張って生き残りましょう」
僕の一言に、曽根崎さんは振り返り、頷く。少し微笑んだようだ。そして、手を差し出した。
その手を力一杯叩き、前を向いて阿蘇さんに行き先を告げる。
三人が乗るパトカーは、二人分の思惑を乗せて制限速度ぴったりに走っていった。
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