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今夜は満月だ。明るい光が、寂れた鉄工所の破れ屋根から覗いている。
その真下に、僕と曽根崎さんは立っていた。床には鉄板が敷き詰められており、一部だけ地面が露出している。
――今晩、ここに小指氏が現れる。
「……うまくいくでしょうか」
「いかずとも、情報は得られる」
「情報?」
「この手は使えない、という情報だ」
「それを生かせる場所は?」
「無いな」
「じゃあラストチャンスじゃないですか」
僕のツッコミに返す代わりに、曽根崎さんは何か投げてよこした。
「これは?」
「ボイスチェンジャー」
「必要ですか?」
「念のためだ」
罠は二つ仕掛けてある。一つ目は、足元の露出させた地面。小指氏が鉄板を破壊できないと仮定するならば、ここを狙い息継ぎをしに来るだろう。そして二つ目は、小指氏の噂をすること。これは、小指氏が自分の話をされることを警戒し、相手の姿を認識する為に現れるという仮定のもと考えられた案だが……。
「まるで綱渡りですよ」
「それも未経験者のな」
「本当に僕の案で良かったんですか」
「勿論」
「失敗したら、何が起こるかわかんないんですよ」
「だからいっぱい考えたろ。大丈夫だよ。最悪、私が何とかする」
最後の自信は一体なんなんだ。ため息をつき、ボイスチェンジャーを口に当てる。これは多分、小指氏に噂している正体が僕らだということがバレないようにする為の処置だ。
「……そういや、弟さんは?」
甲高い女の子のような声が出た。
「外で待ってる。万が一人が来た時に追い返せるように」
曽根崎さんは、野太い老人のような声だ。
「いい人ですよね」
「うん」
「小指の件が終わったら、また話したいです」
「連絡先教えてやるから、ガンガン電話をかければいい」
「いや、ガンガンはかけませんよ……。あなたじゃないんだから」
「私も別にガンガンはかけてないよ。だいたいな、こういった怪異案件だと、逆に向こうからかかってくるんだぞ」
「向こうはかけたくてかけてないと思いますが」
「ひっどいな君は! 君の給料どこから出てると思ってんだ!」
「少なくとも弟さんからではないでしょう」
「まあそれもそうなんだが。しかし、この小指案件が終われば、また金が入るぞ」
「そういや、そういう謝礼って誰が払ってくれてるんですか?」
「それは……」
曽根崎さんの顔色が変わる。その変化に何が起きたか察した僕も、手足を強張らせた。
――来た。
足元の露出した地面が微かに揺れている。僕らはボイスチェンジャーをポケットにしまい、スタンガンを構えた。
心臓が喉までせり上がりそうなほど、うるさく鳴っている。地面から目が離せない。指先が冷たい。地表に向かっているのは、本当に小指の彼なのか? モグラではないのか? いや、違う。ただのモグラが、こんな高音を発しながら移動するわけがない。
呼吸をするのも忘れるほどの恐怖の中、その時は訪れた。
地面が迫り上がる。奇妙な音が鉄工所内を満たす。
そこに現れたのは、人間の指。
土まみれの人間の指が、数本。
それは一瞬のうちに、ワラワラと地面をかき分け、地表に飛び出し――。
「なっ……!?」
その不気味な塊は、曽根崎さん目掛けて襲いかかった。
「……くっ!」
予想外の動きに、咄嗟に右へ避け飛ぶ曽根崎さん。紙一重でかわすも、小指氏はそのスピードに不釣合いな機動力で、すかさずまた曽根崎さんに照準を合わせる。
――素早い。人間の胴体より一回り小さいくらいの黒い塊にびっしり生えた指が、曽根崎さんを追い詰める。
「逃げて!」
「言われなくても!」
そう言い捨て、曽根崎さんは走り出した。廃鉄工所内の様々な物を盾にしながら、逃げる。しかし、小回りという点では曽根崎さんの分が悪過ぎる。それを追う僕も、相手のスピードが速すぎて、スタンガンを当てることができない。
――僕らは、想定していなかったのだ。相手が、反撃してくる可能性を。
「私、は! 大丈夫だ!」
曽根崎さんが飛び退いた場所にあった鉄材に、塊が突っ込む。鉄材は、無数の指に掴まれ、紙くずのようにひしゃげた。
「外に逃げるんだ! 景清君!」
そうだ。初撃を与えられなかった僕には、もう為すすべがない。しかも、相手の標的が僕に変わらない保証などどこにもないのだ。ならば、大丈夫だと言い切る彼を信じて、僕は逃げるべきではないか。
曽根崎さんの顔は、笑っていない。無表情に、小指の塊の動きを見ている。
「……はい!」
曽根崎さんに答え、外に通じる扉に向かって走り出す。外には、阿蘇さんもいる。あの人強そうだし、事情を説明すれば助けてくれるかもしれない。僕は、脇目も振らずに走った。
その時だった。
すぐ横の廃材置き場に、何か黒いものが叩きつけられた。その黒いものは埃っぽい廃材に埋もれながら、苦しそうに咳き込んでいる。
――曽根崎さんだ。
「曽根崎さん!」
「……いい……から、逃げろ……!」
「だって」
息をするのも辛そうだ。背中をしたたかに打ったのだろうか。
しかし曽根崎さんは、強い目を前に向けたまま言った。
「あいつが、来る!」
曽根崎さんの視線の先には、あの小指の塊。一本一本が意思を持っているかのように、おぞましく蠢いている。月明かりに照らされて、指の生えている黒い部分がテラテラと虹色に光っていた。
――あれが、元々人だったものなのか。
――なんて、惨たらしい姿だ。
それは、こちらを嘲るように、一度ゆらりとその場で揺らめくと、曽根崎さんを捻り潰そうと凄まじいスピードで向かってきた。
――だめだ。
――この人より、僕が。
思うより先に、体が動いていた。僕は、曽根崎さんを庇いその怪異の前に立ちはだかった。
「逃げろ! 景清!」
悲鳴のような曽根崎さんの声が、僕の背中から聞こえた。
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