第1章 円を描く小指

4/21
前へ
/93ページ
次へ
 僕は文学部に所属している大学生である。だから、こういった研究所に入る機会は、まず無いと言っていい。そんなもんだから、やけに白い壁や天井、薬品か土かわからない汚れ、すれ違う白衣の人など、物珍しいものを片っ端から凝視していた。 「こちらです」  やがて女性は、一つのドアの前で止まった。僕らは軽く頭を下げ、ドアをノックし確認を取る彼女を見守る。  その間に、僕は一歩下がり、曽根崎さんの背中を前に押し出した。曽根崎さんは小さく呻いて僕を恨めしげに見ていたが、観念したのかネクタイを締め直した。 「入りたまえ」 「失礼します」  中の声に呼応し、ドアを開ける。  そこにいたのは、六十代ぐらいの圧が強い男性だった。  彼は悠々とソファに腰掛け、僕らを値踏みするように眺めている。 「君かね。小指の件で調査してくれているのは」 「如何にも。私は普段フリーライターをしています曽根崎と申します。あなたが、警察を通して私に依頼された……佐谷田さんですね」  男性の机に置かれたネームプレートを見て、曽根崎さんは名を呼ぶ。すげぇな、この人。全然臆してない。 「そうだ。よくうちが分かったな」 「小指の落ちていた場所を調べていたら、こちらに行き着きました。あなたもその法則に気づかれたからこそ、警察を頼ったのでしょう?」 「……何がおかしい?」  不愉快そうに、佐谷田さんは眉を顰める。つられて横を見ると、曽根崎さんの口角が奇妙に上がっていた。……ああ、悪い癖が出ている。  僕は曽根崎さんを小突いて、男性に言った。 「すみません。曽根崎は事故の後遺症で、顔の筋肉が時々引き攣るんです」 「そうか。それは災難だったな」  半分本当で半分嘘だ。曽根崎さんは、顔の筋肉がうまく動かせないんじゃない。  “感情表現”がうまくできないのだ。  だから、悲しい時に笑い、怒りたい時に泣いたりする。で、恐らく今のは“緊張”だ。  やっぱり緊張してたんじゃないですか。 「話を戻そうか」  未だ口角の戻らない曽根崎さんを置いて、彼は話を進める。 「曽根崎君は、小指の本体を処理してくれると、こういうことか」 「はい」 「うちに迷惑もかけず、綺麗さっぱりと」 「はい」 「それはなんとも頼もしい。願ったり叶ったりだ」  佐谷田さんは大袈裟な手振りで、片手を広げる。しかし、その目は冷たい。 「……して、君は一体うちに何の用だ?」  ようやく本題だ。大丈夫かな、曽根崎さん。  曽根崎さんは、やっといつもの睨みつけるような真顔に戻っていた。 「率直に申し上げましょう。小指の本体に、心当たりはありませんか?」 「言う必要があるのか?」 「スズメバチやシロアリを相手にしてるんじゃないんです。自然発生した何かが、一つの目的を持ったようにこの研究所を目指す訳がない」  そうだ。今回の件は、まさしく怪異然としているのだ。小指の行動は、まるで怨念が宿っているかのような、そんな暗い執着すら感じる。  対する佐谷田さんは、首を横に振って答えた。 「心当たりは、無いね」  それが嘘だと、僕ですら理解できた。 「そうですか」  そしてこちらは、何の抑揚も無い。それならそれでまあいいか、といった様子である。  曽根崎さんは存外綺麗な一礼をすると、くるりと佐谷田さんに背を向けた。 「お忙しいところ失礼しました。行こう、景清君」 「え……いいんですか? もっとお話聞かなくて」  つい、引き止めてしまった。だって、ここで情報が無かったらすっかり手詰まりになってしまう。次に小指が現れる場所こそ推測はできるが、そこからどうやって手を出せばいいかわからないではないか。  一方曽根崎さんは、袖を掴んだ僕を見下ろして、のんびりと言い放った。 「いいよ。だって私、今回は降りるから」 「え!?」 「ええ!!」  僕だけじゃなく、佐谷田さんも驚いた。 「いや、降りるよ。なんでそんなよくわかんないもんを退治しなくちゃいけないんだ。命の保証だってあるかわかんないし」 「いやいや! だって警察からの依頼でしょ!?」 「警察で対処できないから、私に投げられたんだよ。だから私も無理だったって言えば、あーそっか残念だねで終わりだ」 「……終わるんですか?」 「終わるんだな、これが。大体こちとら助けに来てる側なのに、なんでこんな高圧的な態度取られなきゃいけないんだよ。ムカつく奴助けてるほど暇じゃないぞ私は」  暇でしょアンタは。 「そ、そんな言い訳が通用するか!」  そして、こっちは怒っている。もしかすると焦っているのかもしれない。 「国家権力の依頼を無下にするのか!」 「無下にしたのはそっちでしょう」 「金は出す! 働け!」 「別に金には困ってないんです。それでは」 「待て! ……このまま帰るなら、すぐに後悔することになるぞ! 誰だって後ろ暗いことの一つや二つあるだろう。それを探り出して……」 「何を謀っていただいても、私は一向に構いません」  曽根崎さんは振り返る。目の下のクマが、一層迫力を増している。 「……ただ、明後日までに実行された方がいいかと」  勢いで立ち上がり拳を握っていた佐谷田さんは、不穏な一言に、目に見えて動揺した。 「な、何故だ」 「小指の速度が上がっています。計算では、明後日の夕方にこちらに到着する見込みです」 「……」 「到着した所で、何が起こるかはわかりかねますが」  一息置き、曽根崎さんは宣告する。 「その様子だと、あなたは死ぬのでしょうね」  真っ青な顔をした佐谷田さんは、ドサリとソファーに倒れこんだ。
/93ページ

最初のコメントを投稿しよう!

585人が本棚に入れています
本棚に追加