1 夢と現実

1/1

3人が本棚に入れています
本棚に追加
/13ページ

1 夢と現実

   白が美しいなんて、一体誰が言ったんだろう。  目の前に広がる無機質な空間を見て、私は漠然と考えた。  その一色が世界を支配し、終わりも始まりも分からない。そんな場所にいつの間にか放り出されていたら、恐怖を感じるなという方が無理だ。  事も無げに存在している姿が独善的に見えて、また心が震える。  とにかく落ち着かなくて、一つだけ確かに感じている床に視線を走らせた。その途端、ぴたりと動きが止まる。  私が普段見ていた景色は、こんなものだっただろうか。  小さく丸みを帯びた裸の手足は、まるでレンズを通した虚像のように見える。どこの誰とも知れない、他人の体を借りているようだ。  けれどその違和感は、「どうしてこんな所にいるのだろう」という疑問に、あっさり飲み込まれてしまった。  喉にぐっと力を入れ、混乱とともに固い唾を押し流す。  しばらく考えてみたものの、手がかりを持たない頭で答えを弾き出すことはできなかった。それが、知らない場所にいる不安を、より一層掻き立てる。  ここから早く出たい。安心できる場所に帰りたい。  でも、そんな所はあっただろうか。 「……あれ?」  血相を変えて辺りを見渡すと、いつの間にか一つの人影が現れていた。  あの背中を、私はよく知っている。  たくさんの年輪が刻まれた大木のように頼もしく、それでいて小鳥が実をついばむ低木のように親しみやすい。その不思議な雰囲気に、胸の奥からあたたかなものが込み上げるのを感じた。  私のヒーロー。そして憧れの人。世界を旅する冒険者。 「おじいちゃん!」  考えるより早く、その名前を叫ぶ。心細さを埋めるように駆け出すと、思った通りの人がこちらを振り向いた。 「おぉ、杏奈(あんな)! 久しぶりだな! 元気にしてたか?」 「うん!」  険しかった赤ら顔が緩む。夏の木漏れ日みたいな、朗らかで眩しい笑みが降り注ぐ。  ずっと帰って来られないと思っていたのに、いつこっちに着いたんだろう!  おじいちゃんに会えたことが嬉しくて、私の中から全ての疑問が吹き飛んでいった。 「おかえりなさい!」  勢いのまま腰に抱きつく。すると、おじいちゃんが着ているグレーの作業用ベストが潰れて、安い煙草の匂いが巻き上がった。  隣で吸われるのは嫌い。それなのに、遠い国の空気を含み、時間をかけて出来たこの残り香は、どういう訳かほっとするから不思議だった。  思わずにんまりと笑い、私は硬い腹に埋めた顔を跳ね上げた。 「おじいちゃん、今度はいつまでいられるの?」 「それがなぁ、また明日すぐに旅立たなくちゃいけないんだ」 「えーっ!」  困った表情を浮かべるおじいちゃんに、当て擦りで口を尖らせてみる。  おじいちゃんはいつもそう。楽しい話を山のように聞かせてくれるけれど、一度だって私を連れていってくれたことはない。  不満の声が、いつかの記憶と重なった。塾の帰り道で度々耳にする、野良猫の鳴き声だった。 何遍叫んだか分からないくらいガラガラで、追い越していく車のエンジンのように荒々しい。ささくれだった私の心は、まさにそんな声を上げていた。  気まぐれに餌が貰える彼らも、きっと腹に据えかねているんだろう。  勝手に親近感を覚えた私は、心の中で、彼らと一緒に自分を慰めた。 「ねえ、私も一緒に連れていって!」  今日こそは、と食らいつく。  途端、おじいちゃんの表情は、酷く難しいものに変わった。爪で引っかかれたかのような、鋭い痛みが胸に走る。まるで、飛び出しそうな思いのかたまりを無理矢理飲み込んだみたいで、とても苦しそうだった。  おじいちゃんは、顔に切なさを残したまま、ストンと片膝を付く。そして、私と視線を合わせると、そっと小さな手を取った。 「いつも言っているだろう? 危険だから連れていけないんだ」  真っ直ぐに私を見つめる目の上で、白髪混じりの太い眉毛が、ぎゅっと八の字に縮こまる。  まだ、手のかかる子どもだから。無言のままに、そういなされた気がして、私の焦りは加速した。 「私ね、クラスで一番勉強出来るよ! かけっこだって速いの!」 「そうか、そりゃあすごいな」 「ねっ? 大丈夫だから連れていって?」  身を乗り出しておじいちゃんに訴える。困らせていることは分かっていた。それでも、引き下がることは出来なかった。  だってこのままじゃ、私は息苦しくて死んでしまう。勉強ばかりの毎日がレンガの壁の隙間を埋めて、私を何もない世界に閉じ込めてしまう。本気でそう思っていた。 「杏奈は、どうしてそんな必死になるんだ?」 「えっと……」  言っても笑わないだろうか? 私はためらいながら口を開いた。 「私、おじいちゃんみたいになりたいの」  おじいちゃんのように、何事にも捕らわれない自由な人に。  思いを打ち明ける姿は、きっと初めて蕾を開く花より慎重だっただろう。  いつにも増してか細い私の声に、おじいちゃんは面食らっていた。ただ、それもほんの一瞬のことだった。 「そりゃあ、男冥利に尽きるなぁ」  おじいちゃんが、慈愛に満ちた笑顔を浮かべる。 「だけど」  厚い目蓋が夕立雲のように伏せり、優しい眼差しに散らばる光を遮った。 「今は一緒に連れていけない」  どうして? 喉まで迫り上がった言葉は、おじいちゃんの寂しそうな顔に塞き止められた。  強く唇を噛み締める。私は、絞り尽くされた生クリームの袋みたいな顔で、溢れそうになる不満を押し戻した。 「ごめんな。その代わりと言ってはなんだが、これをあげよう」  おじいちゃんは、私の目の前に、金色のロケットペンダントらしきものを掲げた。赤ん坊の拳大の円盤に、長細いチェーンが付いている。平らな蓋には細かな傷が入り、ギラギラと鈍い光を発していた。 「これは?」 「俺が若い頃から使っている方位磁石だよ」  おじいちゃんが、方位磁石の横に付いている小さなつまみを押すと、蓋が貝のように力強く開き、中身が顔を出した。放射状に八つ線を延ばした星のような模様が盤面を占め、ひと際長い十字の先にだけ方位のアルファベットが刻印されている。真ん中には細いひし形の針が付き、何度揺らしても正しい方位を指し示していた。 「もらっていいの?」 「あぁ。もう少し大きくなるまで、これを持っておいで」  緊張で体を強ばらせながら、方位磁石を両手でそっと受け取る。微かにおじいちゃんの体温を残した方位磁石は、理科室で見たプラスチックの安物とは似ても似つかない。重厚な光を放つ姿は、迷宮の奥に眠る魔法の道具のようにさえ見えた。 「それからもうひとつ。俺が大切にしている言葉を、杏奈に贈ろう」  方位磁石に夢中になっていた私の肩に、おじいちゃんのむくむくとした両手が置かれる。  顔を上げると、眩しそうに細まった切ない両目が、こちらを向いていた。その真剣な視線に目が、離せなくなる。私は、夜空を流れる一筋の光を待つように、大きな瞳をめいっぱい広げて見つめ返した。 「俺のようになりたいなら、名前もない小さな星になりなさい」  思わず目を瞬かせる。おじいちゃんの言葉は、私の耳をするりと通り過ぎ、真っ白な空間でふわふわと漂った。 「どういう意味?」  直球に聞き返すと、おじいちゃんは「はっはっはっ」と、さも楽しそうに大口を開けて笑った。 「答えを言ってはつまらないだろう。次に俺が帰ってくるときまで、じっくりと意味を考えてごらん。わかったなら、きっと杏奈は一人でも旅に出られるはずさ」  いたずらっぽく口角を上げると、おじいちゃんは身を翻して歩き始めた。 「あっ、待って!」  肩に感じていた熱が離れ、そこにひゅうと冷たい風が吹き付ける。体の芯に、ぞくりと鋭い氷柱のような電流が走った。  ここで別れたら、きっと一生おじいちゃんに会えなくなる。  確信めいた考えが過り、私は遠ざかるおじいちゃんの背中を追った。  おじいちゃんの向かう方から黒い霧が這い出て、辺りは一変して薄気味悪い闇に包まれる。  私を置いていかないで。一人にしないで。  心の中で悲痛な叫びを繰り返しながら、短い手足を振り乱して懸命に走る。けれど、おじいちゃんの姿は、私が捕まえるより早く、霧に吸い込まれて消えてしまった。  私は擦り切れて痛む喉に、ぐっと力を込めた。 「おじいちゃん!」  けたたましいアラームが鳴る。びくりと身を震わせると、視線の先に白く飾り気ないクロス貼りの天井が映った。その直後、まるで突然そこに現れたかのように、体の感覚が戻ってくる。  目を覚ました私は、じっとりと汗を掻いていた。髪や布団がベタベタと肌に張り付いて気持ちが悪い。心臓はうるさいほどに早鐘を打っている。  ざわざわする心を落ち着かせようと、深くゆっくりした呼吸を繰り返す。数秒して、ようやく頭が冴えてきた。ここは間違いなく自分の部屋だ。  湿った手のひらを掲げてみる。気だるい体からは、現実であることを裏付けるように、痩せっぽちな十七歳の腕が伸びていた。  あの夢を見るのは、もう何回目だろう。  ついさっきまで頭を掠めていた映像がフラッシュバックする。不穏な終わり方をする夢は、ここ最近何度も夜中に忍び込み、私をじりじりと苦しめていた。  目覚めの悪さにうんざりしながら、緩慢な動きで起き上がる。背中には、機械油が滑っていったような、酷く重い嫌悪感が残っていた。  ふと、ベッドサイドの時計が視界の隅に入る。私は目を見開いた。 「ちっ、遅刻!」  七時四十五分。いつもなら身支度を完璧に済ませている時間だった。  大慌てで制服に袖を通し、髪型を整え、鞄をつかみ、部屋を転がり出る。悠長にしてなどいられない。私は、もつれそうになる足を何とか動かして、勢いよく階段を下った。  洗面所に駆け込み、顔を雑に洗い、踵を返して玄関に向かう。通りがかったリビングでは、お父さんとお母さんがご飯を食べていた。 「おはよう!」 「おはよう。寝坊なんて珍しいな。ご飯は?」  コーヒーを飲んでいたお父さんが、遠くから呼び掛けてくる。 「無理、時間がない!」  朝ご飯の香ばしい匂いに後ろ髪を引かれつつ、廊下から足を剥がしてローファーに滑り込ませる。 二年と半年履いているローファーはいい加減にくたびれて、初めの頃に感じていた硬さは少しも残っていない。  時間が過ぎるのは本当にあっという間で、ドキドキして臨んだ入学式も、新品だった制服やローファーと一緒に日常へ溶けて行った。  爪先をトントンと打ち付けながら、腕時計に目をやる。バスの到着時間が目前に迫っていた。 「やばい、間に合わないかも……」 「杏奈、お弁当忘れてるわよ!」  お母さんが、淡い小花柄の布で包まれた弁当箱を持って、パタパタと小走りでやって来る。 「ありがとう」  完璧に家事をこなし、家族を支えてくれるお母さんには頭が上がらない。  弁当箱を鞄に詰めると、私は玄関扉を押した。 「行ってきます!」 「行ってらっしゃい」  お父さんとお母さんに見送られて家を出る。いつもより慌ただしい、けれど何の変哲もない一日が、また始まった。  全速力でバス停に向かうと、ちょうどバスが着いたところだった。  先に並んでいた人たちに続いて、息を整えながらバスに乗り込む。車内はきっちりとスーツを着込んだサラリーマンや、似たり寄ったりの制服を身にまとった学生でいっぱいだ。  六月も終盤。受験シーズン真っ盛りの今、学生は皆一様に単語帳や参考書を開いている。席に座れた時は、私もあの中の一人だ。けれど、さすがに立ちながら勉強に励む余裕はない。私は、ただ静かに俯いてバスに揺られることにした。  むせ返るような暑さの中、ふと昨日見た夢のことを思い出した。あれは夢と言うより、実際の記憶と言ったほうが正しい。さしずめ、六歳の頃の印象深い出来事をつなぎ合わせた、短いフィルムと言ったところだろうか。  十年ほど前に亡くなったおじいちゃんは、冒険家を生業としていた。  世界中を飛び回る仕事だったため、おじいちゃんとの思い出はそう多くはない。けれど、そのすべてにきらきらと輝く夢の時間があった。それは、おじいちゃんが語ってくれる冒険譚だった。  未開の地へ行って新しい遺跡を発見したこと、危険な場所に立ち入り命からがら逃げのびたこと、言葉の通じない現地の人と仲良くなれたこと。  まるで信じられない話の数々に、幼い私の心は強く惹きつけられた。  ただ、あれほど夢中になったのは、おじいちゃんの話が面白かったからだけではない。  その頃の私は、教育熱心なお父さんたちの言いつけで塾に入れられて、毎日勉強三昧だった。初めは文句も言わずに通っていたものの、次第に友だちと遊ぶ時間が減り、置いてきぼりにされているのが切なくて、心底勉強が嫌いになった。  そうやって、不満と比例するように膨らんだ憧れを、おじいちゃんにぶつけていたんだと思う。  今考えると、ようやく小学校に上がったばかりの子どもを連れて世界を旅するなんて、到底無理な話だ。足手まとい以外の何物でもない。それでも当時は、頷いてくれないおじいちゃんも、私を雁字がらめにするお父さんたちも、とにかく自分以外のすべてが恨めしくて仕方なかった。  そんな私に、おじいちゃんは二つのものを残して旅立った。  方位磁石と、謎めいた言葉。  私は、小さな手に余るそれらを、割れ物を扱うかのごとく大事に抱えて待っていた。  けれど、おじいちゃんは行った先で帰らぬ人となってしまった。事故死だったらしい。  もう二度と、大好きなおじいちゃんに会えない。  それは私にとって、心を守る盾を打ち砕かれたような衝撃だった。  お葬式の日、私は絶え間なく泣き続けた。体のどこにそんな水分があったんだろう、と驚くほどに泣いた。  目蓋が赤く腫れた私を、何とか慰めようとしてくれたんだと思う。お父さんは、私の背中を摩りながら言った。 「冒険の中で生涯を終えられたのだから、少しは浮かばれるだろう」  止まりかけていた涙が、再び頬を伝った。  お父さんは何も分かっていない。  おじいちゃんが、私のことを置いていったから悲しいのに。  私だけ、辛い世界に取り残されたから泣いているのに。  怒りを覚えた私は、すすり泣きながらお父さんを睨み上げた。そこには涙の筋など出来ておらず、いつもより引き締まった顔がどんと構えていた。  早くに母親を亡くし、とうとう父親まで逝ってしまった。それなのに、お父さんはどうして泣かないでいられるんだろう。  不思議に思っていた時、参列していた大伯母さんの言葉がふと頭を過った。 「賢雄(たかお)のために泣いてくれてありがとね」  そうだ。ここにいる人は皆、おじいちゃんのために集まっている。おじいちゃんのために泣いている。  きっとお父さんも、おじいちゃんのために涙を堪えているんだろう。  だって、皆が皆泣いていたら、おじいちゃんは天国に行けないから。  涙の色を見比べて、その違いが浮き彫りになる。私の涙は、おじいちゃんのためじゃなかった。置いていかれた私を慰めるための涙だった。  おじいちゃんの死をちゃんと悼むことが出来ていない自分に対して、途端に嫌気が差す。  私はいつだって自分のことばかり。  悲劇のヒロインだった都合の良い舞台から引きずり下ろされ、現実へと突き返される。  本当におじいちゃんのことを思うなら、泣いてはいけない。少なくとも、この涙は流してはいけない。そう心の中で唱えると、涙は自然と引いていった。  そうして澄んだ小川のように月日は流れ、また日常が舞い戻って来た。ただそこに、おじいちゃんの残した言葉だけが、淡い影のようについて回った。  学校、塾、家、友だちと遊ぶ公園。代わり映えのしない場所を巡る単調な日々の中、頭の片隅ではいつもあの言葉のことを考えていた。  謎を解き明かす欠片は、いつも近くにあったらしい。歳を取るたび、少しずつ積み重なっていく感覚があった。深層心理ではずっと前から分かっていたんだと思う。押し止めていた答えは、ある日、頭の中でパチンと弾けた。 「数多くの人がいる社会で、地味に生きなさい」  誰が正解と言った訳ではない。それでも、私にはそうとしか思えなかった。  どうしてそんなことを言うんだろう? 最初はこれっぽっちも理解が出来なかった。だって、これはおじいちゃん自身を否定する言葉に他ならない。誰よりもまっすぐ夢に生きた人が、こんなことを言うだろうか。  けれど、そんなもの、周りを見渡せば一目瞭然だった。  その日の生活もやっとで、明日を生きられるのだろうかと怯え、ただ忙しなく時間だけが過ぎていく。不安定な道を選んだ人の、何と大変そうなことか。  きっと、おじいちゃんも、冒険家という道を選んだばかりに苦労したんだろう。  自分の二の舞にならないよう、私に教えてくれたのだ。安定した道が一番だと。  その瞬間、おじいちゃんが語ってくれた数々の話でさえ、まるで子ども騙しのハリボテのように思えてしまった。  私の鬱屈した世界を鮮やかに覆してくれるものなんて、きっと、地球上のどこを探しても見つからない。理想は理想に過ぎなかったんだ。  思い描いていた未来は急激に色あせ、吹きすさんだ木枯らしが、残りわずかなときめきすらも奪い去っていった。 「勉強は必ず将来の役に立つよ」  そんなとき、お父さんたちは、おじいちゃんの言葉を後押しするかのように言った。  それから私は、以前にも増して勉強に明け暮れるようになった。夢も魔法もないのなら、せめて今この手にある小さな幸せを逃さないようにと。 「名前もない小さな星のようになりなさい」  挫けそうになったときは、いつもおじいちゃんの声が頭を過る。重みのある言葉が、ぎゅっと私の心を引き締める。そして気がつけば、高校生活最後の年になっていた。  誰とも知れない咳払いの音が思考を叩き、ハッと顔を上げた。視線の先には、相変わらず参考書とにらめっこする学生たちの姿がある。おじいちゃんの言葉を肯定するような景色に、私はほっと胸を撫で下ろした。  窓に映る生真面目な長い黒髪と、重い目蓋の自分が見つめ返す。満員のバスの中、私は吊り革をしっかり握り、窮屈さに耐えながら学校を目指した。  私の通う高校は、どこにでもある平凡な公立高校だ。特別部活に力を入れているわけでもなく、授業が極端に難しいわけでもない。ごくごくありふれていて、常に緩慢とした空気が流れる場所だと思う。  先生とお父さんたちには、他の進学校に行くことを勧められていた。でも、私は突っぱねた。家から近い方がいい。もう塾だって必要ない。ここぞとばかりに成績を引き合いに出し、私はゆとりのある生活を勝ち取った。  すごく苦い顔をされたけど、結果的に今の学校で良かったと思う。穏やかな校風は心地がいい。例の進学校はギスギスしてるって聞いたし、私には絶対合わなかっただろう。  学校に着くと、もうほとんどのクラスメイトが教室に集まっていた。朝から明るい話し声で溢れており、ほどよく活気づいている。 「おはよう」  自分の席に向かう途中で、談笑をしている舞子と早希に声をかけた。 「おはよう杏奈、今日は遅かったね」 「うん、ちょっと寝坊しちゃって」 「珍しいね」  二人が顔を見合わせ驚いていると、そこにひとつの足音が近づいてきた。 「杏奈ーっ! 助けて!」  ノートを抱えた愛理が、半べそをかきながら駆け寄って来る。私は心の中で身構えた。 「数学の宿題が全然分からないの! お願い、ちょっと見せて!」  思った通りだ。愛理は両手を合わせて、お決まりのおねだりポーズを取っている。 「いいけど、間違ってても知らないよ?」 「大丈夫! 杏奈なら絶対大丈夫!」  念を押され、私は愛理にノートを渡した。 「あんたさぁ、写してばっかりだから分からないんじゃないの? いつまでもそんなんじゃ、自分の力にならないんだからね」  呆れた様子で言う舞子に、愛理はぶうぶうと頬を膨らませる。 「わかってるよーだ! だいたい数学は諦めたし!」 「うわ、開き直った」 「私は国語と英語で勝負するの!」  愛理はそう言うと、私に礼を告げ、上機嫌で自分の席に戻っていった。 「全くもう、あれじゃ先が思いやられるわ」  溜息をつく舞子の袖を引っ張り、早希がトイレに行こうと誘う。 「杏奈は行く?」 「私は大丈夫」  私の返事を聞くと、舞子たちは連れだって教室を後にした。二人を見送ってから、とぼとぼと歩いて自分の席に腰を落ち着ける。  その途端、私の足元はぐらりと揺れた。  またこの感じだ。  ふとした時、心の一部をちぎり取られたような感覚に陥る。  愛理にノートを貸したとき、教室で一人になったとき、思ってもない言葉に頷いたとき。  たぶんそれは、私の努力とか存在意義を奪われている恐怖なんだと思った。分かってはいるけど、誰にも言えやしない。だって、自分の不幸を他人のせいにしているみたいだったから。  ただ漠然と、大人になってもこういう人生になるのかなと考えてしまう。自分以外の誰かに振り回される、やるせない人生に。  私は感じた不安をごまかすよう、くたくたになった参考書を開いた。長年のうちに習慣づいた勉強という行為は、一種の精神安定剤になっている。けれど、最近はどれだけ机に向かっても手応えがない。空いた穴から、勉強したことがポロポロと零れていっているような気さえした。 「おい瑶太、今度は何する気だよ」  参考書にかじり付いていると、教室の外から一際大きな声が聞こえた。  目を向けると、廊下には同級生の男子が数人集まっていた。輪の中心にいる男子は、指で鼻をこすりながら意気揚々と答える。 「へへっ、面白いこと!」  その男子に見覚えがあった。確か隣のクラスの倉科(くらしな)瑶太(ようた)という生徒だったと思う。常に明るくはつらつとしていて、自然と周りの注目を集めている。クラスの変わり者というやつだ。  気取らない短髪に少し焼けた肌。子どもっぽさの残る風貌からは、とても親しみやすい雰囲気を感じる。私とはまるで正反対だ。 「えっ、ちょっと! お前それはやめとけって!」  彼らの様子が気になって見ていると、人集りのうちの誰かが声を上げた。ここからではよく見えないけど、彼は周りの制止も聞かず何かを始めたらしい。  周辺が騒がしくなり、通りすがる生徒も一瞬目をやっている。けれど、大して驚くことはない。彼が校内で度々いたずらをして先生に叱られていることは、周知の事実だからだ。  ぼーっと眺めていると、突然大きな破裂音が響いた。一体何をやらかしたというのだろう。 「こら、またお前たちか!」  音を聞き付けた先生が、彼らに鬼の形相で迫っていく。地響きのようなその足音に、近くの生徒は身をすくめた。 「うわっ、吉田の野郎が来た!」  男子生徒たちは叫びながら逃げていった。  あれで本当に高校生なんだろうか。  彼らに呆れて、勉強を再開しようと体の向きを直す。けれど、走り去る彼らの横顔に、なぜだか目が釘付けになってしまった。  窓から入る光が、彼らをきらきらと照らし出す。怒られているというのに、彼らはどことなく楽しそうに、いたずらっぽく笑っていた。私の小さな瞳の中で、彼らは思いのままに踊っていた。  どうして目が離せなかったんだろう。  理由は分からない。けれど、突き詰めて考えるのは止した方がいい。そう本能が訴えていた。  妙な胸騒ぎがする。じりじりと時間をかけて焦がされるような、コンクリートの地面で肌が擦りむけたような、そんな痛みが胸にわだかまっていた。  私は思いきり頭を振ると、強引に参考書へ目を戻した。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加