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僕は文学部に所属している大学生である。だから、こういった研究所に入る機会は、まず無いと言っていい。そんなもんだから、やけに白い壁や天井、薬品か土かわからない汚れ、すれ違う白衣の人など、物珍しいものを片っ端から凝視していた。
「こちらです」
やがて女性は、一つのドアの前で止まった。僕らは軽く頭を下げ、ドアをノックし確認を取る彼女を見守る。
その間に、僕は一歩下がり、曽根崎さんの背中を前に押し出した。曽根崎さんは小さく呻いて僕を恨めしげに見ていたが、観念したのかネクタイを締め直した。
「入りたまえ」
「失礼します」
中の声に呼応し、ドアを開ける。
そこにいたのは、六十代ぐらいの圧が強い男性だった。
彼は悠々とソファに腰掛け、僕らを値踏みするように眺めている。
「君かね。小指の件で調査してくれているのは」
「如何にも。私は普段フリーライターをしています曽根崎と申します。あなたが、警察を通して私に依頼された……佐谷田さんですね」
男性の机に置かれたネームプレートを見て、曽根崎さんは名を呼ぶ。すげぇな、この人。全然臆してない。
「そうだ。よくうちが分かったな」
「小指の落ちていた場所を調べていたら、こちらに行き着きました。あなたもその法則に気づかれたからこそ、警察を頼ったのでしょう?」
「……何がおかしい?」
不愉快そうに、佐谷田さんは眉を顰める。つられて横を見ると、曽根崎さんの口角が奇妙に上がっていた。……ああ、悪い癖が出ている。
僕は曽根崎さんを小突いて、男性に言った。
「すみません。曽根崎は事故の後遺症で、顔の筋肉が時々引き攣るんです」
「そうか。それは災難だったな」
半分本当で半分嘘だ。曽根崎さんは、顔の筋肉がうまく動かせないんじゃない。
“感情表現”がうまくできないのだ。
だから、悲しい時に笑い、怒りたい時に泣いたりする。で、恐らく今のは“緊張”だ。
やっぱり緊張してたんじゃないですか。
「話を戻そうか」
未だ口角の戻らない曽根崎さんを置いて、彼は話を進める。
「曽根崎君は、小指の本体を処理してくれると、こういうことか」
「はい」
「うちに迷惑もかけず、綺麗さっぱりと」
「はい」
「それはなんとも頼もしい。願ったり叶ったりだ」
佐谷田さんは大袈裟な手振りで、片手を広げる。しかし、その目は冷たい。
「……して、君は一体うちに何の用だ?」
ようやく本題だ。大丈夫かな、曽根崎さん。
曽根崎さんは、やっといつもの睨みつけるような真顔に戻っていた。
「率直に申し上げましょう。小指の本体に、心当たりはありませんか?」
「言う必要があるのか?」
「スズメバチやシロアリを相手にしてるんじゃないんです。自然発生した何かが、一つの目的を持ったようにこの研究所を目指す訳がない」
そうだ。今回の件は、まさしく怪異然としているのだ。小指の行動は、まるで怨念が宿っているかのような、そんな暗い執着すら感じる。
対する佐谷田さんは、首を横に振って答えた。
「心当たりは、無いね」
それが嘘だと、僕ですら理解できた。
「そうですか」
そしてこちらは、何の抑揚も無い。それならそれでまあいいか、といった様子である。
曽根崎さんは存外綺麗な一礼をすると、くるりと佐谷田さんに背を向けた。
「お忙しいところ失礼しました。行こう、景清君」
「え……いいんですか? もっとお話聞かなくて」
つい、引き止めてしまった。だって、ここで情報が無かったらすっかり手詰まりになってしまう。次に小指が現れる場所こそ推測はできるが、そこからどうやって手を出せばいいかわからないではないか。
一方曽根崎さんは、袖を掴んだ僕を見下ろして、のんびりと言い放った。
「いいよ。だって私、今回は降りるから」
「え!?」
「ええ!!」
僕だけじゃなく、佐谷田さんも驚いた。
「いや、降りるよ。なんでそんなよくわかんないもんを退治しなくちゃいけないんだ。命の保証だってあるかわかんないし」
「いやいや! だって警察からの依頼でしょ!?」
「警察で対処できないから、私に投げられたんだよ。だから私も無理だったって言えば、あーそっか残念だねで終わりだ」
「……終わるんですか?」
「終わるんだな、これが。大体こちとら助けに来てる側なのに、なんでこんな高圧的な態度取られなきゃいけないんだよ。ムカつく奴助けてるほど暇じゃないぞ私は」
暇でしょアンタは。
「そ、そんな言い訳が通用するか!」
そして、こっちは怒っている。もしかすると焦っているのかもしれない。
「国家権力の依頼を無下にするのか!」
「無下にしたのはそっちでしょう」
「金は出す! 働け!」
「別に金には困ってないんです。それでは」
「待て! ……このまま帰るなら、すぐに後悔することになるぞ! 誰だって後ろ暗いことの一つや二つあるだろう。それを探り出して……」
「何を謀っていただいても、私は一向に構いません」
曽根崎さんは振り返る。目の下のクマが、一層迫力を増している。
「……ただ、明後日までに実行された方がいいかと」
勢いで立ち上がり拳を握っていた佐谷田さんは、不穏な一言に、目に見えて動揺した。
「な、何故だ」
「小指の速度が上がっています。計算では、明後日の夕方にこちらに到着する見込みです」
「……」
「到着した所で、何が起こるかはわかりかねますが」
一息置き、曽根崎さんは宣告する。
「その様子だと、あなたは死ぬのでしょうね」
真っ青な顔をした佐谷田さんは、ドサリとソファーに倒れこんだ。
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